Ep.10-1 繋がれた黄金
海面は静か、波間に船がたゆたう。相変わらずの快晴。乗り合いの連絡船の甲板で、ミダは左舷から身を乗り出して水飛沫を眺め、一方エスは縁にもたれて空を仰いでいた。空と海とでは、同じ青でも全く違う。何と無しそんな事を思い浮かべながら、ミダはゆったりと船が揺れるのに任せていた。
一行はバルキンを離れ、海を渡る。港町はもう遥か彼方、水平線の上にぼんやりと浮かんで見える。勿論と言うべきか、ルッツも一緒だった。
ルッツは青あざを作った顔を更に青ざめさせて、右舷でげえげえと海の魚に餌をやっている。
「なあなあ」
ふと、ミダが声を上げた。
「……何だよ」
「昨日の夜は何やってたんだ?」
まどろみの合間に見た光景が不可思議で、気掛かりでならず、そればかりが気になって仕方なかった。馬鹿、とエスは舌打ちをする。
「何をヤってたかなんて、野暮な事を聞くモンじゃない」
「野暮って何だ?」
「お前みたいな餓鬼の事だよ」
そう笑殺されても、ミダの疑問は引っ込む事を知らない。
「教えてくれたらもう聞かねえよ?」
「だから、聞くなと言っているだろうが。解らず屋め」
呆れ返って目を閉じる。未だに理解しがたい様子で目を輝かせているミダに、エスは言った。
「夜は大人の時間だ。子供は知らなくても良い事もするし、そうしたものはあるんだ」
「へー。じゃあ、夜になったら大人はみんなああするのか?」
「……お前、その間違った見識を何処かで披露したりしたら、思い切りひっぱたくぞ」
なら何なんだ、とミダは口を尖らせる。こういう時、無知な子供というのは酷く疎ましい。エスは、ところで、と話題を変える。
「お前はその力で戦うと言うが、どうするつもりだ?」
全く違った話。ミダはきょとんとした。
「どうって?」
「具体的に、その力をどう操り、どう活かすつもりなのか、はっきりさせなければな。脅すだけではとても戦いとは言えない。それが通用したのは、相手が彼女だからだ。そんな風では力を使った事にならないだろう」
一気にまくし立てられ、ミダは憮然とした。エスにとっては、上手く話を逸らせて、しめしめといった所だ。
「そんな事言ったって、どうしたら良いか解んねえよ? 実際、操るも何も、触っただけで金にしちまうんだから……」
自らの両手を見遣る。エスの力の様に、便利なものではない。しかしエスは、
「そうとも限らないさ」
さらりと言ってのける。
「俺の力とお前の力とでは特性が異なる。が、しかし、俺だって最初から自由に扱えた訳じゃない。こいつを受け取った時は暴走しっ放しだった。ガントレットに触れるだけで、際限なく放出してしまう様な、そんな状態だった」
エスはミダと同じ方向、海に目線を投じた。
「無尽蔵に放たれる雷は、俺の体力を着実に削ぎ落とし、死へと誘った」
力の流出は、すなわち命を垂れ流すのに等しい。
ミダは自らを利用されるだけの日々を思い出した。次から次に目前に突き出される物品。ことごとく黄金に変えて行く。疲弊は募り、ミダが気絶するまで続けられた。
雷は物に触れなくとも放たれる。力は意志・意識の有無とは無関係である。エスの身に起きた危機も、容易に想像出来た。
「……それで、どうしたんだよ?」
つまり、エスはその時、力を制御する術を編み出したのだ。
「俺は死を覚悟した。自分は自らの左手に殺される、そう思った」
ミダは唾を飲んだ。もしも力を自在に操れたら、どんなに素晴らしいか。何もかもを克服出来る程の意味がそこにはあるだろう。
だが、エスは続きを語らない。
「……え? 終わり?」
「ああ? 今終わっただろう、確実に」
「肝心の部分がまだだろ? ほら、力を扱える様になるにはどうしたらいいか……」
ああ、と思い出した様に手を打つ。そしてあっけらかんとして言い放った。
「そんなモン知るか」
「はッ?! 今そういう話の流れだっただろ!!」
「ふと気が付いたら収まっていて、後は慣れで何となく使える様になった。それくらいの話だぞ」
ミダはぽかんと口を開ける。
「ちなみに、それ以来肉体的にも妙に強くなってな。少し力むとそれだけで馬鹿力が出るんだ。凄いだろう?」
「……ただの自慢話かよ……」
がっくりと項垂れる。ハハハ、と大笑いするエス。
「……ダメだこいつ、頼りにならねえ」
結局、意のままに力を行使するのは不可能なのだろうか。絶望感よりも妙な気怠さにとらわれた。
しかし可能性は捨て切れない。ミダも何らかの方法で力を抑え込めるかも解らない。黄金にしたくないと強く念じた事は多々あるが、その念は通じなかった。きっと何か他の手があるのだと、ミダは腕組みをして考え込んだ。言葉を封じる為の、エスの口車に乗せられたとも知らずに。
ただ、本末転倒な事に、今度はエスの側に疑問が首をもたげた。
「……ミダ、お前の手袋をもう一度良く見せてくれないか」
「え? 別に良いけど」
ミダは左手の手袋を脱ぎ、エスに手渡す。
ミダの手袋は力を封じ込める効果を持つ。一方、エスの籠手は単に黄金で出来ているというだけで、そうした特殊な「何か」は無い。この一見薄汚いだけの手袋に、到底不可能と思われた摩訶不思議な技術が用いられているのなら、エスはそれを知りたかった。
表側を見た限りでは、やはりただの手袋。少々ミダには大き過ぎるという印象でしかない。そこでエスは、裏地を捲り返して見た。
「ん……?」
手袋の裏側は、表面と打って変わって、異様だった。何か、黒くて艶のある糸がびっしりと縫い付けられている。いや、正確には糸では無いのだ。
「……髪の毛?」
長年着け続けていた為に、内側には手垢がびっしりとこびり付いていたが、確かに人毛である。一本だけ摘み取って、まじまじと眺める。癖の無い黒毛は、日の光にかざすと僅かに紫色味を帯びる。その色合いに、エスは見覚えがあった。
「……そういう事か」
エスが呟いた、その時――。
けたたましく、鈍い音が響くと同時に、船体が激しく揺れた。
「うわ!」
大きく左に傾き、ミダが危うく転落しそうになる。
連絡船の倍はあろうかという、巨大な艦船が、右の船体に体当たりを仕掛けていた。転覆するかしないか、その瀬戸際を狙っての際どい蛮行、海賊のする所行である。だが船は帝国のものだとエスは即座に察した。
衝撃で甲板に積まれていた空の樽が倒れた。転がり、跳ねる。
「ああッ! エス……!!」
高々と跳んだ樽がミダに襲い掛かった。逃げようとエスの方に駆け出したが、もう遅い。ミダの身体一つならばすっぽりと収まる程の樽が、華奢な肩先に強か打ち当たり、横様に跳ね飛ばされたミダは、樽と共に海へと落下した。
「ミダ!!」
エスは咄嗟に手を差し伸べるが届かず、ミダは頭から海面へ。
船員達は一様に戸惑うばかりで、ミダが落ちた事になど気付きもしない。
連絡船へ、大型船から帝国の兵達がぞろぞろと、渡しを架けて乗り込んでくる。
「居たぞ! 奴だ!!」
「捕らえろ!!」
兵士どもはルッツやクラウスには目もくれず、剣や槍を手に手にエスを取り囲む。エスは舌打ちした。
「この馬鹿野郎どもが! 元も子も無い事をしやがって!!」
エスは籠手を外し、正面の兵士に投げ付けると、言い放った。
「持っていろ」
縁に足を掛ける。
「逃がすな!」
「誰が逃げるか!!」
叫びながらマントを脱ぎ捨て、目一杯に息を吸い込み、海へ飛び込んだ。
海は青く、深く、光も届かない淵底は暗黒である。小魚があたかも銀の鱗をぎらつかせる大魚の如くに群れ、エスの周りで一度四方八方散り散りに別れたと思うと、すぐに集まり悠々と泳ぎ去る。
エスの両目がゆっくりと沈んでゆくミダを捉えた。遥か下方で、今にも闇に飲まれようとしている。急いで引き上げなければ命は無い。エスは潜り込む。
水中でミダの名を叫んだ。ミダは意識朦朧としていた。
水面に太陽が揺らめいている。ミダはぼんやりと、それを美しいと思った。海中は全くの無音。闇の中に溶けて行く感覚と天から差す光は、天へ誘われる錯覚を引き起こす。
ミダの耳に、僅かながら、呼び声が聞こえた。エスが左手を差し伸べている。
「掴まれッ」
叫び声が確かに聞こえた。その時やっと意識が明瞭になった。けれど、エスの手は素手。ミダの右肩は脱臼しているらしく、動かす事が出来ない。唯一その手を掴む事の出来る左手は、不幸にも手袋をしていない。
<ダメだ!>
触れれば黄金になる。どうせ自分が助からないのなら、せめてエス一人でも生き残るべきなのだ。
そんな事はエスも知っている。だが、手を引かない。
「早く手を! 息が……!!」
ミダの小さな身体がどんどん沈んで行く。エスもこれ以上は息が続かない。
<もう良いんだ。諦めてくれ>
ミダは死を覚悟した。エスを助ける為ならば、自分の為に命を捨てようと言うのならば。喜んで命を差し出そう、潔く命を投げ出そう。そう決めたのだから、迷いなど無い。
死の願望など理解出来ない。しかし誰かに生を与える死なら、望んで受け取る。ミダはこの時、そういう気持ちは素晴らしいものだと思った。
知っている。それが愛だ。
この美しい感情を教えたのはエス。そしてその感情を向けた相手も彼。ミダに悔いは無かった。
『さよなら』
ミダは口の動きだけで、最後の別れを告げた。
それを見たエスは、笑った。頬を僅かに弛ませ、安らかに笑ったのである。馬鹿を言うなと、苦しいはずなのに、微笑んでいた。
この時、ミダは全てを理解した。エスも同じ事を思っているのだと。ミダの為に命を投げ出す事さえ惜しくはないのだと。
ふと思い出す。
『俺のこの手を掴んだら、お前の決意、お前の全ては俺のものだ』
エスの言葉である。手を取り合い、共に行く事を誓い合った晩の事だ。
そう、取り合った手は二度と離れる事は無い。エスの左手は、ミダの決意も、想いも、全てを掴んで放さないのだ。
ミダは泣いた。涙は塩水に流れて消える。だが胸の中に湧き上がる情熱は、海にも底知れぬ闇にも、奪う事は出来なかった。
エスとの誓いを果たす為に、ミダはその手を伸ばした。




