表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/77

Ep.9-2 夜は金色

 ルッツの身体が壁に叩き付けられ、ずり落ちる。地に尻が付くか付かないかという所で胸ぐらを掴まれ、無理矢理に立たされる。

 悪漢二人に路地裏へ連れ込まれたルッツは、彼らの憂さ晴らしの道具と成り果てていた。容赦なく頬を殴られ、抵抗もしない。

 ただただ一方的な暴力。抗おうと思えば手段はあった。だが彼の唯一の武器である銃は、包みも解かれないまま、遠くの地べたに放られている。

 このまま死んでしまえたら良い。殴り付けられている間ルッツはそう思っていた。自殺願望者特有の、発作の様なものだ。生と死との矛盾に直面すると、痛みという明白な生の実感でさえ、死の疑似体験となる。そのきっかけはいつも些細な所にあって、頻繁に訪れる破滅への欲求は、確実に自我を崩壊させていった。

 クラウスは、ルッツのその様を見詰めていた。ルッツの虚ろな瞳を注視し、何もせず、ただ座している。そうしているのが彼の務めであるかの様だ。

「何だコイツ? 完全にイッちまってらァ」

 暴漢が殴る手を休めて言った。

「人形殴ってるみてェで張り合いが無ェや」

 ルッツの顔には普段の作り笑いも、苦痛の色さえも無い。まさに抜け殻だった。

「クソッ! 手首を痛めちまった……」

「オイ、もう行こうぜ」

 漸く殴る事に飽きた男達は、力無くへたり込むルッツに唾を吐きかけて、立ち去った。矢張りクラウスは見ているだけだ。

 やっと解放されたルッツの胸中は、安堵ではなく落胆だった。

「……また、死ねなかった……」

 口の中で呟く。自ら命を絶つ事が出来なかったルッツは、誰かに殺されたいという、希望を抱いている。正気ではなかった。

 クラウスはゆっくりとルッツに歩み寄り、正面に腰を下ろした。金色の双眸が哀れむでもなくルッツを見下ろす。見返したルッツは、

「……そんな目で見ないで下さいよ、クラウスさん」

 犬の目が軽蔑や失望を訴えて見えた。かつての仇がした、その目と同じだった。ルッツはこの目に呪われ、緊縛され、鞭撻されながら、生きてきたのである。

「僕だって頑張ってるんですから」

 苦笑を浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。壁を頼りに震える膝を伸ばし、鼻血を吹き飛ばして深く息を吸った。よろけながら銃を担ぎ上げ、路地を抜ける。クラウスはもう後を付けなかった。

 ルッツは、死んでいないというたったそれだけの、復讐という理由を無理矢理に付与しただけの生を踏み締めながら、宿を探して彷徨い始めた。

『救い様の無い馬鹿だ』


 夜空には女神の母乳が流れている。地平線まで流れ落ちる河川を形作る、極々微小な光の粒は死者の魂などで無い事を、カティアは知っている。

 血の通った土くれは、死ねば土に還る。天に昇る訳も無く、ましてや、生者を見守る事など無い。

 カティアはこの夜を、宿屋の一軒を貸し切って、帝国兵らと共に過ごしていた。早々に二階の一室に上がり、長らく窓辺に居座って空を見上げていた。

 亡者と語らっていたのではない。彼女はただ、星空が好きだった。

 戸を叩く音がした。

「誰だ」

「し、失礼しますッ! あ、あの……お呼びと聞いて……」

 ドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせたのは、昼間エスの手当をした兵士だった。入室を命ぜられた若い兵は、緊張した面持ちで背筋を伸ばす。

「ご用でしょうか?」

 自然と声が上擦る。仕方の無い事だ。カティアは配下の兵士らから、畏敬と共に畏怖されている。剣を取れば右に出る者は無く、その自信と妥協の無い性格から来る発言は、歴戦の兵でさえ身震いする程だ。そんな上官に呼び出されたのだから、死に近しい覚悟をせねば為るまいと、若者は内心穏やかでなかった。

 しかし、カティアは存外に柔らかい口調で言った。

「何も恐がる事は無い」

 窓の縁に肘を掛け、柔和に頬を弛ませる。普段は見られない意外な顔付きに、兵士は逆に緊張の度合いを強めた。

「私は皆に何と呼ばれている? 鬼か、悪魔か……」

「い、いいえ! その様な事は……」

 構わんよ、とカティアはあくまで優しい。

「貴様だから訊けるのさ、新兵。連中を端から見られるだろう。あの百戦錬磨の鋭兵共とは馴染めていまい」

 指摘された通り、新兵は仲間から除け者扱いをされていた。年若く、戦場を知らず、気の小さな彼は、しばしば他の兵士達から苛めを受ける事もある。訓練を終えたばかりの彼がこの実動部隊に配属になった、その嫉妬もあるかも知れない。

「そ、その……『鬼軍曹』と……」

 兵士は目を泳がせながら、怖ず怖ずと答えた。不当な圧力の延長を感じていた事は否めない。だが存外に、カティアは快活な声を上げた。

「そうか。それは結構だ。ハハハッ!」

 唐突な笑い声に、兵士はビクリと震えた。

「実に結構だ。そうとも呼ばれず、分隊指揮官など務まるものか」

 再び笑う。狼狽した兵士は尋ねた。

「自分にご用とは、何でしょうか?」

「ああ、そうだ。その事だったな」

 閑話休題と笑うのをやめ、兵士の目を真っ直ぐに見遣った。

「名前は何といったか?」

「はッ! ルートガー・ハイドリヒ二等兵です!!」

 敬礼し、恐縮する。

「ルートガーか。呼び付けたのは、貴様に礼を言いたくてな」

「は……?」

 カティアは親しみを込めて姓で呼ぶのを避けたが、ハイドリヒにはその憶えが無い。

「お礼、と仰いますと?」

「昼間の件だ」

「あれは、ご命令でしたから……」

 ハイドリヒはカティアの半ば強制的な命に従っただけである。礼を言われる様な事ではない。彼自身そう思っている。

「捕獲対象を捕縛せず、あまつさえ治療させた……私の重大な越権行為だ。付き合ってくれた事に礼を言いたい。それとも、貴様は上官の命令なら何でも従うと言うつもりか、ルートガー」

 意地の悪い質問だ。是と答えれば、意志のない男と思われる。否と答えれば、上官に従わぬ悪い兵である。

「自分は……」

 答えに窮したハイドリヒは、思う所を口にした。

「……カティア様でしたから……」

「ほう」

 含み笑いをして、聞き返す。

「私だからか」

 ハイドリヒは頷く事も出来ない。己の失言に直ぐ様気付いたからだ。

 入隊した頃から、カティアに憧れていた。帝国の軍にあって歴戦の英雄ながら、甲冑を纏い剣を振るってもその女性的な魅力は隠し様も無く、容姿端麗。尚かつ頭脳にも富む、才色兼備の美女だ。ハイドリヒは、彼女の配下に決定した時、心がときめいた。

 カティアの部下に対する語り口は、男勝りの度を超えている。口汚く罵る事も頻繁である。女を捨てているだとか、男に負けじと必死なのだとかと、揶揄する者は少なくない。だがそうした輩も、矢程に射貫くその視線を受け、心の臓を突き刺す刃の如き一声を浴びれば、途端に竦み上がってしまう。ハイドリヒの様な小心者は、本来ならば縮み込む相手だが、彼女の罵声に晒される度、一種のマゾヒズム的な感覚でもって、寧ろ急速に惹かれていった。

 カティアとハイドリヒでは、立場の差は雲泥のものだ。無論、ハイドリヒ自身そんな事は承知している。

「私に忠を尽くすと言うか?」

 ハイドリヒの感情は、忠義と呼ぶべきものと近しくて、しかし異なる。それでも、一生を賭してでもカティアに付き従いたいと思う気持ちは、覆しがたいものだ。

「……カティア様のご命令なら、例え対価が死であったとしても」

「そうか。光栄だ。だが……」

 カティアの目がハイドリヒを睨む。

「死ぬな。何があろうと、決して……決してな」

 兵達の間に流れた噂では、先のキルグメニスタンでの一件で、一人の兵が死亡した折、カティアは人知れずさめざめと泣いていたらしい。数々の戦場で戦って来た彼女だが、たった一人の人間の死を悼む心は失っていない。

「申し訳御座いません」

 ただの噂と思っていたハイドリヒだが、この時漸く真実だったと確信し、胸を打たれた。

「宜しい。では下がれ。そして酒でも飲め」

「今は任務中ですから……」

「構う事は無い。どうせ他の兵は、今頃下ではどんちゃん騒ぎをやってるのだろうからな」

 カティアには全てお見通しである。


 夢を見ていた。いや、見ていた様な気がする。

 何も無かった。何も無いという夢だった。無音無風の世界で全てが黄金に凍り付き、自分の身体さえ黄金の物言わぬ彫像と化して、呼吸さえ永遠の内に消える。漠然とした恐怖は、もはや夢でも無かった。

 蝋燭の淡い光の中に、天井がぐるぐると回る。ミダは額に手をやって、正気を取り戻そうと瞬きを繰り返した。

「……ダメよ、起きちゃう……」

 女の声がする。

「ぐっすり寝てるさ。お構い無く……」

 男の声がする。

 唇の吸い立てる音がして、女が、もう、と言うのとは裏腹の声を上げた。

「酔っ払いは嫌いよ」

「酒の酔いならもう冷めた。次は君に酔いしれる番さ」

「まあ、キザったらしい」

 ミダが焦点の定まらぬ目を横にやると、椅子の上で男女が重なっているのが何と無し見えた。

 椅子に座すのはエス。それに跨るのが、酒場の女。

「女の器量が容姿なら、気障な言葉は男の器量。けれど、言葉はもう要らない」

 抱き寄せて、女と唇を触れ合わせるエス。女もエスの首に腕を回して応える。

 唇が離れた時、女は目を細めて言った。

「あたし、貴方みたいな男は好きじゃないの。解るでしょう?」

 エスは片笑み、女を見上げる。

「ああ、俺も君みたいな女は好きじゃない。解るさ」

「一夜限りでしょう? あたし達」

「そう。だからこの夜は最初で最後、最高で最良の夜にしなくては……」

 互いに顔を綻ばせ、見詰め合った。

「灯りを消してくれないか? 見られたくないものが多いんだ」

「あら、余程自信が無いのかしら?」

「君が震え上がるのを見たくないだけさ。触れば解ってしまうだろうけどね」

 ミダはぐらつく頭を振りながら起き上がり、唸った。

「……何してんだ?」

 舌が回らない。その舌足らずな声を聞いて、絡み合う男女は飛び上がった。

「あ、あら、あら! 気が付いたのね?!」

「あ、ああ! 大丈夫そうで一安心だ。けど、もう少し横になっていた方が良いんじゃないか! そうだ、寝ていろ!!」

 二人とも慌てて居住まいを正すが、慌てているが故に、女はエスの膝から降りる事を忘れている。

「ん……解った。寝る……」

 半醒半睡のミダは、ぱたり、と仰向けに倒れてベッドに沈み込んだ。

 ほっと胸を撫で下ろす大人達に見守られて、子供は深い眠りに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ