Ep.2-1 黄金狂い
「あづい……」
犬の様にだらしなく舌を出しているのはミダだった。
「死ぬ……喉乾いた……」
日差しは容赦なく降り注ぎ肌をじりじりと焼く。
「安心しろ。そう簡単にひとは死なない」
エスはそう余裕を見せながら水筒を傾ける。ミダは叫んだ。
「ああ、ずるい! 一人だけずるい!!」
「ずるくない。お前はあるだけ飲むから駄目」
水筒から掌に水を移し、屈み込んでクラウスに与えた。舌で跳ね上げられる水滴や手の甲を伝い落ちる雫を、ミダは羨望の眼差しで見ていた。それに気付いたエスが悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……欲しいか?」
「欲しいって言ってるだろッ」
「なら、何でも言う事を聞くか?」
そんな前振りから始まる要求は大抵ろくなものではない。ミダは本能的に悟ったが、耐え難い喉の渇きから首を縦に激しく振った。
「よし、飲むなら……」
水筒を振りながらミダに歩み寄る。
「俺の口移しで」
「は?」
ミダは伸ばし掛けた両腕を引っ込めた。
「何で?」
この男は馬鹿なのかと心底思った。
「嫌なら良い。水はお預けだ」
エスは踵を返して背を向ける。
「何なんだよ!」
ミダは叫んだ。そうすると喉の枯渇がより顕著になる。この後一分一秒たりとも我慢出来そうになかった。
「……解ったよ! 何でも良いから飲ませろ!!」
意地の悪い青年は振り返ってニヤリと笑う。実にあくどい顔付きだった。
エスはミダの顎を指で押し上げる。ミダは太陽とこの狡猾な男を呪いながら、堅く目を閉じた。自分は一体何をしているのか、どうしようもなく情けない気持ちになった。
不意に、少年の狭い口中に水が流し込まれた。いや、落ちて来たという方が正しい。高々掲げられた水筒の口から、大量の水が注ぎ込まれていた。ミダは喉に当たる水流に溺れそうになり、噎せた。
「ゲ、ゲホッ! ゴホ!! ……うぐ」
吐き出すには勿体ない。何とか飲み込む。エスはニタニタと笑っていた。
「冗談だ」
「こ、殺す気かよッ」
「口移しよりマシだろう?」
それはそうかも知れないが、ミダには納得がいかない。
「冗談になるかッ!」
「可愛がるのも苛めるのも好きなんだ」
「この変態!!」
ミダが憤慨していた所へ、急かす様にクラウスが吠えた。エスが言うにはクラウスは特別だ。何が特別なのかミダには解らないが、単なる畜生とは違う事は確かである。
「解ったよ。早く行こう。遊んだ所為で水も底を突いたし」
「ば、馬鹿じゃねえの?!」
「確かに馬鹿だ。まあ、何とかなるさ」
エスは笑う。この男は本当に解らない。一瞬でも神と見紛った己をミダは恥ずかしく思った。
一行はひたすら北に向かう。昇る途中の太陽を右目に、荒野を突き進んでいく。辺りを見回しても一面の砂。その他は、時々生きているとも死んでいるとも解らない枯れ枝の様な植物が点々と生えているばかりである。ミダが目的地を尋ねても、
「ここより涼しい場所だ」
という答えしか返らない。エス自身向かう先に何があるのか知らない様だ。当てもない旅らしい。
だが、ミダにはそれでも良かった。エスの庇護下にあれば、もうこそ泥として逃亡生活を送らなくて済む。口では誰の助けも要らないと言うが、自ら嫌悪する生き方から脱する為の手段は選ばない。それは利用だという事で割り切っている。
更に、ミダがエスに付いて行くのにはもう一つ理由がある。理由とはかの無法共と同じく、黄金の籠手だった。
しかし今は兎も角、
「ハラ減った……」
「水の次は飯か」
「仕方ねえだろ! 二日もロクなモン食ってないんだから……」
消え入りそうな声で言いながら腹をさする。
「泥棒が良いもの食べていたら嫌だよ。そう言えば……」
エスの腹が唸り声を上げる。
「……俺もだ」
酒場を出たら市場で食料を買うつもりだったが、一悶着二悶着あってそれも出来なかった。全部ミダが悪い、とエスは呟いた。
と、クラウスが鼻先を突き上げてひくひくと動かす。臭いを探っているらしい。何かを見付けたのか、視線を一点に絞った。
「食いモンか?!」
「シッ!」
エスが口に人差し指を立てる。
「……クラウスは今、全神経を集中して獲物を狙っている」
声を潜めて言う。クラウスは姿勢を低くし、そして一息に駆け出した。砂煙を上げて走る。あっという間に二人から遠ざかった。犬が何を狙っていたのか二人には見えなかったが、砂の中に半ば顔を埋めて捕らえると、尻尾を振り振り意気揚々と戻って来る。
「頼りになるなあ……」
ミダは感心する。本当に頼りになるのはクラウスかも知れない。
「何を獲ってきたんだろう?」
浮き足立って胸を躍らせながら獲物の姿を見る。クラウスの長い口からだらりと垂れ下がっていたのは、長い尻尾に細く短い脚。それから大きな頭と、ぬらりとした胴体。
「ト、トカゲかよッ」
ははは、とエスが笑う。
「それは食べられないよ、クラウス」
当のクラウスは上目遣いに見ながらも悪びれる様子もなく、そうでもない、と言わんばかりにトカゲをボリボリと貪った。ミダは、うげ、と目を逸らした。
「……犬は良いよな」
落胆と絶望から溜息を吐き、ぺたりと尻を地に着けた。
「もう駄目だ。死ぬ……」
弱音を吐く。喉の乾きと空腹に苛まれ、もはや立っている事さえ困難だ。
「お前は文句ばっかりだな。しかし、ううん……遊んでいる場合じゃなかったかな」
今更の後悔など何の役にも立たない。エス自身参っていた。
日差しは着実に最も高い位置へ昇りつつある。このままでは二人ともお陀仏だ。
その時、またもクラウスがピクリと何かに反応した。
「……何だよ。またトカゲかよ?」
だが今度は少し様子が違った。鼻ばかりではなく、耳までピンと立てている。ミダがクラウスの見る先を見詰めても、地平線の上を陽炎が漂っているばかりで何も見えなかった。
「何にも無いじゃねえかッ」
「いや、待て。あれは……」
エスが目を細める。うごめく大気の中からゆっくりと浮かび上がる影があった。一台の荷馬車である。
ミダが飛び上がり、手を叩く。
「助かった!」
「お前、現金な奴だな」
やはり犬は役に立つ。ミダは泣き出しそうだった。
「この砂漠を歩いて渡ろうなんて無茶するねえ」
商人は手綱を手繰りながら人好きのする笑顔で振り向いた。屋根付きの荷馬車に乗せられた一行は、待ち望んだ日陰にぐったりとしていた。
「いや本当に無謀だよオメェさん方。おれっちの果物が売り切れてなけりゃ、今頃干物だあな」
怖い事を笑顔で言う。どうにもお喋りなたちらしい。
あの枯れ木でも轢いたのか、へたり込んだミダの足下に、果物が転がって来た。黄色く縦長の南国の果実。どうやら傷みがあって売れ残ったものの様で、その一つの他にも五つか六つほどが馬車の端で山を作っていた。ミダには食べた事がないものだが、大量に積まれていただろうそれの甘い残り香は容易に味を知らしめた。
涎が落ちそうだった。売り物でないなら一つくらい頂戴しても構わないだろう。そう自らの行為を肯定しながら、ゆっくりと手を伸ばした。
「ミダ」
不意に発せられたエスの呼び声にミダはびくりと震えた。
「盗みはやめろと言ったはずだ」
ミダは口を尖らせ、ぶつくさと不平を呟きながら膝を抱えた。




