Ep.17-2 黄金の幻影
「でも変じゃないか? 殺した奴も死んでる」
ミダは訊ねつつ、ルッツの顔を覗き込んだ。ルッツは湛えた憎悪を消し切らぬまま、ミダを見返す。
「……死んでないよ。絶対に、死んでない」
掠れた低い声で、そう断言する。
「姿を眩ませただけなんだ。今もどこかで、のうのうと生きてる。必ず。だから、僕が……」
殺してやる――そう言う言葉は喉の奥に押し止めた様子だった。ただ、銃を背負う肩紐を握り締めるそこには、並々ならぬ決意がある。
ミダはちらりと振り向いて、クラウスを見る。同じ名を付けられた犬に関連がある訳が無い。ただ、ルッツの背へ真っ直ぐに視線を注ぐクラウスに、ミダは何か意思の様なものを感じていた。獣のものとは思えない、理性的な思考だ。
単なる思い違いとは思えない。ミダが見てきたクラウスは、まるで人語を解するかの様だったし、行動もまた人間に近しい所がある。
ミダの胸中で虫が蠢いていた。見れば見る程に、クラウスの目の色は、哀れむ様な、それでいて蔑む様な光を帯びて見える。
不意に、ミダの視界に人影が現れる。エスのすぐ後ろに、いつから居たのか、幽鬼の様に佇む者があった。ミダは飛び上がり、エスに向けて叫ぶ。エスも振り返り、漸くその存在に気付いた。
女だ。痩せ細った、殆ど骨と皮とだけに成り果てた手を、だらりとぶら下げている。身に纏った衣服は端から破れ、汚れ、最早形を失っている。歳は判然としない。中年の様であり、老婆の様でもある。伸びるに任せ、手入れもされていないだろう灰色の長髪は、絡まりながら腰程まで垂れている。その隙間から覗く目は虚ろ。まるで生気が感じられない。締まりなく開かれた下唇から、涎が垂れた。
「貴方は……!」
その場に居た誰よりも驚愕したのはルッツだった。しかし、彼だけはその理由が違う。地の底から涌いて出た様な女の佇まいに畏怖してるのではなかった。
「どうしてここに?! 城に保護されているものとばかり……」
ルッツは女の元へ駆け寄って行く。しかし女は答えず、心ここにあらずとばかりに、一切の反応を見せない。
「知り合いなのか?」
エスの問いに、ルッツは頷く。
「この村でたった一人の生き残りなんです。ただ……」
ルッツは眉根を寄せて言い淀んだ。どうかしたのか、と問い返されて、漸く言葉を繋ぐ。
「……心を病んでしまったんです。酷い有様でしたから……それで、城の方に保護されたんですが……」
それが何故かここに居る。
精神が破壊される程の光景――ミダには想像も付かない。ただ凄惨なものだったのだろうという事しか解らない。
そんな惨劇を生んだのがクラウス・フォン・キルヒアイスなら、その男は一体、どんな人間なのだろうか。ひとの心が欠落した人間。それは最早、人間ではないのかも知れない。
人間でないのなら、野獣か。
そう思い至った時、ミダは得体の知れない恐怖を感じた。見上げれば空は青く、雲がゆったりと流れていく。だが、眼前にそそり立つ墓碑は黒々として、徐々に迫り来る錯覚を起こさせる。それは深い闇に飲み込まれていく様でもあり、ミダは影から逃れるべく、慌てて日の当たるエスの傍へ駆け寄った。
「どうしたんですか? 何故ここへ?」
ルッツが何をどう訊ねても、女の耳には届いていなかった。まるで他者の存在を認知していないかの様だ。ルッツが覗き込んだ目は、焦点が定まっていない。
女は何かを呟いている。その声は痰が絡み、聞き取れるものではなかった。ルッツが何度も聞き返しながら、口元に耳を寄せる。
「……あの娘が戻って来た!」
唐突に、唾液を迸らせ、女が叫ぶ。不意を突かれ、ルッツは尻餅を突いた。
「出て行け! 村からァ、中からァ!! ああ、あああああ、ああああああああァァァアア……!!」
喚き狂い、髪を掻き乱し、身体を仰け反らせ、白目を剥く。手も付けられぬ様相に、一同呆然と見守るよりなかった。
「あ、あの娘って……あの娘って、誰の事ですかッ」
腰を抜かしたまま問うルッツの言葉は、女の絶叫に掻き消される。
やおら、女の叫びが途切れたかと思うと、仰向けに倒れた。咄嗟にエスが駆け寄り、抱き起こす。女の手がエスの胸倉を掴むが、激しく痙攣し、そしてやがて、ずるりと解けて落ちた。
「……死んだ」
手首の脈を取るが、ぴくりとも血の流れる気配は無い。女の死に顔は、見えない恐怖に戦き引き攣ったままで、エスには直視出来ず、目を逸らしながら亡骸を横たえる。
沈黙の中、風が地を嘗め、ざわりと音を立てる。それに呼応する様に、ミダの足元から怖気が上り、総毛立った。小刻みに奥歯の打ち合わせる音が耳の奧でする。
「あの娘? 『娘』って……いや、まさか……」
歯の根の合わぬ口振りで、ルッツが独りごちる。そして徐に立ち上がると、俄然駆け出した。ミダの横を擦り抜け、何処かへ向かおうとする。
「ルッツ!」
一瞬の逡巡の後、エスもルッツを追い、走る。ミダは女の死骸を見遣りながらも、エスの後に続き、クラウスもそれに従った。
ルッツは何度も躓きつつ、村の郊外を目指し直走る。エスやミダが呼び止める声は聞こえない。一心不乱、無我夢中。何かに取り憑かれたかの如くに駆けるルッツの足は速い。
漸く二人が追い付いたのは、ルッツが立ち止まった時だった。
そこは一面の畑。よく耕された土は柔らかく、瑞々しい葉が整然と並ぶ。遙か彼方、地平線の上には青々とした山並みが、蒼空の中に溶け込んでいる。
そんな景色を切り取る様にして、古屋がぽつんと佇んでいた。屋敷と言っても良い、立派な作りをした家だ。それでも孤独な印象を与えるのは、広大な土地の上にあるからか、或いは、生命の匂いに充ち満ちた雰囲気が、荒廃した村と剰りに掛け離れているからか。
「まさか……そんな……!」
ルッツが驚きの声を口にして、また走り出す。今度は屋敷の傍らに立つ、一本の広葉樹へ向かう様だ。
近付くと、樹の足元、木陰になる所へ一脚の長椅子が据え置かれ、そこに腰掛ける一人の女の後ろ姿が見える。白みがかった金髪は軽くうねり、木漏れ日を浴びて清流の様にきらりと輝いた。
「ああ、間違い無い! けれど……あの人は……!!」
域の切れ間から呟く声が、ルッツの駆け抜けた後に残る。そんな筈は無い、いや、けれど見間違えるはずが無い。自問自答を繰り返す度、ルッツの胸が焼き焦がされていくのが、ミダにも伝わる。
ルッツは叫んだ。
「テレーゼさんッ!」
それは死んだ女の名前だった。しかし、その声が女の耳に届き、一度軽く顔を向けた後、応える様に立ち上がり、身体ごと振り向いた。
「お姉様はまだお戻りにならないのですね」
窓辺でマリナが溜息を吐いた。カティアが城へ向かってから随分と経つ。詰まらなく思っているのはルートガーも同じだ。けれど、そんな心情はお構い無しとばかりに、黙りを決め込むルートガーにマリナは尋ねる。
「いつになったらお戻りになるのですか」
「ぼくが知る訳無いだろう?」
苛立ち紛れに怒気を込めて言葉を返した。ごめんなさい、とマリナがすんなり詫びるものだから、ルートガーはまるで自分が悪人である様な気にさせられた。
見くびられていると、ルートガー自身解っていた。兵士の前で口を達者にする奴隷など、その場で斬り殺されても当然だ。しかしマリナは、ルートガーがそうする事も、また高圧的に振る舞う事も出来ないのを知っていて、不躾な口を利く。
だとしたら怖い娘だ。ルートガーは思う。可憐な顔をして、腹の底で何を考えているか解ったものじゃない。
階下からルートガーを呼ぶ声がする。降りて行くと、宿に軍事郵便が届けられていた。兵士達に届けられる家族からの手紙は、長く国元を離れる彼らにとって、掛け替えの無い慰めだ。ルートガーも、妹が近況を綴る手紙を楽しみにしている。
配達に訪れた帝国の兵はディーター・フィンクを名乗る、薄ら笑いを浮かべた軽薄そうな男だった。ルートガーへ手紙を手渡す際、差出人を見て、
「恋人ッスか? 可愛い娘なんでしょうな」
と軽口を叩く。ルートガーは苦笑いで受け流した。
ああ、そうだ、とフィンクはやおらに懐に手を差し込み、郵便の束とは別に、一通の手紙を取り出した。しっかりと封がされ、表に「マリナへ」とだけ書かれた、質素なものだ。
「これ、ええっと、マリナって娘がこちらの世話になってるでしょう? 渡しておいて欲しいんスが、頼めないッスかね?」
「彼女に? でも、彼女は……」
慰め女だ、と言いそうになり、口を噤む。そんな風に呼び、虐げる事はルートガーの意図する所ではないが、ここの所の腹立たしさがつい口から零れそうになったのだ。
いやいや、とフィンクは顔の前で手をひらひらと振った。
「以前ちょっとばっかし世話になった事がありましてね。まあ、こいつは個人的なモンなんスよ」
そう言いながら、お願いしますよ、と差し出してくる。決して気持ちの良い物言いではなかったが、頼まれては断れる訳も無く、ルートガーは仕方なしに受け取った。
「じゃ、頼みましたよ、旦那」
ヘラヘラと笑い、フィンクは出て行った。
フィンクからの手紙をマリナに手渡すと、マリナはルートガーに背を向け、そっと中を確かめた。すぐに読み終え、手紙を大事そうに抱えて振り返る。そして落ち着きを失った様子で、ルートガーへ向けてこう言った。
「少し、外出を許して頂けませんか? その……外の空気を吸いたくなったものですから……」
目を泳がせながらしどろもどろに言う様子を見て、ルートガーには大概の事が解った。きっと手紙の内容は、どこどこで会えないかというものだろう。二つ返事で了承した。それが剰りにもあっけらかんとしていた所為か、マリナは酷く驚いたが、ルートガーにしても考え無しに認めたのではない。
フィンクは以前世話になったと言った。恐らくは世話役としてだ。だが、もしそれだけの関係ならば、マリナも呼び出されるに従う理由は無い。寧ろ会わぬ方が良いだろう。しかし、応じるという事は、マリナの側にもそれだけの気持ちがあるという事だ。
ひとの逢瀬を邪魔する様な野暮な真似はしたくないし、もし逃げ出そうというのならそれも一向に構わない。その方がルートガーには都合が良いのだ。きっとカティアだって構わぬだろう。
それでは、と訝しげに一礼して、マリナは出て行った。
「やあ、来たね」
人目に付かない路地裏で、出迎えたフィンクが大仰に手を広げる。まさかこの男自身が出張ってくるとは、マリナは思ってもみなかった。軽く頭を下げるだけの挨拶をすると、フィンクは、つれないなあ、と指を鳴らした。
「呼び出された、って事は……もう解ってるだろうねえ?」
決行の時が近い、という事だ。マリナが小さく頷くと、フィンクはニヤリと笑い、今夜だ、と言った。
「今夜……?」
「そうだよ。早い方が良いだろ? お前が自由になるのは、さ」
フィンクは、三枚目を気取ってはいるが、その中身は狡猾な蛇だ。
軍での身分は不明。「男爵様の僕」と自称するが、実際の所はマリナにも解っていない。ベックマンへの忠義がある様には見えず、また出世欲がある様でもない。常に飄々として、雲の様に掴み所のない男だ。ディーター・フィンクというのが本当の名なのかさえ怪しい。ただ、この蛇が動く時は、裏にベックマンの密命がある。それだけは確かな事だ。
そう、その密命というのが、全ての元凶だった。奴隷市場でマリナを買い、そしてベックマンに差し出したのが、フィンクだった。
「自由になりたいだろ? あのデブに毎晩毎晩、殴られ舐られするのは、もううんざりだろ? 解るなあ、その気持ち。同情しちゃうよなあ」
言葉とは裏腹に口の端を引き攣らせ、マリナの顎を持ち上げる。マリナはフィンクから視線を外した。
虫唾が走る。ひとを道具としか見なしていない癖、良くもそんな言葉が吐けるものだと、マリナは嫌悪感に胸を掻き毟られる。
だが、マリナは道具が故に、反抗は許されななかった。
フィンクは、歯の隙間から洩らす様な笑い声を立て、マリナを放した。
「そいじゃ、コレでやってもらおうかな」
そう言って懐から出したのは、短剣である。柄には紋章が刻まれている。それはマリナも知っている、キルヒアイス公爵家の紋章だ。
「あと、コレ」
もう一つ取り出したのは、小瓶だった。マリナは直ぐ様、その中身が何であるのかを悟った。




