Ep.11-1 奪回せし黄金
「そうだ。すっかり忘れていたが……」
エスが左のポケットから取り出したのは、ミダの手袋だった。
「あ、それ!」
ミダは手袋を嬉々として受け取り、その左手に着ける。漸く一安心だ。ルートガーはその様子を見ていたが、何の事だか解らない。彼の様な下級の兵は、ミダの力を知らない。
「さあ、治療を始めるよ」
「……ああ、頼む」
エスは覚悟を決め、膝を掴んだ。
傷口の消毒に用いられたのは、兵達に奢られた酒だった。火を灯せば点きそうな、強烈な酒である。肩口から盛大に振り掛けられ、傷に染みる。全身を伝う激痛にエスは叫んだ。暴れて椅子から転げ落ちぬ様、ミダとルートガーの二人がかりでエスの身体を支える。カティアは壁にもたれ、腕組みでこの様子を見ていた。
「我慢してくれよ」
船上では満足な治療を施せる訳も無く、戦場でするのと同等の応急処置に止まる。
「ケシでもあれば良いんだけど……」
ルートガーは手を伸ばし、ナイフを掴んだ。ナイフはランプの火に当てられ、赤々と焼けている。それをエスの傷に押し当てる。縫合など出来ない場合の、簡易的な処理である。この耐えがたい痛みにエスの絶叫が響く。
ミダはエスの背中で泣き出しそうだった。目を閉じられても耳は閉じられない。
処置が終わり、気を失ったエスが包帯を巻かれ、カティアのベッドに寝かされた頃には、とっぷりと日が暮れていた。ルートガーは一息吐き、額の汗を拭った。
「……さあ、今度は君の番だ」
ミダに向けて言う。ミダは諸手を振った。
「オ、オレは良いよ!」
「大丈夫だよ。包帯を巻くだけ。痛くないから。ね?」
「良いってば!! オレは平気だからッ」
頑なに拒否する。ルートガーは狼狽し、カティアを見遣る。
「……ルートガー。後は私がやる。持ち場で待機していろ」
「え? あ、いえ、了解しました」
疑問の色を浮かべつつ、医療器具を鞄に投げ込み、包帯だけを残して出て行った。ルートガーが居なくなるのを待って、カティアはゆっくりとミダに歩み寄り、屈み込んだ。
「私なら、構わないだろう?」
静かに尋ねる。ミダは俯き加減にカティアの目を見ていたが、やがて、
「……う、うん」
こくりと頷いた。
エスが目を覚ましたのは、夜が明けようかという時刻である。そろそろ船も波止場に着こうという頃合い、ミダはエスの脇に突っ伏し、カティアは眠らぬ様立ったまま目を閉じていた。エスが唸り声を上げると、ミダは跳ね起き、飛び付いた。
「気が付いたのか?」
「ミダ……」
開口一番に尋ねたのは、
「ミダ、俺のガントレットは?」
海に飛び込む際、重しになるからと外した籠手の事だ。兵士に投げ渡したのだから、恐らく今も奴らが持っている。ミダがそう告げると、エスは起き上がろうとする。
「だ、駄目だって! まだ寝ていなくちゃ……」
「あれが無くては……でなければ意味が……」
消毒の甲斐無く傷口からばい菌が入っていたらしく、熱が出ている。その熱に浮かされ、うわごとの様に繰り返した。エスが旅をする意図は、雷土の力と籠手とを返上する為にある。そのどちらが欠けてもいけないのだ。
だがかと言って、エスはこの通りの状態で暫くは身動きが取れない。ミダは意を決する必要に迫られた。
「……オレが行く。あんたは休んでろよ」
馬鹿野郎、とエスは虚空に目を漂わせながら笑う。
「お前一人じゃ無理だ。すぐとっ捕まるぞ」
「解ってるよ。でも他に無いだろ」
どれだけ無謀な事か、それくらいはミダにも解る。しかし知らぬ振りなど出来ないのだ。己の無力を理由にして、守るべきものを見捨てられるものか。
二人の遣り取りを見ていたカティアが、不意に口を開く。
「私が行こう」
ミダは振り返り、意識朦朧としていたはずのエスまでも、目を見開いた。
「何であんたが? 帝国の人間だろ?」
「宿敵とは万全の勝負を望む。宿敵を宿敵たらしめる要素があの籠手にあるのなら、籠手を失ったそいつを打ち倒して何の意味がある? 何の価値がある?」
「まだ勝負なんて……」
下らない事に、と言おうとしてやめた。固執するのにはそれだけの理由があるものだ。エスが籠手に対してそうである様に、ミダが危険と知っていてエスと帝国へ行く事を決めた事の様に、カティアにとっても、戦いは特別な意味がある。
「それに、ベックマンのやり方は気に入らん。奴にお前を渡す事など、出来るものか」
カティアとベックマンは同じく帝国軍人と言えど、志がまるで違った。ベックマンは私利私欲で動き、顧みる事を知らない。カティアにはそれが解せないのだ。
ミダは考えを巡らせてから答えた。
「解った。けど、オレも行く」
やめておけ、とカティアは窘める。
「そもそも、我々……帝国が一番に欲しがっているのはお前、お前の力だという事、お前にとって私も敵だという事を忘れるな」
「あんたが敵だから信用ならないんじゃないか。エスの籠手を猫ばばするかも知れない」
それにさ、と続け、ニヤリと片笑む。
「あんたがオレを守ってくれるだろ?」
カティアは眉を微かに痙攣させて、やれやれと頭を振った。ミダに手を出すつもりは無いだろうし、ベックマンが兵士をそう差し向けても、それを許せぬカティアはきっとミダを守ってしまう。そこまでの確信がミダにはあった。エスの性格の影響下にあって、こうして人を手玉に取る知恵が、ミダにも付いてしまったらしい。
「……良いだろう。ただし、無茶はするな」
夜が明けて辺りが明るくなった頃、カティア達の船は、元々連絡船で行くはずだった街とは違う港町、ヴァローナに到着した。他の波止場にはベックマンの艦もあり、カティアが真っ先に向かったが、既にベックマンや兵らの姿は無く、残っていた乗組員らに尋問しても、宿泊先は知らないという回答しか得られなかった。
「じゃあどうするんだ?」
「地道に聞き込みを重ねるしかあるまい。あんな大所帯だ。見ている者も多いだろう」
ミダは街に降り立ち、その様子を眺める。貿易で栄えたヴァローナはバルキンとは雰囲気が違った。忙しなく行き交う人影は、それぞれ立派な身なりをしているし、露店が無く騒がしさも無い。バルキンが腕っ節の強い男の集まりなら、こちらは商売に強い人間の集まりと見える。
カティアは、木箱の上にぼんやりと座って身体を休めていた荷物運びの男に声を掛けた。
「帝国の軍人さん? さあなあ。奴ら積み卸しも何もかも自分らでやっちまうから、おれっちには解んねえよ。大通りにでも出ればどっちへ行ったかくらい解るんじゃねえかな」
男は頭をぼりぼりと掻きながら、カティアを舐め回す様に見ていた。カティアは全く意に介さず、男に軽く礼を言ってその場を立ち去る。
言われた通り、大通りに出てみると、街は矢張り落ち着いた空気に包まれていた。道路は石畳で綺麗に舗装され、建物も石組みや漆喰。風は潮臭いが、生臭くは無い。
そんなそよ風に乗って、ミダの鼻をくすぐるものがあった。
「ん。何か良い匂いがする」
鼻の穴を広げて匂いの元を探す。香ばしく、微かに甘い。カティアも鼻を動かすが、よく解らなかった。
「腹が減っているのか?」
尋ねられるが、丁度匂いの元を嗅ぎ付けたミダは、ああ、と大きな声で遮る。
「あそこだ! あそこからする!!」
叫んで、いきなり駆け出した。
「あ、コラ! ちょっと待て!!」
カティアも慌てて追い掛けるが、空腹に突き動かされた少年の脚は速い。
匂いの元はパン屋だった。開けっ放しの扉から、焼き立てのパンの匂いが漂い出ていた。殆ど海から流れてくる磯臭さに掻き消されているのだが、ミダは迷い無くパン屋に行き着き、導かれる様にして店内に足を踏み入れて行った。
「いらっしゃい」
がたいの良い店主が、店頭にパンを並べながら言う。
「おや、見ない顔だな。お使いかい?」
ミダは頭を振った。
「いんや。あんまりに良い匂いだったから、釣られて入ったんだ」
「ははッ! そりゃ良い。それ」
気さくな店主は、小振りなパンをミダに投げてよこした。
「本日一番目のお客だ。只でやらあ」
「良いのか?!」
「良いともよ。食ってみな」
勧められるまま、パンに齧り付く。小麦粉を練り固めて焼いただけの質素なパンは、まだ温かいが硬く、両手で一杯に力を込めて漸く千切れた。奥歯で噛み締めると、潮風の中に感じた、あの芳しい香りが鼻腔一杯に広がる。ちょっと塩気が利いていた。
「……うめえ」
「そうだろ? 良く噛んで食えよ。噛めば噛む程味が出る」
店主の言う通り、口の中で次第に柔らかくなりつつ、ほのかに甘みが出てくる。
「うちのパンは海の水を使ってるからな、美味いだろうさ」
「へえ、海の水!」
ミダは頬張りながら感心して声を上げる。店主は気を良くして解説を加える。
「ここらの海は他と比べると塩気が薄いからな、ちょっとこすだけで使えんだ。普通に水と塩使うよりも良い味になる。こんな作り方は他じゃ無いぜ?」
話を聞きながら、ミダは頻りに頷く。そこへ、カティアが遅れてやって来た。
「いらっしゃい。おや、二番目は兵隊さんかね」
パンを丸ごと一つ口の中に押し込んで、頬の膨らんだ顔でカティアを見上げる、そのミダの目は爛々と輝いていた。
「……主人、連れが何か迷惑を掛けた様だな」
「ああ、そちらさんの? 何、気にするな。あんまり物欲しそうに見ているモンだからよ」
じろりとミダを睨むカティア。ミダは素知らぬ風にパンをもぐもぐやっている。
「ところでつかぬ事を尋ねるが、この通りを我々の兵が通らなかったか?」
「通ったよ。明け方じゃねえかな? 焼く支度をしてた所だったんだが、ぞろぞろ行進して通り過ぎてった」
店主が指差した方をカティアが見遣った頃、やっとの事でパンを飲み下したミダは、満ち足りない腹をさすった。目を戻した時その仕草を目にしたカティアは、主人に告げる。
「一つ買おう」
「お、ありがとうよ」
大きめのパンを一つ選んでミダに手渡すと、少しばかり色を付けた代金を支払い、店を後にした。
ミダは店先の地べたに腰を据え、パンを囓る。実に幸せそうに食べるものだから、その隣に立ったカティアは暫しその様子に見入っていた。ミダが水を所望するのに答え水筒を預けながら、呆れたカティアは言う。
「随分な食欲だな」
水分を奪われ、ぱさつく口を潤してから答えた。
「仕方無いだろ? 近頃ろくなモン食ってないんだからさ」
「何? 食事もままならないのか。奴めは全く、度し難い男だな」
「エスの事を悪く言うなよな!」
擁護する発言はしてみたが、そう言われても仕様が無いと、ミダは思う。何度も救われて来たが、何せ自分一人で酒など飲んだ上、ミダの食事など蔑ろなのだから。その点で、カティアは感謝するに足る人物である。
ミダはパンの半分を割り、カティアに差し出した。
「やる。あんただって食って無いだろ」
夕食も断り寝ずの番。腹が減らない訳が無い。ミダに彼女を労う気持ちが出来たのは、空腹が満たされ心にゆとりが出来たというだけに止まらない。カティアは少しばかり躊躇したが、感謝の意を素直に受け取るのも礼儀とした。
「礼を言う」
「うん」
残ったパンを頬に詰めて、
「あれ? 言うなら早く言えよ」
不思議そうな目でカティアを見上げる。
「……どうもありがとう」
「どういたしまして」
ミダは無邪気に笑い、カティアは閉口した。




