Ep.13-1 古城の黄金
夕刻から雨。霧雨が細やかに、音も立てずに降りしきっている。辺りは真夜中の如く闇に包まれていた。灰色の雲が、沈み行く太陽を分厚く覆い隠している所為だ。もしかすると、既に日は落ち、月が出ているのかも解らない。兎も角、時刻の感覚が狂わされる。
雨が身体にまとわりつくだけでも疎ましいが、おまけに腰程も丈のある草原を横切らねばならなかった。濡れた草は脚に絡み付き、まともに歩く事さえ困難にさせる。
「マントに入るか?」
先頭に立って道を作りながら進むエスが、振り向かないまま後方に向けて言う。ミダは答えず、踏み倒された草に目を落としていた。
「そうした方が良いね。でないと身体が冷える」
一行で最も体力の無い少年を慮ったルッツの言葉さえも、ミダは無視した。
意固地になっている。エスの言う事は正しいかも知れないが、自身が間違っているとは思わない。人を救いたいという願いは誰にも否定出来ないと、ミダは思う。何も殴る事はなかったはずだ。少々感情的になってしまった事は謝らねばならないが、しかし、殴られなければならない様な発言だったろうか。ミダには理解出来ない。
胸中で静かに湛えられた不平や不満の水面を揺るがす一石は、剰りに大き過ぎた。飛散し、溢れ出し、浸食する。怒りの炎で蒸発、発散するよりも、涙の雫と変じて滴るよりも早く、エスを疑う感情に染み込み、膨張させる。胸を張り裂くのも時間の問題である。
「ルッツ、ここを抜けたらどこへ出る?」
「さあ、解りませんね。普通の道筋からはとうに外れていますから。何故こちらへ?」
「繁華街には飽きたんだ。遊ぶ金も無いしな」
道なりに行けば歓楽街、色街、そして貴族達の住宅街に通じる。どこも一部の富裕層が栄華を誇っている街だが、九部の虐げられた命の上に築かれた街でもある。こうした街を避けるのは、ミダの事があってに違いない。しかし、そんなエスの遠回しな思い遣り、表面的に尊大な発言は、当のミダの耳には、そのままの意味でしか聞こえなかった。
「身勝手な人だ」
ルッツが余計な一言を重ねる。エスの琴線に触れた。
「なら付いて来なければ良い。俺の身勝手に好き勝手付き合ってくれるな」
冷たく突き放す言葉はルッツに向けられたものに他ならないが、ミダには、ミダに対するものに聞こえた。皮肉なもので、ネガティブな感情はその特殊な発想でもって、物事を自分に都合良く、都合の悪い方の意味で受け取る。
「それにしても、煩わしい雨だ。何処かで雨宿りでも出来れば良いが……」
偶然だった。或いは、エスの愚痴に答えたのかも知れない。やおら鬱蒼とした草原が開け、ほんの束の間、深い雲に切れ目が生じた。
月が出ていた。満月である。闇の帳を穿ち、淡い金色に輝く月。月明かりの中でエスが目にしたのは、小高い丘の上に佇む古城だった。
「あれは……!」
同じくして城を見たルッツは駆け出し、エスを追い抜く。しかし、何かに蹴躓く事で足が止まった。
「ルッツ、待て!」
エスはその場に立ち尽くして叫んだ。草原の先で待ち構えていたのは、月と城ばかりではなかったのだ。
槍。高々と掲げられた槍。百、二百、三百はあろう槍衾だった。いや、槍と見えたが、違うものの様だ。先を削り尖らせた、腕程の太さの棒――そう、簡略に言うならば、それは串である。地面に突き立てられた数百の串が、まるで林の様に立ち並んでいるのだ。
「……何だ、これ?」
ルッツが声を上げたのは、その串を目にしたからではなく、爪先に掛かった何かを拾い上げての事だった。初めは泥に塗れた木の枝と思ったが、しかし辺りは草ばかりで、木など一本も生えていない。それに両端がこぶ状になっていて、少々重みがある。
「どうした?」
「いや、こんなものが落ちていたんですけど……」
ルッツがエスに拾ったそれを見せる。途端に、エスの目が大きく見開かれた。
「ルッツ、そいつは……」
僅かに声が戦慄く。
「……そいつは、骨だ」
「ひッ」
驚いたルッツの手元が、咄嗟に骨を投げ捨てた。エスはそれを取り、泥を拭ってまじまじと眺める。
「間違い無い。これは、人の骨だ」
正しく人間の大腿骨だ。肉は付いていない。しかし、そう古くはなさそうだった。
クラウスが地の匂いを嗅ぎ、前足で掘る。見付け出して口で取り上げたのは、髑髏である。
「何なんだ、ここは……!!」
一行の足の下は、一面が骸だ。尋常ではない。たじろいだルッツの足元で、小骨が折れる音がした。
「……そ、そうか、解った。解りましたよ」
「知っているのか」
ええ、とルッツは小刻みに頷く。
「ここは元ヴラクニア公国、ダルヴ二世……別名『串刺し卿』の領土だった場所、じゃないでしょうか……」
「『串刺し卿』?」
「え、ええ。咎人とあれば、奴隷、農民、貴族……身内でさえ誰彼構わず串刺し刑に処していた為に付けられたという呼び名です。けど、ヴラクニア公国は数年前の戦争で滅んでいます。今は帝国の領土のはずですが、しかし……」
未だそそり立つ串の剣山、無惨に打ち棄てられたままの死骸。そのどれも、この地が手付かずになっている事を示している。
「そんな逸話がある所為で呪われた地とされ、この場所を治める人が居なかったのでしょう」
漸く落ち着きを取り戻したルッツは、こう締め括った。
「ここは、まるで辺土ですね。こちらで裁きを受けた人達が、あちらでの裁きを待っている……」
エスは頭を振る。
「あちらもこちらも、ありはしないさ。それよりも、あの城でなら雨宿りが出来そうだ。行こう」
ルッツはすぐに同意出来なかったが、この雨の中を引き返すという事も考えられず、致し方なく頷いた。
「ミダ、行けるな?」
「……ああ」
ミダも唸る様な声だけで答えた。
一行はぬかるみと亡骸とを踏み締めながら、古城へ向かう。
所変わって、帝国宮殿内、ガルディアス・ガルデロイの個室。
ガルディアスは独り、自ら認めた手記を読んでいた。日記、備忘録、軍事活動記録、様々な意図で書き記されたそれは、日課として二十数年間書き綴り、本棚の一段を埋める程になっている。今現在読み返しているのは、その中程、十年前のものである。その頃の手記は、主に一人の人物の事ばかりだ。
――カティアという少女。
十年前、当時の王国は隣り合う小国、ヘイデン公国への侵攻を決行した。指揮は当時の将軍が執り、戦術士官にベックマンも参加している。
僅か二日で公国の攻略に成功。王国側の大勝に終わった。何故なら、ヘイデン公国はその総兵力を王国軍の一割にも満たさない、永世平和主義国だったからだ。
周辺国中、最も軍事力に乏しいヘイデン公国が、何故永世平和を宣言出来ていたかと言えば、それは豊かな天然資源に由来する。山間に位置するこの小国は深い森林に覆われ、鉄鉱石の採掘地でもあった。豊富な木材と鉄材の輸出、代わって、平地の少ない為に不足しがちな麦や肉に代表される食料、綿・絹・毛などの織物を輸入。隣国との間に貿易関係を成立させ、国家間の経済外交に関する協定が為されていた。守られた国だったのだ。
しかし、この小国の平和は、自滅を迎える事となる。
ヘイデン公国からの輸入品に、麻薬が紛れ込んでいた。密貿易、麻薬の密栽培が発覚したのである。麻薬が貴族の嗜みとされる風潮は確かにあって、これ自体に大した問題は無い。だがヘイデン公国で秘密裏に栽培された麻薬には強力な毒性があり、強い依存症と中毒症を引き起こすもので、早急に調べると、この薬物による王国内の死者は既に十数名に上り、この事実は国際間の大きな問題となった。王国内にて執り行われた会議で、ヘイデン公国は強くこれを否定、偽の情報を流布したとして王国を批難するも、王国を支持する国が大半を占める。
更に、議決により王国の調査隊をヘイデン公国へ派遣するが、調査を良しとしないヘイデン公国は一隊を拉致。特使含む五名が殺害された。これを理由に、ヘイデン公国を除く五カ国によって協定の破棄が決定され、調査隊の残る人員を救出するという名目、で、王国の派兵が容認される事となる。
結果的に、調査隊の救助は失敗。ヘイデンの国民はその殆ど全てが戦火で死亡。僅かな生き残りは皆奴隷に。公爵家は捕縛され、王国で開かれた裁判で、一家全員の処刑判決が下された。
補佐官としてベックマン下にあったガルディアスだが、直接戦闘に出てはいない。ベックマンの隊は安全圏から情報支援を行っていただけだったからだ。ガルディアスが故国へ入ったのは、制圧から五日後の風も無い穏やかな日、戦後調査の際。初めて目の当たりにした無き平和主義国の有様に、固唾を呑んだ。
うずたかく積み上げられた死骸の山。死んだ女の細腕が、崩れた家屋の瓦礫の中から未だ掘り起こされず、突き出ていた。ヘイデンの人々が信仰したであろう教会は焼け落ち、煤に塗れた偶像の胴体だけが形を残している。
ガルディアスはこの時、「無惨」という言葉が意味するものを知った。
「将軍閣下の亡骸はまだ見付からないと聞いたが?」
ベックマンが訊ねる。その表情は内心を隠し切れていなかった。王国側の数少ない戦死者に、陣頭指揮に当たっていた将軍も含まれていた。将軍の座が開けば、繰り上がり式に位も上がる。しかも、王国の記念すべき初戦を大勝に収めた勲功は、ベックマン一人のものとなるのだ。
ガルディアスが答えると、ベックマンはさも残念と唸ってみせた。
「盛大な葬儀になるだろうな」
ガルディアスは黙っていたが、既にこの上官への忠義は消え失せていた。
「しかし、将軍閣下も不運よ。この様な小国相手の戦争で討ち死になさるとは、実に哀れな事だ」
ベックマンに死者を悼む気持ちなど更々無い。それが上辺だけの言葉から滲み出ていて、ガルディアスは意識中からベックマンの存在を抹消した。
そうしていなければ、微かに聞こえた小石の転げる音に、彼が気付く事は無かっただろう。音は跡形もなく崩れ落ちた家屋からだった。ベックマンに一声も掛けず駆け付けたガルディアスは、呼び掛けた。
「誰か居るのか」
返答は無い。だがその代わり、倒れた壁の隙間から、一粒の小石が転げ出た。素早く走り寄ったガルディアスが壁をどかすと、その下には、少女の姿があった。いや、女児というのが適当だ。その小さな身体は十にも満たない年の頃と思われた。
金色の髪や白色の肌が埃の灰色に覆われているが、血の赤は無い。呼吸はしているが、気を失っている。つまりは、この崩落に晒されても全く傷を負わず、五日から七日もの間を生き続け、更には、無意識の中にあって助けを求めていたのである。ガルディアスは驚愕と共に、この凄惨な戦場跡に与えられた小さな奇跡を感謝した。
そう、この女児こそが、カティアである。
カティアを王国へ連れ帰るという申し出にベックマンは断固反対したが、ガルディアスの意思は堅く、ベックマンごときの言葉で説き伏せる事など、出来るはずも無かった。
妻に先立たれ、子も居ないガルディアスにとって、カティアは天からの授かりものだった。敗戦国民の生き残りであるカティアを養子として迎える旨は軍部が許可しなかったが、しかし一方でガルディアスの謹厳実直な人柄に対する評価は高く、カティアを召使い或いは侍女として傍に置く事は黙認される。
ガルディアスが、それから続くカティアとの暮らしについてを読み進み、遠い記憶へ思いを馳せようとした時だった。
「将軍閣下に伝達」
兵が戸を叩く。ガルディアスは手記を閉じ、居住まいを正した。
「……入室を許す」
静かに立ち入り、跪いた兵が告げる。
「閣下、敵国の制圧を完了致しました」
「そうか。僅か五日……私の出る幕も無かったな」
「はッ! つきましては、閣下に占領地の視察にご同行願いたく」
「解った。すぐに支度をしよう」
立ち上がった時、ふと、カティアとは別の事を思い出した。
「……あれは今頃、生きているのだろうか……?」
「は? 何か?」
何でもない、と応えるガルディアスの顔は、どこか憂いを帯びていた。




