Ep.9-2 夜は金色
ルッツの身体が壁に叩き付けられ、ずり落ちる。地に尻が付くか付かないかという所で胸ぐらを掴まれ、無理矢理に立たされる。
悪漢二人に路地裏へ連れ込まれたルッツは、彼らの憂さ晴らしの道具と成り果てていた。容赦なく頬を殴られ、抵抗もしない。
ただただ一方的な暴力。抗おうと思えば手段はあった。だが彼の唯一の武器である銃は、包みも解かれないまま、遠くの地べたに放られている。
このまま死んでしまえたら良い。殴り付けられている間ルッツはそう思っていた。自殺願望者特有の、発作の様なものだ。生と死との矛盾に直面すると、痛みという明白な生の実感でさえ、死の疑似体験となる。そのきっかけはいつも些細な所にあって、頻繁に訪れる破滅への欲求は、確実に自我を崩壊させていった。
クラウスは、ルッツのその様を見詰めていた。ルッツの虚ろな瞳を注視し、何もせず、ただ座している。そうしているのが彼の務めであるかの様だ。
「何だコイツ? 完全にイッちまってらァ」
暴漢が殴る手を休めて言った。
「人形殴ってるみてェで張り合いが無ェや」
ルッツの顔には普段の作り笑いも、苦痛の色さえも無い。まさに抜け殻だった。
「クソッ! 手首を痛めちまった……」
「オイ、もう行こうぜ」
漸く殴る事に飽きた男達は、力無くへたり込むルッツに唾を吐きかけて、立ち去った。矢張りクラウスは見ているだけだ。
やっと解放されたルッツの胸中は、安堵ではなく落胆だった。
「……また、死ねなかった……」
口の中で呟く。自ら命を絶つ事が出来なかったルッツは、誰かに殺されたいという、希望を抱いている。正気ではなかった。
クラウスはゆっくりとルッツに歩み寄り、正面に腰を下ろした。金色の双眸が哀れむでもなくルッツを見下ろす。見返したルッツは、
「……そんな目で見ないで下さいよ、クラウスさん」
犬の目が軽蔑や失望を訴えて見えた。かつての仇がした、その目と同じだった。ルッツはこの目に呪われ、緊縛され、鞭撻されながら、生きてきたのである。
「僕だって頑張ってるんですから」
苦笑を浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。壁を頼りに震える膝を伸ばし、鼻血を吹き飛ばして深く息を吸った。よろけながら銃を担ぎ上げ、路地を抜ける。クラウスはもう後を付けなかった。
ルッツは、死んでいないというたったそれだけの、復讐という理由を無理矢理に付与しただけの生を踏み締めながら、宿を探して彷徨い始めた。
『救い様の無い馬鹿だ』
夜空には女神の母乳が流れている。地平線まで流れ落ちる河川を形作る、極々微小な光の粒は死者の魂などで無い事を、カティアは知っている。
血の通った土くれは、死ねば土に還る。天に昇る訳も無く、ましてや、生者を見守る事など無い。
カティアはこの夜を、宿屋の一軒を貸し切って、帝国兵らと共に過ごしていた。早々に二階の一室に上がり、長らく窓辺に居座って空を見上げていた。
亡者と語らっていたのではない。彼女はただ、星空が好きだった。
戸を叩く音がした。
「誰だ」
「し、失礼しますッ! あ、あの……お呼びと聞いて……」
ドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせたのは、昼間エスの手当をした兵士だった。入室を命ぜられた若い兵は、緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「ご用でしょうか?」
自然と声が上擦る。仕方の無い事だ。カティアは配下の兵士らから、畏敬と共に畏怖されている。剣を取れば右に出る者は無く、その自信と妥協の無い性格から来る発言は、歴戦の兵でさえ身震いする程だ。そんな上官に呼び出されたのだから、死に近しい覚悟をせねば為るまいと、若者は内心穏やかでなかった。
しかし、カティアは存外に柔らかい口調で言った。
「何も恐がる事は無い」
窓の縁に肘を掛け、柔和に頬を弛ませる。普段は見られない意外な顔付きに、兵士は逆に緊張の度合いを強めた。
「私は皆に何と呼ばれている? 鬼か、悪魔か……」
「い、いいえ! その様な事は……」
構わんよ、とカティアはあくまで優しい。
「貴様だから訊けるのさ、新兵。連中を端から見られるだろう。あの百戦錬磨の鋭兵共とは馴染めていまい」
指摘された通り、新兵は仲間から除け者扱いをされていた。年若く、戦場を知らず、気の小さな彼は、しばしば他の兵士達から苛めを受ける事もある。訓練を終えたばかりの彼がこの実動部隊に配属になった、その嫉妬もあるかも知れない。
「そ、その……『鬼軍曹』と……」
兵士は目を泳がせながら、怖ず怖ずと答えた。不当な圧力の延長を感じていた事は否めない。だが存外に、カティアは快活な声を上げた。
「そうか。それは結構だ。ハハハッ!」
唐突な笑い声に、兵士はビクリと震えた。
「実に結構だ。そうとも呼ばれず、分隊指揮官など務まるものか」
再び笑う。狼狽した兵士は尋ねた。
「自分にご用とは、何でしょうか?」
「ああ、そうだ。その事だったな」
閑話休題と笑うのをやめ、兵士の目を真っ直ぐに見遣った。
「名前は何といったか?」
「はッ! ルートガー・ハイドリヒ二等兵です!!」
敬礼し、恐縮する。
「ルートガーか。呼び付けたのは、貴様に礼を言いたくてな」
「は……?」
カティアは親しみを込めて姓で呼ぶのを避けたが、ハイドリヒにはその憶えが無い。
「お礼、と仰いますと?」
「昼間の件だ」
「あれは、ご命令でしたから……」
ハイドリヒはカティアの半ば強制的な命に従っただけである。礼を言われる様な事ではない。彼自身そう思っている。
「捕獲対象を捕縛せず、あまつさえ治療させた……私の重大な越権行為だ。付き合ってくれた事に礼を言いたい。それとも、貴様は上官の命令なら何でも従うと言うつもりか、ルートガー」
意地の悪い質問だ。是と答えれば、意志のない男と思われる。否と答えれば、上官に従わぬ悪い兵である。
「自分は……」
答えに窮したハイドリヒは、思う所を口にした。
「……カティア様でしたから……」
「ほう」
含み笑いをして、聞き返す。
「私だからか」
ハイドリヒは頷く事も出来ない。己の失言に直ぐ様気付いたからだ。
入隊した頃から、カティアに憧れていた。帝国の軍にあって歴戦の英雄ながら、甲冑を纏い剣を振るってもその女性的な魅力は隠し様も無く、容姿端麗。尚かつ頭脳にも富む、才色兼備の美女だ。ハイドリヒは、彼女の配下に決定した時、心がときめいた。
カティアの部下に対する語り口は、男勝りの度を超えている。口汚く罵る事も頻繁である。女を捨てているだとか、男に負けじと必死なのだとかと、揶揄する者は少なくない。だがそうした輩も、矢程に射貫くその視線を受け、心の臓を突き刺す刃の如き一声を浴びれば、途端に竦み上がってしまう。ハイドリヒの様な小心者は、本来ならば縮み込む相手だが、彼女の罵声に晒される度、一種のマゾヒズム的な感覚でもって、寧ろ急速に惹かれていった。
カティアとハイドリヒでは、立場の差は雲泥のものだ。無論、ハイドリヒ自身そんな事は承知している。
「私に忠を尽くすと言うか?」
ハイドリヒの感情は、忠義と呼ぶべきものと近しくて、しかし異なる。それでも、一生を賭してでもカティアに付き従いたいと思う気持ちは、覆しがたいものだ。
「……カティア様のご命令なら、例え対価が死であったとしても」
「そうか。光栄だ。だが……」
カティアの目がハイドリヒを睨む。
「死ぬな。何があろうと、決して……決してな」
兵達の間に流れた噂では、先のキルグメニスタンでの一件で、一人の兵が死亡した折、カティアは人知れずさめざめと泣いていたらしい。数々の戦場で戦って来た彼女だが、たった一人の人間の死を悼む心は失っていない。
「申し訳御座いません」
ただの噂と思っていたハイドリヒだが、この時漸く真実だったと確信し、胸を打たれた。
「宜しい。では下がれ。そして酒でも飲め」
「今は任務中ですから……」
「構う事は無い。どうせ他の兵は、今頃下ではどんちゃん騒ぎをやってるのだろうからな」
カティアには全てお見通しである。
夢を見ていた。いや、見ていた様な気がする。
何も無かった。何も無いという夢だった。無音無風の世界で全てが黄金に凍り付き、自分の身体さえ黄金の物言わぬ彫像と化して、呼吸さえ永遠の内に消える。漠然とした恐怖は、もはや夢でも無かった。
蝋燭の淡い光の中に、天井がぐるぐると回る。ミダは額に手をやって、正気を取り戻そうと瞬きを繰り返した。
「……ダメよ、起きちゃう……」
女の声がする。
「ぐっすり寝てるさ。お構い無く……」
男の声がする。
唇の吸い立てる音がして、女が、もう、と言うのとは裏腹の声を上げた。
「酔っ払いは嫌いよ」
「酒の酔いならもう冷めた。次は君に酔いしれる番さ」
「まあ、キザったらしい」
ミダが焦点の定まらぬ目を横にやると、椅子の上で男女が重なっているのが何と無し見えた。
椅子に座すのはエス。それに跨るのが、酒場の女。
「女の器量が容姿なら、気障な言葉は男の器量。けれど、言葉はもう要らない」
抱き寄せて、女と唇を触れ合わせるエス。女もエスの首に腕を回して応える。
唇が離れた時、女は目を細めて言った。
「あたし、貴方みたいな男は好きじゃないの。解るでしょう?」
エスは片笑み、女を見上げる。
「ああ、俺も君みたいな女は好きじゃない。解るさ」
「一夜限りでしょう? あたし達」
「そう。だからこの夜は最初で最後、最高で最良の夜にしなくては……」
互いに顔を綻ばせ、見詰め合った。
「灯りを消してくれないか? 見られたくないものが多いんだ」
「あら、余程自信が無いのかしら?」
「君が震え上がるのを見たくないだけさ。触れば解ってしまうだろうけどね」
ミダはぐらつく頭を振りながら起き上がり、唸った。
「……何してんだ?」
舌が回らない。その舌足らずな声を聞いて、絡み合う男女は飛び上がった。
「あ、あら、あら! 気が付いたのね?!」
「あ、ああ! 大丈夫そうで一安心だ。けど、もう少し横になっていた方が良いんじゃないか! そうだ、寝ていろ!!」
二人とも慌てて居住まいを正すが、慌てているが故に、女はエスの膝から降りる事を忘れている。
「ん……解った。寝る……」
半醒半睡のミダは、ぱたり、と仰向けに倒れてベッドに沈み込んだ。
ほっと胸を撫で下ろす大人達に見守られて、子供は深い眠りに落ちていった。




