Ep.16-1 黄金の神に
女だったら、何なんだ。今にも驚倒しそうな、憮然としたエスを眺めて、ミダは思う。
別段、隠し通そうというつもりでもなかったのだ。ただ「お前の性別は何だ」と問われなかったから、言わなかった。それだけの事である。驚かれる謂われが解らなかった。
「それに『姫君』とは、どういう事だ」
エスは半ば怒鳴る様にして、ミダへ問うた。しかし、ミダは答えない。それに関しては、自らの口から言いたくなかった。
「愚かな!」
カティアが吐き捨てる様に言う。
「何も知らずにこんな所へ導くとは、全く度し難い」
それは無理も無い事だ。エスには単なる奴隷だったとしか語られていないし、この神殿と帝国との関係さえ、知らないのだから。
「教えて差し上げなさい。紛い物の神の使いよ」
巫女はカティアの口から打ち明ける事を促した。いずれは誰かの口から伝えなければならない事かと、不本意ながらカティアは言う。
「あの子は……いや、あのお方は……」
躊躇い、言い淀む。一呼吸を置き、目を閉じ、兵らの前で打ち明ける事への迷いを断つ覚悟を決めてから、続けた。
「皇帝陛下の御子だ」
その場に居た者達、巫女とミダを除いた全て、帝国の兵やスケグルを含む神殿の兵全員が、声を上げて仰天した。取り分けルートガーは、一兵卒の身分ながらミダと多少の面識がある分、駭然とした様である。
それこそ悲劇の始まり、と巫女は詩を読むが如き口ぶりで語る。
「この子は神の子。神が大地へ産み落とした奇跡。生みたるを己と誤り、自らを『神』と傲り高ぶった『浅ましき人間』は、その傲慢さが故、神に見放された」
ミダが生まれ、国王は皇帝となり、そして神を名乗った。
「神のもたらした至福を、私欲の為に弄ぶ愚かな男……わたくしは神の御心に従い、あの者を見限り、ここに新たな聖地を築きました」
「四年前だ。巫女が皇帝陛下に背信したのは」
衛兵の長を務めるスケグルも、当然の様に巫女へ従った。その時、以前から衛兵への誘いを受けていたカティアは、スケグルから共に帝国を出奔する様持ちかけられたが、これを拒否し、戦闘に及んでいる。
「エス・ライト。貴様は、皇帝陛下の姫君を敵の元へ送り届けたのだぞ」
一から十まで知らない事だったとは言え、悔いるより無い。しかし、まだ解らない事がある。
「ミダをどうするつもりだ」
人質という様子でもない。巫女は肩を揺らす。笑った様だ。
「この子を巫女にするのです。新しい、器として……」
ミダの肩を掴む手に力が籠もる。その威圧感に、ミダは震えた。声も出ない。
「何だと?」
「定めなのですわ。新しい器を迎える、この年この日に訪れたのは、神の定めた宿命なのです」
「お待ち下さい」
異を唱えたのはスケグル。
「その者はまだ幼く、信仰に身を捧げても……」
「お黙りなさい。神の意志に逆らおうと言うのですか」
ぴしゃりと言い放たれ、スケグルは閉口する。
「解らない! それが何になると言うんだッ」
「この子が『わたくし』になれば、わたくしは、神の御許にも行けるでしょう」
言葉の意味も、そこに込められた意図も、エスには全く読めない。いや、エスのみならず、スケグルにさえ理解出来ない様子だった。立ち上がり、驚愕の体で巫女を見上げる。
狂っている。エスはそう思った。狂信ではない。神の力に魅入られ、歪められた人間と、なんら変わらない。
「ミダの意志はどうなる?!」
「心配には及びませんわ。話せば、この子もそれを望むはず」
参りましょう、とミダの肩を抱く。ミダを衣の内側に覆い、踵を返し、言った。
「スケグル。その者達を神殿に入れてはいけません。儀式の邪魔ですわ」
スケグルは答えなかったが、巫女がその姿を消すなり、振り向いた。エスらを睨むその目は複雑な色を湛えていた。
退けとエスが叫んでも、スケグルは仁王立ちに佇んでいる。
「巫女は狂ったぞ! 預言者は、神の力に酔いしれ、溺れた。奴の言う『浅ましき人間』と同じだ。そこを退け!!」
「……巫女様の命に背く事は出来ん」
それがわたしの忠義だ、とカティアに向けて言う。カティアは鼻で笑った。
「だからお前は、忠義をも知らない、似非信仰者だなのだ」
カティアは静かに罵倒する。そしてエスに、行くぞ、と言う。
二人は揃って歩みだし、スケグルへ躙り寄る。一歩も動かないスケグルへ、カティアは哀れむ様に尋ねた。
「お前が信じているのは、神か、巫女か」
核心を突く問いにスケグルは、即座に答える事が出来なかった。
スケグルは紛れもない宗教者だ。信じるべき神があるからこそ、帝国から離反するという、大それた事もした。巫女に仕えるのは、預言者が信仰の象徴だからだ。スケグルの信心は、巫女に捧げられたものではない。決して違う。
今、巫女は、神の言葉を預かりそれを伝えるという、たった一つの役割を捨てた。それこそ神が人間に与えた、神に触れる為の力だと言うのに、不服としてしまった。
巫女が預言をせず、神に近付けるのだろうか? 否。
巫女は神に近しい存在と、なり得るだろうか? 断じて否。
言葉で答える代わりに、スケグルは振り返り、兵らに向けて言った。
「……巫女様を止める。お前達は下がれ」
「スケグル様!」
兵士の殆どが、巫女に心酔している。誰も知り得ない神の意志を、唯一知る事の出来る存在だからだ。信じるべきは巫女を通した神の言葉であり、巫女ではないのだという事に、気付く者は少ない。
「下がれ。無駄な血を流すな」
皆一様に、巫女の命と兵長の命、どちらを優先すべきかの葛藤があった。だがスケグルの気迫の前では、逆らう術を失する。両脇に避け、道を空けた。スケグルはこの時初めて、部下の前で詫びた。
スケグルの案内で駆け付けたのは、神殿の際奧、固く閉ざされた扉の前だった。
「ここか」
「巫女の引き継ぎの儀を執り行う部屋……巫女様と巫女に選ばれた者以外は、入室を固く禁じられている」
カティアが蹴破ろうとするが、鉄扉はびくともしない。内側から堅く錠が施されている様だ。
「俺がやる!」
カティアを押し退け躍り出たエスが、全力でもって肩から扉でぶち当たると、見事に扉は蝶番や錠前の繋がる壁ごと破壊された。薄暗い室内へ三人が一斉に飛び込む。
薄暗く、数本の蝋燭だけに照らし出された窓の無い部屋は、異様だった。神殿の全ての壁や床とは対照に、この一室だけは一面が赤黒い。乾いた血の色を思わせる。手前の祭壇らしきものに、ぬらりとした輝きを放つ黄金の杯と黒光りのするナイフ。そして中央の寝台に、あたかも生け贄を捧げるかの如く、ミダが寝かされている。そのたもとに巫女が立っていた。
「騒がしいですわ。入れてはならぬと命じたはずなのに、逆に招き入れてしまうなんて……なんと使えない女でしょう」
巫女はベールを脱ぎ、栗色の髪や青白い素肌を露わにしていた。面立ちはうら若き娘だが、しかし、無表情の面持ちは、年寄りの様でもある。
「ミダに何をした!!」
「安心しなさい。死んではいませんわ。薬を嗅いで少し眠っているだけ。……可愛い寝顔ですこと」
巫女はミダの髪を撫でる。その手付きは愛おしむ様にも見えて、愛玩動物の毛並みを梳くのにも似ていた。
「巫女様、一体何をなさるおつもりなのです。その娘を、一体どうしてしまうと言うのですか」
スケグルに問われ、巫女はその名を呼び、向き直る。黒々とした瞳が真っ直ぐに、それでいて中を漂う様に、黄金色の瞳を捉えた。瞳孔が開いているのだ。
「何度言わせるのです、馬鹿なスケグル。この子は次の『わたくし』になると、二度までも言わねば理解出来ないのですか、愚かな戦乙女」
「ミダを巫女にして、どうなる。ミダに神との対話など、出来る訳が無い。お前の畏敬する神など、そいつは知らない」
今度は口を挟むエスへ、巫女の目が向けられる。まるで死人の瞳だとエスは思った。
「それはそうでしょうね。この子は無垢なる幼子。しかしその様な事、どうでも良いのですわ」
「どうでも良いだと?」
「器の記憶や思考など、わたくしには関わり合いの無い事」
巫女の言葉はいちいち曖昧だ。エスにはそれが不快だ。堪らなく、不愉快だ。ひとの一生を操ろうとする者が、言葉も意思もあやふやに、誤魔化すかの様に語る。許せない。
エスは巫女に歩み寄り、その胸ぐらを引っ掴んだ。
「はっきり答えろ。『器』とは何だ」
抵抗は無い。だが侮るでも無い。巫女は踵を浮かせながら、変わらない調子で口を動かす。
「『器』は純潔なる乙女。神の巫女を湛える杯」
「答えになっていない! 説教を聞きたいんじゃないんだ。『器』とはどういう意味かと聞いているんだ!!」
鼻先が触れる程の距離で憤激されても、巫女は一切の動揺を見せない。襟が引き絞られ、喉に食い込み、呼吸が出来なくなり、次第に顔色が赤黒く変じていっても、巫女は一切の表情を浮かべない。
スケグルは反射的に足を踏み出すが、カティアがそれを制止させる。
「そのくらいにしておけ。死ぬぞ」
止めなければ、本当にそうなっていたかも知れない。エスは手を放した。床に崩れ落ち咳き込む喘ぎの合間から、それさえ生理現象の一つに過ぎないとばかりに、巫女は淡々と語った。
「肉体は命を注ぐ『器』。巫女は『わたくし』の命に与えられし資格。器ごと命を入れ替えても、それは泥水の杯に葡萄酒と名付けるのに等しいでしょう」
巫女は一人しか居ない。いくら神を崇めようと、修練を積もうと、預言を許されるのは巫女だけだ。つまり、
「ミダと……ミダと身体を入れ替えるつもりだと言うのか!」
「元々の命など要りませんわ。『わたくし』を注ぎ込むのに邪魔なだけ」
若い娘の身体に乗り移った、巫女の命は笑った。目元や口元に微塵の皺も作らず、ただ喉を振るわせて、笑い声を上げた。
「……それは殺すという事か」
「少し違いますわ。命を失えば肉体は滅びましょう。しかし、代替の命があれば……」
「それを殺すって言うんだ!!」
命が奪われるのなら、それは死ぬという事だ。命を失った、巫女に選ばれた女は、例え代わりに巫女の命が与えられようと、それはもう、生命とは言えないだろう。所詮人間の肉体を媒体に、寄生しているに過ぎない。だから、巫女の霊魂に操られた人形と化し、身体はもう死んでいる。
「今まで何人を殺してきたッ」
「数えてみた事も無いですわ。そうね、百年程前からだから、ざっと二十五……」
何故だと、エスは問い詰める。
「何がそうさせる」
死人の仮面の下から、深い嘆息が漏れた。
「……老衰。美貌の損失。有限の生。死。命の消失……時間がもたらす、ありとあらゆる害悪が、怖い」
百年前――最初の巫女は齢三十を迎えた頃、鏡を覗き見て、愕然とした。額に二本の皺が、うっすらと浮かんでいたからだ。美貌の預言者は、自らが衰えるのを察した。そして、いずれ来るだろう死を悟ったのである。
人間は終わりを迎えなくてはいけない。最後は老いさらばえ、一生を悔いながら朽ち果てて行く。死は世の理であり、自然であり、必然。だが巫女には、それが我慢ならなかった。神の言葉を受ける唯一無二の存在は、神と同じく永遠でなければならないと望んだ。
ありとあらゆる術を試みた。針と糸とで皮膚を引き上げる。光り輝く水、つまりは水銀を混ぜた薬を飲む。生娘の生き血を浴びる、啜る。様々試したが、全て無駄だった。寧ろ老化は進む一方だった。
そこで思い付いたのが、肉体を捨てるという事だ。劣化の一途を辿る肉体から解き放たれれば、命は果てる事を知らない。それを可能にする秘術があると聞きつけた巫女は、遠い国から一人の魔術師を呼んだ。邪教の徒であるが、構いはしなかった。
魔術師は巫女へ云った。「命は肉体という器に宿るもの。器からこぼれ落ちた命は土に還るだろう。ならば器を移し替えれば良い。それだけのこと」と。
魔術は成功した。巫女は若い娘の身体を手に入れ、自らの命を永遠のものとする事に成功したのである。巫女は、この秘術が誰にも伝わらぬ様魔術師を殺し、そして「巫女は継承される資格」と偽りを語り継いだ。
「四年……四年あれば、ひとは老いる。うら若く可憐な娘も、醜く老いる」
老いる前に次の身体へ乗り換える。馬を変えるのと同じ事だ。
エスは嫌悪感を剥き出しに、唾を吐き捨てる。
「死ねば良かったのに」
巫女は微笑した。その顔に初めて浮かんだ表情だ。しかし、口の端を糸で吊り上げた様な、形だけのものである。
「そんなに嫌わないで欲しいわ。貴方とわたくしとは、まぐわう運命の下にあるのだから……」




