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Ep.17-3 黄金の幻影

 女神像というのを、ミダは幾つか目にした事がある。それらはどれも、得も言われぬ美しさだった。彫刻家達がそれぞれ思い描く理想の美を目指しているからだ。しかしそれは、逆に言うならば、作り物であるからこそ存在する美しさなのである。とても現実のものとは思えなかった。

 だが、目の前に居る女――娘と呼べる幼さも、老いも若さも感じさせぬ女は、まさにそれだ。あたかも作り物の如き洗練され切った容貌は荘厳さを帯びて、何者も寄り付く事を許されぬ様な、神聖ささえ放っている。吸い寄せられる様でいて、突き放される様でもある。

 その場に居る全員、クラウスさえもがその姿に見入っていると、神の偶像は口を開いた。

「どなたでしょう?」

 風が微かに葉を揺らす様な声。それに当てられたかの如くに、ルッツが顔をくしゃりとさせる。

「……テレーゼさん……」

 女を呼ぶ声は、ほう、という吐息の中に蕩けていた。女は小さく首を傾げ、訳が解らぬと言う風に問い返す。

「テレーゼ? いえ、わたしはエリーゼですけれど……」

 困った様に薄く微笑む。

「でも、貴方は……」

 瓜二つだ、という後に続く言葉は、呻き声となって喉の奥で押し潰されていった。

 この場所に、テレーゼという女は住んでいたのだろう。死んだはずの女の生き写しが、同じ場所に平然と暮らしているが、しかし別人だと言う。ルッツの狂おしい程の懊悩が、ミダにも手に取る様に解った。

 ルッツは知らないのだ。死者の肉体に別の魂を宿す術がある。それは死人を蘇らせるものではない。外見は同じでも、中身は違う人間になる。

 だが、ミダが見るエリーゼと名乗る女は、かの巫女とは違っていた。生きているのだ。緋色の瞳は濁り無く、表情は軟らかく緩やかに変化する。

 よく似た他人――ルッツには悪いが、ミダにはそう思うより無かった。

 不意に、クラウスが歩み出る。エリーゼに擦り寄るでもなく、また吠え立てるでもなく、エリーゼの手が届くか届かぬかの距離に立ち尽くし、見上げる。

「まあ、大きな犬」

 エリーゼはしゃがみ込み、クラウスの目を見詰める。

「綺麗な目……貴方は少しも怖い犬じゃないのね」

 互いの視線を一直線にかち合わせ、微動だにしない。

 ルッツは口惜しげに奥歯を噛み締める。エリーゼはかつて愛した女でもなく、クラウスはそれを殺した男でもない。だが偶然とは思えぬ合致が多過ぎた。

 そんなルッツを押し退け、一歩前で出たエスが言う。

「突然お訪ねして申し訳ない。我々は旅行者です。ここらで宿を取ろうと探し回っているのですが、どこかご存知ではありませんか」

 エリーゼに何と答えさせようとしているか、ミダには大体の見当が付いた。

「いえ、この近くには……城下へ出ればいくらかはあると思いますけれど」

「それは弱りました。子供がもう歩けんと駄々を捏ねていましてね。それに、そろそろ日が暮れそうだ」

 不安げな顔を作って、西に傾く太陽を仰ぎ見る。エリーゼは立ち上がり、躊躇いがちに言った。

「でしたら……うちに泊まりますか?」

 その言葉を待っていました、とばかりにエスは破顔する。

「助かります。いや、悪いなあ」

 白々しく謙虚ぶる。

「いえ、部屋ならいくらでもありますから」

 エリーゼは困り顔のまま、家の方へ向かって行った。

 美人と見ればすぐこれだ。ミダは呆れ返ってものも言えない。エスは、この家や彼女に奇妙さを感じていないのか。何を考えているのか読めないのはいつもの事だが、今度ばかりは剰りにも軽率だ。

 胸騒ぎを抱えつつ、ミダはエスに続く。エリーゼが戸を開けた時、振り返って見遣れば、ルッツはまだその場に立ち尽くし、俯いている。エスは何も言わず、導かれるに従って家の中へ入って行く。普段なら外で待っているクラウスさえ家に入り、とうとうルッツは独り残された。

 声を掛けるべきか否か。ミダが思い倦ねていると、ルッツはやおらに顔を上げ、意を決した様に足を動かした。


 エリーゼはこの広い屋敷に独り暮らしだと言う。母親は幼い頃に亡くし、父親とも数年前に死別した。どこの誰とも知れぬ連中を家に上げるなど、女の独り身にしては不用心だが、流石に警戒はしている様子で、紅茶を入れながらもチラチラとエスの方を振り返っていた。

「ここには以前から?」

 エスは遠回しに、村の事を知っているのか尋ねた様だ。当然の疑問である。エリーゼは食卓の、一行から少し離れた椅子に腰を下ろしながら、

「いえ、まだそれ程は。静かな暮らしが欲しくて、越して来たばかりです。村の事もあって、誰も寄り付きませんから」

 エスが聞かんとする事を察してか、答えた。

 ルッツはエリーゼの一挙手一投足をまじまじと見ていた。紅茶に手を付ける事もせず、ひたすらエリーゼを眺めている。唇の動き、カップに添えられた指先。まるで意識の全てを注いでいるかの様だ。

 ふと、エスの足元に腰を据え、水を嘗めていたクラウスが立ち上がり、廊下の方へ頭を向ける。そしてそのまま、足音も無く奧へ消えていった。エリーゼは気付いていないのか、或いは全く意に介していないのか、静かに紅茶を啜る。

 暫くエスとエリーゼの間に会話が為されるが、どれも世間話や雑談の類だった。一行の旅の目的をでっち上げたり、農作物の話だったりと、ルッツやミダが感じている疑念や違和感に関わる事は一切触れない。エスはエリーゼの警戒を解くのを楽しんでいる様子で、ミダは苛立ちを覚える。

 一頻り喋り、紅茶を飲み干した後でエスが、さて、と腰を上げた。

「ちょっと村で気になる事がありましてね、見てきますよ」

 それは置き去りにしてしまった遺骸の事だろう。エスの性格上、野晒しに放置しておく事は出来ないはずだ。そうですか、とエリーゼは微笑む。

「お気を付けて。この辺りは夜になると明かりもありませんから」

「ええ。それでは」

 エスは何も言い残さず、出て行ってしまう。途端に、ミダの不安が堰を切って溢れ出した。エスの傍に居れば何だかんだ身の安全が保証されるという打算は、既にエスのもとを片時も離れたくないという純粋無垢な形に変容していて、その想いが不安感から今にも瓦解してしまいそうな心を支えていたのだ。

 今すぐに椅子から飛び降り、追い縋りたい衝動を、ミダは堪える。自ら進んで死体を見たいとは思わないし、今の状態のルッツから目を放してはいけないと、そうも思う。一人で戻ったのも何らかの意図があっての事かも知れない。

「……エリーゼさん、でしたか」

 ミダの煩悶をよそに、ルッツが徐に口を開く。

「貴方はよく似ているんです。僕の知っている人に。かつてこの屋敷に住んでいた、貴方の語ったのと同じ境遇の、僕が愛した女性と、そっくりなんですよ」

 エスという歯止めを失った事で、溢れかえるありとあらゆる感情を口から出るに任せる様だった。その目にはうっすらと涙を浮かべ、エリーゼの翡翠色の瞳を注視しながら、言葉を紡いでいく。

「でも違うんです。彼女は貴方程お喋りじゃなかった。貴方程よく笑わなかった……貴方は、誰なんですか」

 自棄(やけ)になっている。投げ付ける様な声は、虚しい響きをしていた。

「わたしはわたしです。他の誰でもありません」

 エリーゼはそう答え、微笑を浮かべる。ミダには、それが酷く不自然に見えた。

 突然ぶつけられた問いは、彼女が名乗る通りの女なら、理解も出来ないはずだ。しかし当惑する素振りは一切無く、寧ろ、愚問だと言わんばかりの余裕を見せる。

 それが意味するところは、ミダにも解らない。だが、女の塗り固めた嘘が、少しずつ剥がれ落ちていくのを悟った。鍍金(めっき)が全て剥げた時、その下から覗くのは、どんな顔か。きっと、見るもおぞましい何かだ。

 日が落ちていく。居間の空間を、徐々に闇が埋めていく。窓からは月明かりさえ差し込まない。ミダの隣に座るルッツの横顔、手元の食器、エリーゼの顔。全てが陰り、暗闇に溶け込んでいく。何もかもが消え去ろうという間際、エリーゼが蝋燭に火を灯した。

「あの犬はどこへ行ったのかしら?」

 赤く照り出されたエリーゼの微笑が、独りごちる。そして燭台を手に立ち上がると、クラウスの消えていった廊下の方へ行こうとする。エリーゼを追おうとルッツも立ち、ミダも続いた。

 エリーゼの持つ灯りを頼りに、廊下を進む。ミダの前後には無限とも思える闇。さながら、地獄の底へ案内されているかの様だった。

「『愛』というものは、一体何なのでしょうね」

 エリーゼは振り返らず、足も止めぬまま、不意にそんな問いをする。その答えを、ルッツもミダも返さない。突然の事だからではない。その質問が、まるで自問する様だったからだ。口振りが、他者の解答など求めていないのだ。

「わたしはこう思うんです。夜の中で融け合う事……暗闇に蕩けて、一つに混じり合う事が、『愛』なのではないか、と……」

 愛する人とは一つになりたいものでしょう、と継いで、フフ、と声を立て、笑う。

 その突如、不快感がミダの胸を襲った。吐き気にも似た嫌悪感が込み上げてくる。体中の全細胞が何かを拒絶しようと、悶える様だった。

 ふと、蝋燭の火が消える。一瞬にして、ミダの視界は闇の帳に奪われた。

 ミダは反射的にルッツの名を叫び、手を伸ばした。すると、ルッツにしっかりと掴まえられる。

「どこです? どうして灯りを消したんですか!」

 闇の中でいくら呼び掛けても、エリーゼの応答は無い。寧ろ、その姿さえ消してしまったのか、ルッツの声は延々と伸びる廊下に木霊した。

 ミダの体中を冷たいものが舐め回して行く。服の中に暗闇が忍び込んでくる様だった。そして嘗められた先からじっとりよ冷や汗が浮かぶ。

 ルッツの手を握る、その手を放してしまったが最後、闇の中に引きずり込まれ、二度と光の中に戻れぬかも知れない。そうした悪寒が、ミダの手に一層の力を込めさせた。ルッツも同じ事を思ったのだろうか、

「この手を放しちゃ駄目だ! 良いね?」

 と、ミダに告げ、壁伝いに足を進めだした。引き返そうと言うのではなく、窓のある部屋に入れば、いくらか明かりを得られるのではないかと考えたらしい。決して英断とは言えない。奧へ進む様仕向けられた罠である事は否定しようも無く、ルッツの掌に汗が滲むのを、ミダは手袋越しに感じていた。

 二人はゆっくりと歩みを進める。一向に目が慣れない。ほんの僅かな光さえ、この廊下には届いていない様だった。一歩一歩足元を確かめながら、手探りで壁をまさぐりながら、少しずつ、奧へ奧へ向かう。こんな時にエスが居れば心強いのに、どうして肝心な時に限って居ないのだと、ミダは心の中で不平を漏らした。ルッツは頼りにならないと小刻みに震える手が教えている。

 ふと、ルッツがミダを呼ぶ。一枚のドアを見付けたらしい。ルッツはドアノブを探り当て、

「開けるよ……?」

 とミダに言った。ミダは見えていないと知りながらも、自らの意を固める様に頷いた。

 ルッツは思い切り、素早くドアを開け放つ。途端、青い光が溢れ、ミダは眼を細めた。漸く有り付いた月明かりは、完全な闇の中で浴びれば、目も眩む程なのだ。

 扉を開けたままの姿勢で、ルッツが硬直する。ミダも部屋の光景を見て、驚愕した。

 月明かりに浮かび上がる素肌。絡み合う四肢。結び合う指と指。

 覆い被さる男。下の女は――エリーゼ。

「ねえ、愛って何かしら?」

 囁く声がする。それはルッツの耳元で、ミダの耳元で、吐息を吹きかけながら、甘く、切なく、嘲笑を込めた、女の声だった。


 エスは舌打ちをする。足元には漠然と広がる雑草の群れだけがあり、女の死骸など何処にも無い。はなから存在しなかったかの様に、忽然と消え去っていた。

「俺を謀ったのか、クラウス……!」

 独りごち、墓標を仰ぎ見る。東の空は漆黒に塗り潰されている。

 いや、とエスは小さく頭を振る。

「邪魔だとでも言うのか!!」

 込み上げる怒りに胸を震わせ、エスは走り出した。

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