Ep.10-2 繋がれた黄金
エスは海面に浮かび上がり、大きく息を吸った。一時はその一呼吸さえ出来ぬものと思っていた。抱き抱えられたミダは、ぐったりとエスの胸に身を任せている。大量に水を飲み、血の気が失せ顔面蒼白だが、まだ死んでいない。
投げ込まれたロープをエスの左手ががっちりと掴まえる。その手は黄金に変じてなどいない。
引き上げられた先は連絡船ではなく帝国の船艦上だった。直ぐ様兵士達が拘束しようと二人に取り付くが、エスはそれを振り払い、ミダを奪った。
ミダの身体を横たえ、自らも呼吸がままならないにも関わらず、隙間無く兵隊に囲まれながら心肺蘇生に当たる。口から息を吹き込み、胸を押す。無我夢中だった。犬の様な喘ぎを漏らし、ミダを助けようと必死になっている。誰にも邪魔は出来なかった。
幾度か繰り返した所で、口から海水が溢れ出て、ミダの意識が戻った。噎せるミダの濡れた髪を撫で、エスは安堵の表情を浮かべた。
「……嗚呼、良かった……」
隣にへたり込み、力無く項垂れる。
「エス……オレ、力抑えられた……」
「ああ、そうだな……。疲れただろう? 少し、眠れ……」
エスはミダの両目を覆い、そのままゆっくりと、横様に倒れた。ミダも緩やかに、気を失っていった。
気が付いた時、ミダは左手首を鎖で吊り上げられ、薄暗がりの中にいた。恐らく船倉の一角。天井は高いが四方を壁に覆われ、酷く狭い一室はまるで独房である。唯一の灯りは、汚れて曇った小さな丸窓から差し込む日の光だけだった。
「エス……?」
そう呼ぶ小さな声も反響する。応えたのは唸り声だった。
「エス? 何処にいる?」
「……ここだ」
エスはミダの程近く、光の当たらない最も暗い場所で、脚を投げ出し、壁にもたれて座っていた。ミダと同じように、左腕が鎖に繋がれている。梁を通した同じ一本の鎖が二人を結んでいる様だ。
「奴ら、俺が力を使えない様に企んだらしい」
エスの左手が雷を放てば、鎖を伝い真っ先にミダに流れ落ちる。計算尽くだ。
「……おまけに随分と痛めつけてくれた」
「大丈夫なのか?」
目を凝らして見ると、エスは服の上半身を破られていた。更に何度も鞭で打ったのか、所々皮膚が割れ、血が流れ出ている。
「……酷い」
「俺は大丈夫だ。それよりお前はどうだ?」
「オレは……痛ッ」
身体を動かそうとして、右肩に痛みが走った。外れた肩がまだ戻っていないらしい。右腕が言う事を聞かなかった。
「ミダ、こっちに来い」
鎖にはいくらか余裕があった。身長に立ち上がり、よろめきながらエスに歩み寄る。エスはミダを右手で抱き竦めると、脱臼した肩に手を遣った。
「歯を食いしばれ。でないと舌を噛むぞ」
「なあ、それ……痛いのか?」
「ああ、物凄く痛い。だがすぐに済む」
「……解った」
言われた通り、奥歯を噛み締める。エスは一思いに、ミダの肩を抱き締め、間接をはめ直した。骨の擦れる嫌な音と、それまで以上の、矢で突き刺されたかの様な激痛。ミダは絶叫し、エスの胸に倒れ込んだ。気を失いそうになるのを、涎が滴るのも気にせず、声を上げて堪えた。
「泣いても良いぞ」
ミダの頭を抱え、エスが囁く。しかしミダは激しく頭を振った。
「な、泣か、あい……ぜっ、たい、泣かない……ッ!!」
唇がわなわなと震え、舌が回らない。エスは一層強く抱いた。
痛みが引き、落ち着きを取り戻した頃、ミダはエスの隣にへたりこみ、茫然自失とその肩を枕にしていた。
「……ごめんな」
ぽつりと呟く様に謝る。
「また足引っ張っちまった」
「気にするな。本当にただの足手纏いなら、俺はお前を見捨てていた」
「うん……ありがとう」
今までに無く素直である。
それからおもむろに立ち上がり、エスに向き直った。無言で服の裾を噛み、引き千切る。それを唾で濡らし、エスの血が滲む唇を拭った。
「痛ッ」
甲斐甲斐しく身体中の傷を拭きながら、ミダは尋ねた。
「オレ、どうやって力を抑え込んだのか解らねえ」
ミダを縛る鎖は既に一部が金に変じている。いや、とエスは首を横に振った。
「お前の力が抑えられた訳じゃない。残念だが」
「え? それじゃあ、どうしてあんたは……?」
エスは問い掛けに暫く目を泳がせたが、やおら口を開き、語り始めた。
「昔、ある男が俺に言った。『お前に力は無い。だが力を振るう素質と、資格とを持って生まれた』と。俺は意味を尋ねた。男は答えた。『いずれ知るだろう。目印はここにある』。すると突然俺の神を掴み、その束を切り取った」
ミダは右手にじっとりと汗が滲むのを感じた。エスの黒髪が、微かな光を受けて煌めいている。
「男はこうも言った。『神の怒りは浅ましき人間のものではない。ならば私は、私の様な人間は、一体何の為に生まれてきたのか? その意図は? 答えは今ここで見出した。私は信託者。私は宣教者。私は殉教者。神の系譜を紡ぎ、神の意志を伝え、神の元に滅びる。私は何故だかそうした運命の下に生まれたのだから』」
男は告げ、左腕の籠手を脱ぎ捨てると、忌まわしい痣の絡み付く腕を露わに、エスの左腕を握る。大蛇に腕を締め付けられる様な傷み。同時に、男の痣がするすると、その手からエスの左腕へ伝う。肘までを侵され、エスは叫んだ。それに呼応するかの様に、エスの左腕が雷土を放つ。四方から放出される電撃は、男の腕を這い、男の顔面に浴び掛かり、腹を突き飛ばした。
空中へ弾き出された男の身体は、崖を真っ逆さまに、滝壺へ消えていった。
「漸く解った。あの男の言葉の意味、そして……お前と出会った意味が」
エスは顎でミダの右手を指し示した。
「お前の手袋に縫い付けられているのは、俺の髪だ。十年前の……」
「何だって?!」
裏地に黒い毛髪が使われている事は、ミダも知っていた。だがそれに何の意味があるのか、そこまでは解る訳も無い。
「もう一度、その手で俺に触れてみてくれないか」
「そんな事……」
「心配するな。既に一度確かめた事だ」
ミダは言う通りに、右手の手袋を口で脱ぎ、その手で恐る恐るエスの右肩に触った。黄金は冷たく堅い。しかしその指先は、今まで感じた事の無い、他人の肌の温もりと柔らかさを感じていた。エスは黄金に変じなかった。
「これって……!」
初めての感触は、感動よりも驚きの方が勝った。
「俺の身体は、雷も、お前の指先さえも、受け付けない。神の力に対する『耐性』。それが、あの男の言った事の意味だ」
「信じられない!!」
その手に触れて黄金にならないのは、これまでミダ自身の身体と、水だけだと思っていた。だがこの時、それまであたかも常識の様に存在していた事実が、覆されたのである。
力を生まれ持った者皆がそうという訳では無いらしい。ミダは一度エスの電撃を少しながら受けている。まさに、彼だけに備わった特別な能力だった。
ミダはエスの肩を撫でてみたり、つねってみたり、軽く爪を立ててみたりして、誰かに触れられる幸福を存分に味わった。
「やめろよ、くすぐったい」
エスは微笑む。
「でも、どうしてあんたの髪の毛が、この手袋に?」
「簡単な事だ。それを作ったのが、あの男……黄金の甲冑を身に纏い、電撃の力を備えた、『神』だからだ」
「それじゃあ……」
「俺とお前とが出会った事も宿命。いや、あの男が仕組んだ事だったんだ」
「じゃあ、『あいつ』が……!」
日が陰り、僅かな瞬間を暗闇が支配した。その直後だった。
「やっと気付いたの?」
女の声がした。
「誰だッ」
向かいの壁際に女が立っていた。全身黒尽くめの女が、暗がりに溶け込む様に佇んでいる。ここに第三者は居ないと思われていた。いや、実際居なかったのだ。
「いつからそこに居た?!」
「いつからでも居たし、いつからも居なかった」
訳の解らない事を言う。帝国に捕らえられた者ではない様だ。
「帝国の人間か?」
「近からず、遠からず」
音も無く、すっと二人に歩み寄り、女は言った。
「私は何処にでも在って、何処にも無い。見ようとしても見えない。外側に在って、内側に在る。私はそういう存在」
二人は直感的に、女をひとならざる者と認識した。
女はミダの傍に屈み込み、手袋を拾い上げた。
「着けてあげる。手を出して」
妖しげで優しい声音をする。ミダは女に怯えながらも、右手を差し出していた。
「可哀想な子……」
呟きながらそっとミダの手に手袋を嵌める。それが済むと再び立ち上がり、後退る。
「待て! お前は一体何だ!!」
「見ているわ。ずっと……」
妖艶な微笑を浮かべ、闇に溶け、その姿を消した。霞みの如く消失してしまったのである。明らかに人間では無いが、亡霊とも思えない。全く得体の知れない女だった。
二人はしばし愕然としていたが、女の登場をきっかけに、脱出の腹積もりが出来上がった。
エスとミダが捕らえられた船に、もう一隻横付けする船がある。一回り小さい船から乗り込んで来たのは、カティアだ。
「おお、カティア軍曹。ガルデロイ将軍の懐刀ではないかね」
大きな鷲鼻に禿げ上がった頭で、腹の突き出た男が手を叩いて出迎えた。若くして将軍の傍にあって、カティアの名前は帝国軍中に知られていた。カティアは笑いもせず言葉を返す。
「哨戒任務中ではありませんでしたか、ベックマン殿?」
険しい顔付きに、厳しい口調。位で言えばベックマンと呼ばれた男の方が上だったが、カティアは物怖じする気配を見せない。
「任務を放棄して連絡船を襲うなど、まるでならず者。誇り高き帝国の軍人のする事とは思えませぬが」
バルキンの港から望遠鏡で、ベックマンの船が連絡船へ体当たりするのを目撃している。目的はすぐに解った。
「目的の為なら手段を選ばないのがワタシでねえ。お陰で収穫はあった」
ヒキガエルの様な醜悪な笑い声を上げる。カティアは鼻で笑った。
その時、船倉へ通じる扉を蹴破る者があった。エスである。鎖で繋がったままミダに身体を支えられ、甲板上に躍り出る。
「あ! あいつ!!」
カティアの姿を認めるなり、ミダが叫んだ。




