Ep.16-2 黄金の神に
藪から棒。ひとを煙に巻く様なあやふやな言葉の続く巫女にあって、その一言だけは、はっきりと明確な意味を伴う。不意のリアリティは、エスを困惑させた。だが言葉の裏にある思惑は解らない。
「何を……」
馬鹿げた事を、という二の句は、エスの口の中で掻き消えた。神がそう仰るのです、と巫女は付け加える。
「神はこの子を介し、わたくしを介し、貴方の子を欲しておられる」
ゆっくりと立ち上がり、作り物の笑顔をそのままエスへ向けた。
「嗚呼、素晴らしい。何とも素晴らしいですわ。この百年で一番に素敵なお預かり。百年の貞節が、報われるのですから!」
気が触れている。いや、とうの昔から、巫女は狂気に支配されている。ミダの身体を巫女に明け渡し、ミダの身体をした巫女と交わる――そんな事は出来る訳が無いのだ。善悪の判断がつく者、最小限でも人間の心がある者なら解るだろう。だが巫女は解っていない。
最早、巫女は人間ではない。全ての生物、全ての人間に与えられた、生と死という二つの絶対的な束縛を断ち切り、神の領域に踏み込んだ結果が、この狂信に満ちた、得体の知れない化け物だ。
「……ミダを返して貰う」
巫女から目を逸らし、ミダの元へ足を向ける。
「もう遅いですわ」
巫女の一声に、エスは足を止めた。
「儀式はもう始まっています。その子の命はゆっくりと抜けつつある……」
「貴様ッ!」
カティアが剣を抜き、怒号を放った。
「止めろ! 今すぐに!!」
「無理だわ。中止の方法は教わっていないから」
剣を構えられても、巫女は動じない。
「わたくしを殺した所で、どうにもなりませんわ」
無力をせせら笑う。
スケグルは呆然と立ち尽くしていた。こんな女の為に命を捨てる覚悟をしていたのかと、自責の念に駆られる。もっと早くに気付くべきだった。そして間違いを正すべきだった。彼女の忠義などは、単なる盲信だったのかも知れない。カティアの言う通りだ。スケグルは奥歯を噛み締めた。
「起きろ! こんな所で死ぬな」
エスはミダの身体を揺り動かす。だが反応は無い。ただ眠っているだけの様なのに、唸り声を上げる事も、迷惑だと手を払い除けられる事も無い。掛ける言葉は虚しく響いた。
何を仰るの、と巫女が言う。
「死ぬのではないと申したのに。その子はわたくしとなって生まれ変わるのです」
巫女へ怒りをぶつける事を、エスはもうしなかった。そうした所で無駄に終わるのはもう知っていたし、何より、ミダを失う事が怖くて、悲しくて、その一心だった。
「起きろ。起きろ、ミダ! 聞こえているだろう!!」
起きろ、と、眠りこけていたミダは蹴り起こされた。寝惚け眼をぱちくりさせながら、重い頭を持ち上げる。
「ほら、行くぜ」
呆れた様に少年が言う。ミダは少年の事を兄貴と呼んでいた。
「行くって、どこに?」
「寝惚けてんじゃねぇよ。仕事の夜だってのに、呑気に眠り呆けやがって。だからガキは嫌いだ」
腕組みをして言う少年は、ミダより二つか三つ年上。彼だってまだ子供だ。
ああ、そうかと、ミダは漸く思い出す。そう言えば今晩は商家へ盗みに入る約束だった。あくどい商売でたんまり溜め込んだ金を、一切合切盗んでしまおうという計画だ。
飢えでどうしても堪らなくなり、初めてやった盗みは見事に失敗だった。それはそうだ。どうやったら良いのかを知らない。だからすぐに捕まって、痛い目を見た。そんなミダを助けてくれたのが、兄貴だ。
兄貴は泥棒の名人だった。通行人に気付かれず財布を抜くのにも、家に忍び込んでこっそり家財を拝借するのにも、手慣れていた。聞けば、兄貴は奴隷になる所を逃げ出したらしい。ミダと似た境遇だ。
そんな兄貴を、ミダは慕っていた。恋と言える感情だったかも知れない。強く惹かれていくのがミダにも解った。一生付いて行こうと思った。
満月を大きな瞳に映して辺りを伺うと、兄貴は軽い身のこなしで壁をよじ登り、窓から忍び込む。ミダはその真似をするが、上手くいかない。危うく落ちそうになったが、何とか少年の手に掴まって事無きを得た。
商家の屋敷中を隈無く探し回ったが、現金は見付からない。寝室にまで忍び込んでみたが、どこにも無い。
「くそぅ……隠し金庫でも持ってやがるな」
兄貴が舌打ちをするのに合わせて、ミダはいかにも残念だという素振りをする。だが金が手に入ろうが入らなかろうが、どうでも良い事だった。少年と手を取り合って、息を潜めて、一緒に鼓動を早めている。それだけで楽しかった。
廊下を行く途中、背後から女の叫び声がした。使用人が小便に起きたものらしい。
「泥棒よ! 誰か、誰か……!!」
「やべえ! ずらかるぞ!!」
走り出す。兄貴の足は速い。何とか続くが、ミダは転んだ。それを兄貴は抱き起こして、手を引いて駆ける。嬉しかった。この瞬間が永遠に続けばいいとさえ思った。
廊下の突き当たりを折れた所で、男の使用人が立ちはだかっていた。慌てて引き返そうとするが、遅い。兄貴が羽交い締めにされ、彼とミダの手が離れる。
ミダにはどうしたら良いか解らなかった。兄貴が男の腕の中でもがき、あがく。抵抗に阻まれて、男はミダにまで手が出せずにいた。逃げろ、と兄貴が叫ぶ。
「逃げろ! おれの事は良いから、お前は逃げろ!!」
そんな事は出来るはずがない。見捨てる事なんて出来る訳がない。
でも、ミダは逃げた。怖かったからだ。自分の身を守りたかった。少年の命より、自分の命を選んだ。
忍び込んだ二階の窓から飛び降りる。足首を捻り、膝をすりむいたが、構わず走った。走って走って、見付けた馬車に飛び込んだ。
そこで人心地を得た所で漸く、少年を見捨てた事に気が付いた。浮浪児の泥棒がどうなるか、幼いミダにも容易に想像出来た。
目眩がした。心臓が早鐘の如く脈打つ。頭痛。嘔吐。胸を突き刺される感覚。恐怖心。回転する視界。混乱を来す思考。
少年の事を案ずるより先に、少年を見殺しにしたその言い訳を考えていた。
「『自分にはどうする事も出来なかった』……そう言いたいのね」
女が言う。
「それはそうね。非力で、何も出来ない。戦えないから、誰も救えない」
背後から肩を抱く女が言う。
「でも許さない。貴方は貴方を許さない」
「許せない」
だから強くなりたかった。しかし、どう強くなれば良いか解らなかった。戦い方も知らない。どう戦えば良いか解らない。
死にたい。死んでしまいたい。ミダは自らの破滅を願った。
強い男と出会った。
沈み行く身体。激痛の走る左肩。泡と消える吐息。生命を諦め、沈み込む意識。
手が差し伸べられる。ミダはその手を掴んだ。彼が、掴んだら放すなと言うから、全てを掴まえてくれると言うから、その手に頼った。彼と生きたいと願った。
抱き締められる。浮かび上がる。
それを見ている黒い犬。
湧き起こる感情。その名前は何か。
知っているだろう、と犬が言った。
――嗚呼、知っている。
「ミダ、起きてくれ! 息をしてくれ!!」
抱き抱えたミダの顔は青ざめ、腕はぐったりと力無く垂れている。柔らかな金糸の髪に、エスは涙で濡れた頬を擦り付けた。
「息をしてくれ! まだ終わりじゃない。終わりじゃないんだ!! ミダ、ミダ……ッ」
何度名前を叫ぼうと、命を失った身体には届かない。
「……許さん。許すものか!」
エスの左腕が白い火花を散らした。
「殺してやる!!」
憎悪がエスを支配する。憎しみが胸を掻き乱す。やめろ、とカティアが制止の声を上げた。
「貴様はもう限界だ。これ以上の力を使えば、貴様だって……!」
肩を掴もうと伸ばした手が、電撃に弾かれた。麻痺した腕はだらりと垂れ下がり、今のエスを止める事は不可能だとカティアに教えた。
「わたくしを殺してもどうにもなりませんわ。わたくしはその子の身体で再生を……」
「黙れ!」
エスの口から出たのは、黒き野獣の咆吼だった。朽ち果てろ、滅び去れ、地獄へ堕ちろ、死ね。次々に呪いの言葉を口にする。
「てめェになんかくれてやるものか! 俺のものだ! こいつは、ミダは、俺のものだ!!」
エスは左手を突き出した。開かれた手の平が、籠手全体が、光を帯びた。
カティアはスケグルへ、逃げろと言う。激昂がエスの目を塞いでいる。この部屋ごと、いや神殿ごと、吹き飛ばされてしまうかも知れない。
エスは叫んだ。雄叫びか、慟哭か解らない。
今にも全身全霊の稲妻を放たんとした、その時、エスの胴が締め付けられた。ミダの腕が、エスを抱き返していた。
「……ミダ?」
耳元で鼓弓の音がする。確かに鼓動が伝わってくる。エスには訳が解らないが、唯一解ったのは、ミダが生きているという事だった。エスの腕から光が消える。
だめだ、とミダははっきりした声で言う。
「殺すだなんて言っちゃだめだ。あんたがそんな事を言っちゃだめだ」
沢山の命が失われて行く世界で、たった一人の死を悼むエスが、人殺しになってはいけない。力一杯に抱き締めた。
「オレはどこにも行かないから。ここに居るから」
知っている――腕に力を込める程、胸を締め付けるその感覚が何なのかを、ミダは知っていた。
カティアもスケグルも、唖然として二人の様子を見ていた。
どうして、と巫女は放心して呟く。
「何故なの? 命はもう抜け切っていたというのに……」
巫女自身、ミダの身に何が起こったのかを理解していなかった。有り得ない事なのだ。術で消えた命が再び戻る事など、起こるはずがなかった。顔色はやはり変わらないが、しかしその目の動きが、明らかな焦燥を物語っていた。
目論見は露呈した。もう二度と、巫女はその秘術を用いる事は出来ないだろう。永遠の命も失われた事になる。だが、それよりも重要だったのは、ミダの身体を、神の力を手に入れるという事である。
千載一遇の機会を逃してしまった巫女は、顔色を変えずに逆上した。激情に指先を震わす事も無く、淡々と怒りを募らせていった。
不意に、巫女は野鳥の鳴き声にも似た奇声を発しながら、カティアに飛び掛かった。異常な俊敏さに虚を突かれたカティアは、突き飛ばされる。次に巫女が飛び付いたのは、祭壇だった。短剣を手に取り、振り上げる。切っ先は、ミダの背中に向けられていた。
鮮血が散る。赤黒い床や壁、更には天井に、鮮やかな緋色が飛散する。
スケグルが短剣を抜いていた。巫女の首筋から血液が吹き出している。心臓が血を送り出す度、アーチを描く。巫女は首を押さえるが、出血が収まる訳も無く、指の隙間から漏れ出した。
「……スケグル……愚かな国王を裏切ったお前が、わたくしをも裏切るか……?」
「それでも、神への忠誠は、裏切っていない」
巫女はゆっくりと仰向けに倒れ、そして息絶えた。




