Ep.14-2 黄金の故国
「貴様ら、何をしている」
静かだが低い声音。怒りも度を過ぎ、激昂の間際となると、言葉も出なくなる。今のカティアの声は、締め付けられる喉を振り絞り上げられた唸り声、まさにそれだった。携えた剣に手を掛けた。
「これはこれは、軍曹殿」
振り返ったマイヤーが両手を広げた。
「流石に耳が早い事ですな」
「マイヤー、これはどういう事か説明しろ」
おやおや、と馬鹿にする様な笑みを浮かべ、肩を竦める。
「男女の交わり方をご説明しなくてはならないのですか?」
カティアの顔に、薄く驚愕の色が浮かび、そして血の気が上がる。強姦が予想外だったのではない。部下が楯突く事を予期していなかったのである。
カティアの剣の腕は、兵の皆が知っている。そしてガルディアスの懐刀であるという事も、公然とした事実だ。だからカティアに一睨みされて怖じけない者など居ない。そのはずだった。
マリナに対する所業は、士気の低下の証明ではなく、カティアを軽視する風潮が拡大した事を、如実に示していたのだ。
「今すぐその娘から手を放せ!」
これまでは何度も兵を従わせ、震え上がらせていた怒鳴り声も、今は一笑に付された。マイヤーも、未だマリナから手を放さない兵も、頭をさするミクラスも、一様にせせら笑った。
「私の命令だぞ!!」
そうがなる声も虚しく響く。まるで虚勢を張っているかの様だった。
「軍曹殿、それはいけませんな。世話役を遣わしたのは将軍閣下のご意思。それに背く様な命令には、我らの様な忠実な兵士は従えません」
笑い声が上がる。
「それとも何ですか、将軍閣下にも逆らうおつもりで?」
カティアは耐えかねて、とうとう右手を長剣の柄に遣る。マイヤーはにやつきながら、おっと、と両手を挙げた。
「おれを殺すんですかい?」
「……従わないのならな」
「そりゃ怖い。しかし、良いんですかい? 将軍閣下の命を無視した挙げ句、配下の兵をその手に掛けたとあっちゃ、申し開きが立たないのでは?」
「ガルディアス様は心の広いお方だ。貴様の様な不埒な輩を断罪したとて、差し障りあるまい」
そうも言われてまだ、へえ、とマイヤーは軽んじる。
「あんた、自分の生まれの卑しさを忘れてるんじゃないのかい?」
「何だと?」
カティアの眉が僅かに痙攣する。
「将軍閣下のお情けが無けりゃ、あんた、今頃は奴隷の身分だ。そんな事は上も下も知ってるこった」
だがルートガーには初耳だった。
「あんたが軍曹止まりなのもその所為だ。生まれの悪いあんたが上に行ける訳がねえからな」
「……黙れ」
「あんたみたいなのを庇うのに、将軍閣下も苦心なされてる事だろうな。しかし、閣下も軍部の一員だ。何もかも思い通りにいく訳じゃない。あんたが何かヘマやらかして、軍があんたを疑ったら、その時は将軍陛下も動かざるを得ないだろう。それに、将軍陛下自身も責を負わされるかも知れんなあ」
「く……ッ!」
白い歯を剥き出したカティアの、鞘を握る左手が、微かに震えていた。
「どうする? おれを殺すか? そんな事をして本当に良いのか? よく考えるこったな」
勝ち誇った様にマイヤーは笑う。どこまでも下劣な男だ。そう思うルートガーだが、しかし、為す術無く立ち尽くしている。
カティアはゆっくりと抜きかけていた剣を戻した。
「そう。それで良いのですよ。それが賢い判断というものです」
言い負かしたと確信して、マイヤーは手を叩く。
「さあさ、軍曹殿は回れ右。お部屋でお休み頂きましょう」
だが、カティアはそれに従わない。従う訳が無い。何故なら、こんな男に言い負かされておめおめと退くカティアではないのだから。
腰から剣を外して、床に置く。
「……貴様の言い分は良く解った。成る程、確かに私の裁量が誤りだった。私の兵に世話役など必要がないと、そう思い込んでいた。だが……」
上げられたカティアの顔には、並々ならぬ決意の色が浮かんでいた。それは愚かな男の脅迫になど屈しない、決して曲げる事の出来ない意地だ。
「女は決してか弱いものではない。男の欲を満たす為の道具でも、ましてや子を宿す為の器でもない。己を、その強情を貫き通すものだ。男などより、強いものだ」
寝る時も外さない胸当てを取り、放る。マイヤーは眉を顰めた。
「どうしても必要だと言うならくれてやる」
襟を両手に掴み、思い切り開いた。上着が真っ二つに裂けて大きく開き、その下に隠された純白の素肌が露わになる。その場に居た一同は同様に驚いた。誰よりもルートガーは、目を覆う事も忘れて、カティアの胸元に見入ってしまった。
「……は、はは。軍曹殿、何のおつもりか?」
「欲しいのだろう? 女が。だからくれてやろうと言うのじゃないか」
不敵に笑い、カティアはいよいよ袖から腕を抜き、上着を脱ぎ去った。裸体が晒され乳房が男達の目に触れても、一向に構わず、全く気にせず、恥じらいさえ皆無だった。
男達が尚更に目を見張ったのは、その引き締まった肉体にではなく、カティアの身体中に浮き上がる、古い傷痕の数にである。矢に射られた痕、刀に斬られた痕。大小の夥しい傷痕に加え、縫合痕が肩口から右脇腹へ袈裟懸けに生々しく浮き出ていた。
マイヤーはたじろいだ。マイヤーがいくら歴戦の兵士と言えど、彼女程の傷は無い。カティアという女がどれだけの戦場をかいくぐり、生死の狭間を切り抜けてきたのかを、傷痕がありありと語っていた。
「さあ、私を使うが良い。さあ。さあ……」
躙り寄るカティアに、マイヤーは窮した。それまでの達弁はどこへやら、言葉も無く、額に冷や汗など浮かべて、カティアの歩に合わせて後退る。ルートガーの脇を抜ける時、その足に躓き、尻餅を突いた。それをきっかけにして、喉に栓をしていたコルクが抜けたかの様に、声を上げる。
「お、お前ら、そいつを離してやれ。興醒めだ! さ、酒でも飲んで我慢しよう……!!」
ミクラスや他の二人は小刻みに頷いて賛同した。
四人はぞろぞろと部屋を後にする。残ったルートガーは未だ呆然とし、カティアは床に目を落として立ち尽くしていた。暴漢の手からやっと解放されたマリナは、暫くぼんやりと天井を眺めていたが、漸く窮地を脱した事を理解したのか、はらはらと涙をこぼした。
赤ん坊の様な、マリナの泣き声が響いた。カティアは薄く微笑んでマリナに歩み寄り、そっと覆い被さり、子供をあやす様に髪を撫ぜる。
「怖い思いをさせたな。すまない。もう大丈夫だ」
囁く声音は母親のそれだった。子守唄を歌う、優しく、柔らかく、温かい、慈愛に満ちた声。その駿足で数多の戦地を駆け抜け、その剣の下に屠った敵を死屍累々と積み上げ、配下の兵に鬼と言わしめ、畏敬の念を集めた軍曹が、今はたった一人の小娘を泣き止まそうとしている。
ルートガーは、カティアの背にも広がる無数の古傷を見ていた。その内の殆どはどう見ても、ルートガーの少ない医学の見知によっても、最近のものではないのは明らかだった。カティアという女は、一体いくつの頃から、いくつの修羅場をくぐり抜けてきたのだろうか。また、どんな窮地や困難を、どんな生き様で乗り越えてきたのだろうか。ルートガーには想像すら出来ないが、きっと壮絶なものだったのだろうと思う他無かった。
「……カティア様……」
「何も言うな、ルートガー」
ルートガーに向けられるのは、普段通りの、苛々とした茨の鞭でぴしゃりと打つ様な声色だ。
カティアが遠い存在になってしまった、そんな気がした。いや、元よりルートガーごときの手が届く女ではなかったのだから、これまで見て見ぬふりをしていたその真実を再認識してしまった、と言う方が正しい。高嶺の花だ。若しくは孤高の獅子だ。触れる事は許されない。端から無かったはずの僅かな望みが、心の片隅で息絶える。
だが、諦観を抱くのも早かった。
ルートガーの恋慕の情が、今までと変わる事など何一つ無い。触れないのなら見ているだけでも構わない。崖下の雑草や、足元を駆けずり回る野兎になるのも厭わない。もしも花を摘まんとする愚か者、獅子に挑まんとする痴れ者があれば、時としてその足を絡め取ろう、時として純朴なる獣の皮を捨て牙を剥こう。
そういう恋も悪くないさと、カティアの上着を拾い上げ、痛ましい背中を覆い隠した。
とんだ言い掛かりだった。酷い濡れ衣だった。惨い仕打ちだった。貿易と自給自足とで国益を為していたヘイデンが、国交断絶のきっかけともなり得る危険行為と承知の上で、諸外国へ向けて麻薬を栽培する道理など、どこにも無かったのである。
何よりも、国民がそれを必要としていなかった。誰も彼もが日々の暮らしぶりに満足していた。享楽は暇を持て余した貴族のする事と笑いながら、仕事に精を出す事の方が、彼らには余程幸せだったのだ。
王国が派遣したという調査隊は、ヘイデン公国に入っていない。いや、そもそもそんなものは初めから無かった。
全ては、ヘイデンの国土を狙った謀略である。豊満な天然資源を目当てにした一方的な侵略行為である。
王国が確たる証拠もなく攻撃に踏み切れたのは、その軍事力と経済力に周辺国が恐れをなしたからに他ならない。ヘイデンと良好な外交関係にあった小中の隣国は、皆掌を返した様に公国を見捨て、そして、崩壊へ追い遣った。
「左様で御座います。それが十年前、帝国がヘイデン公国へした暴虐の全貌。良くご存知で御座いますね。ですがしかし、私共とは何の関わりも無い事」
「貴男を困らせたい訳じゃないのです。認めてくれなくても良い。ただ……」
窓の外に広がる草原に目を遣りながら、エスは蕩々と語る。
「……惨たらしいものでした。土を掘るか木を切るかしかする事のない、あの長閑で、地味で、退屈な国が、踏みにじられて、ぶち壊されていく様は。女子供までもが槍で突き倒され、火を放たれた家からは断末魔の悲鳴が聞こえて来る。静かで、安らかで、平和な国が、謂われのない暴力に打ち崩されていく様は」
細めた目のその先には、その地獄絵図が鮮明に映し出されていた。
「もしや、貴男は……」
ギルベルトは愕然とエスを見詰める。言い掛けた問いの答えを、悲壮な横顔が物語っていた。この男になら打ち明けても良い、寧ろ打ち明けるべきだと、ギルベルトは意を決した。
「……旦那様、アーデル様は、亡きヘイデン公爵殿下の御落胤。しかし、御正妻の認知を御授かりした、正当な御世継ぎ様で御座います」
アーデルの特徴、髪や目の色は、ヘイデン公爵家に代々伝わる血統の証だった。生まれたのは王国の襲撃を受ける、僅か五日前の事である。早々に危機を察知していた公爵家は、その誕生はひた隠しにし、ひっそりとその身をギルベルト一人の手に託し、国外へ逃がしていた。完全に潰えたと思われたヘイデンの家柄を継ぐ、その奇跡の様な存在は、国民ですら知らない事だった。
いきなり、アーデル――アーデル・フォン・ヘイデンが、ミダの手を引いて戻って来た。
「おい、ギルベルト! ボクは外に……!!」
その声を聞き、姿を見るなり、エスは俄然立ち上がって少年の前へ歩み出る。不意の行動にアーデルは後に続く言葉を失した。
アーデルの二歩ほど手前で立ち止まったエスは、ゆっくりと片膝を突き、頭を垂れた。その前後は全くの無言。再びエスが立ち上がり、ギルベルトに休める部屋はないかと尋ねるまで、アーデルもミダも、始終目をぱちくりとさせていた。
翌日は快晴。昨晩の雨が嘘の様だ。そして雨雲と同じくして、アーデルとギルベルトの二人も、忽然とその姿を消していた。城の中に人の住んでいた形跡は、微塵も残っていなかった。
「……幽霊だったのかな、あいつら」
「かもな」
日が出てみれば何の事や無い。古城はただの寂れた廃墟、草原には北へ続く小道があり、突き立つ坑木の足元の残骸達は土の下。昨夜の記憶が嘘を吐いている様な気がして、ミダは何度も振り返った。
「あいつ、友達になれってさ」
「そうか。あちらへ連れて行かれる所だった訳だ。お前も友達が欲しかったか?」
「……いいや、別に」
エスの一言で昼の事まで思い出し、急に嫌な気分に陥らされた。
「ミダ、機嫌は直ったのか?」
「忘れてただけだッ」
言い返すミダに、エスは鼻で笑った。




