Ep.9-1 夜は金色
漁港都市バルキン。そこは日が落ちても静けさを知らない街。街を横切る大通りには夜になってもなお点々と露店が出て、その日の漁獲物を売り切ろうと声を張り上げている。立ち並ぶ酒場の窓から、煌々とした明かりと共に漁師達の馬鹿騒ぎが溢れていた。
その内の一店、賑わう酒場の奧のテーブルで、エスは酒を煽った。口の端から流れ落ちる白濁した酒を拭い、ほのかに熱を帯びた吐息を漏らした。
「……骨身に染みるなあ」
安酒に相応しい、安っぽい土器を眺めながら独りごちる。顔が赤い。
「呑気な事言ってる場合かよ。酒なんか飲んで……」
エスの斜向かいで、頬杖を突いて足をぶらぶらさせていたミダは、非難がましく言った。良いんだよ、とエスは意味も無くニタつく。
「酒は痛みを忘れさせてくれるんだ。傷の痛みも、心の痛みも……」
「心の痛み?」
「そう!」
叫ぶや否や、エスはテーブルに身を乗り出し、ミダの肩に腕を回して強引に引き寄せた。
「彼女を想うと胸が痛むんだよ!!」
「うわ! 酒クサッ!!」
ミダは胸を押し返すが、頭に顎を擦り付けるエスは離れない。
「彼女って、あのカティアとかいう奴か?」
「そう、彼女だ、カティア! とんでもないべっぴんさんじゃないか?!」
ミダに助けられたなどという事は、すっかり忘れている様だ。
「べっぴんさんって……そりゃそうかも知れないけどさ……って言うか、放せ!」
思い切りエスを突き飛ばすと、ミダはその反動で仰け反り、危うく椅子ごと後ろ様に倒れそうになる。慌ててテーブルの端を掴み体勢を整えると、安堵の溜息を吐いた。
「全く度し難い人だ」
ルッツが唐突にそう言って、自らも酒をちびりと口にした。
「敵に情を移すなんて、甘いですよ。つくづく甘い」
言い切ってから、ヒク、と小さくしゃっくりをする。顔には出ないが、彼もまた酔っているらしい。ちなみにまだ一杯目である。相当な下戸らしい。ルッツはミダを親指で指し示した。
「僕は彼の力を知ってしまったのに、平気で酒を飲んでいる。撃ち殺してくれと言わんばかりじゃあないですか。油断大敵ですよ」
フン、とエスは鼻で笑い、どっかりと椅子にもたれる。
「確かに油断は禁物だな。だがお前は俺の敵じゃない。酔っ払ってたって負ける気がしないね。第一、お前だってそんな手で銃なんか扱えないだろうに」
「へえ、試してみますか?」
「望む所よ」
「やめろ、酔っ払いどもッ」
酔っ払った大人の諍いは、子供の目にも幼稚に見えた。ミダに窘められて、エスは何が楽しいのかヘラヘラ笑い、ルッツは不機嫌そうに杯を口に運んだ。酔い方は十人十色である。
先の戦いで、ルッツにもミダの能力について知られた。と言うよりも、ミダが自ら知らしめてしまったと言う方が正しいが、しかしそれでも彼らがルッツの同行を許し、今もこうして酒場で一緒になっているのには理由がある。ルッツは欲の無い男だった。
ミダの力に驚異や好奇心こそ示したが、それだけなのだ。ミダもエスも、黄金で目の色を変える者を幾度となく見てきたが、ルッツにはその兆しが見られない。以前に黄金の籠手を目の当たりにした時もそうだった。自殺願望者に金銭は必要無い、という事だろうか。
この青年は、味方ではないが、少なくとも酔いに任せた発言ほどの敵性人物でもない。ミダはそう思っている。
ルッツは酒を飲み干してから、ゆっくりと立ち上がった。
「何処に行くんだ?」
「宿を探しに行くんですよ。あまり遅くなると閉まってしまいますからね」
裏海に面したバルキンには、沿岸諸国から貿易に訪れる船も多い。それらの乗組員らを客とする目的で、この街の宿泊施設は豊富である。
「貴方方も早くその腰を上げないと、空室などすぐに埋まってしまいますよ」
「お気遣いどうも。けど俺はもう少し飲みたいんだ。おーい、おかわり!」
エスが空の杯を掲げると、ウェイトレスが艶っぽい声で答えた。胸の谷間を見せ付ける服装で、濃いめの化粧をしている。荒くれ者に尻を撫でられても、ケラケラと笑っていた。ミダも店を出てしまいたかった。ルッツはやれやれと頭を振り、小銭をテーブルに放ってから立ち去って行く。
彼が出て行って間もなく、エスの元に酒のおかわりが運ばれて来た。実はこの酒、密造されたものである。宗教的に飲酒はタブーとされているという理由もあるが、何より安くて強い。体力勝負の海の男達に重宝されるのだ。ブドウから作られた蒸留酒で無色透明だが、ウェイトレスが水を注ぐと白く濁る。それを不思議そうに眺めていたミダにウェイトレスが、
「これは『獅子の乳』って言うのよ、ボウヤ」
と愛想良く解説を加えた。
「そう。正しく俺にぴったり。ガオ!」
エスがおどけた調子で言うと、ウェイトレスは甲高い笑い声を上げた。酒場でどんちゃん騒ぎしている、むさ苦しい男達に比べればエスは優男だ。それでいて楽しく酒を飲み、冗談を言ってみたりする。こういった種類の客は珍しく、悪い気はしないだろう。その好青年の視線が、始終自分の胸元に注がれていると気付かないまま、ウェイトレスは別の客に呼ばれてテーブルを離れた。
この時ばかりはルッツに同調し、全く度し難い、とミダも思った。今この時に帝国の手先が現れたとしたら、まともに戦う事など出来るだろうか。いや、出来ない。そして勇気を振り絞って行った一世一代の脅嚇も、カティア相手に二度通用するか怪しい。ミダは、エスは自らが追われる身である事を忘れているのではと、そう考えられて仕方がなかった。
それも奇妙な事ではある。二人は帝国に向かい、帝国に追われている。ミダもつい先日までは逃亡者だったが、今ではそんな言葉が当てはまらず、しかし執拗な追撃を受けている。矛盾しているのは帝国か、それともエスとの旅なのか。何にせよ、深く考えれば混乱を来す状況である。
「なあ、おい。それ何杯目だ?」
数えていなかったが、エスは結構な量を飲んでいるはずだ。
「どうだったかな。七杯目?」
へらへらと笑いながら酒杯を揺らす。既に飲んだ六杯という数字がどれ程のものなのか、ミダはその基準を知らないが、エスの顔色を見て大変な量だと解った。顔中、いや耳や首筋に至るまで真っ赤だ。
「もうその辺にしておけよ。やばそうだぜ?」
「平気さ。俺はいくら飲んでも潰れる事が無いんだ。強いんだよ。とっても、とってもな」
フフフ、と含み笑いを浮かべてから、杯に口を付ける。
「そう言ったって、あんた一応怪我人なんだしさ……」
「ほう。怪我人は酒を飲まない方が良いと。ミダちゃんにもそんな知識がありますか。じゃあ逆に訊くがな、どうして怪我人は飲んじゃいけない?」
酔っ払いはくだを巻く。ミダは答えに窮した。
「……別に、知らないけどさ」
「じゃあ良い! 良いんだよ!! 酒は百薬の長とも言うだろう? そういう事なんだ」
まともな事を言っているつもりだろうが、ミダには酔漢の屁理屈にしか聞こえない。
酔いどれの耳には、心遣いや忠告、窘める声など届かないものだ。ミダはエスの身を案じているのであって、それを聞き入れられず無下にされるのは、非常に腹立たしい事だった。
エスは相変わらず――寧ろ始めに比べて飲むペースを上げている。ミダは思い切って、その手から酒を引ったくった。
「おい、コラ。返せよ、イタズラ小僧め」
「飲み過ぎなんだよ、馬鹿! こんなモン、代わりに俺が飲んでやらッ!!」
止める間も無く、ミダは一口に飲み下してしまった。大の男も一杯飲めば上機嫌になってしまう様な酒だ。ミダが一気飲みしたのは半分程度だったが、喉を焼く様な未知の感覚に激しく噎せ込んだ。
「馬鹿野郎!!」
エスは無茶な行動を叱りながらも、ミダの背中をさする。
「……ど、どうだ、飲んじまったぞ。へ、へへ、へ……」
喉を押さえ、咳の隙間から笑い声を漏らした。
「……どうして、こんな不味い……」
ミダの言葉は尻すぼみに消え入り、ゆっくりと昏倒した。椅子から転げ落ち、床の上でぐったりと身動き一つ取らなくなった。
エスは慌てて屈み込みミダの頬を叩くが、反応が無い。これはまずいと大声を上げた。
「おい、誰か、誰か来てくれ!」
真っ先に駆け付けたのは、先程のウェイトレスだった。
「何考えてるの?! 子供にお酒飲ませるなんて……!!」
「俺が飲ませたんじゃない。こいつが勝手に……」
「同じ事じゃない! 保護者失格よ」
「待てよ。俺はこいつの保護者じゃないぜ?」
「何でも良いわよ!!」
叱責されて、エスは肩を竦めた。
「ああ、解った。それで、どうしたら?」
「兎に角二階に運びましょう。あたしの部屋があるから。休ませてあげないと……」
「おいおい、待てよ」
口の片端を吊り上げて、諸手を振った。
「それは、つまり……俺を誘っているのか?」
「ええ? どうしてそうなるのよ」
「そりゃ、だって、俺はこいつの保護者だし?」
惚けてみせるが、その目は明らかに何かを期待している。女は最大限の溜息を吐く。
「男ってみんなそう。……まあ良いわよ。貴方も来たら?」
よし、とエスは膝を叩いた。
喧騒の絶えない町中を、ルッツは宿を探し歩いていた。空気は生臭く生温いが、酒気に溺れそうになる頭を鮮明にさせる。歩を進める度に、目的と理由とが乖離していった。ルッツの後ろには、店の外で大人しくエスを待っていたはずの、クラウスの姿があった。
「どうして付いて来るんだい?」
ルッツは立ち止まり、振り返ってクラウスに尋ねた。無論、犬が答える訳も無い。
「残念だけど、僕は何も持ってないよ。それとも、見送りのつもりかな?」
はは、と笑う。暫く歩いていたが、未だに酔いは覚めていない。クラウスはじっと上目遣いにルッツを見ていた。
「ご主人様にくっついていなくて、良いのかい?」
ルッツは、エスやミダと合わせて、クラウスの事も観察していた。
クラウスは正に忠犬である。ぴたりと寄り添いこそしないが、常に一定の距離を保ってエスに従い、詰まらない事で吠えず、落ち着いている。人間に近しい感覚を持っているかの如く、場の空気に逆らう様な行動を取らない。ひとの機微を敏感に感じ取っているらしい。
「ああ、解った。僕を監視しているつもりなんだな?」
だから、酔いも手伝って、今のルッツは、まるで無口な男を相手にしている様な錯覚にとらわれていた。
「彼らに手を出す気は無いよ。関わり合いは持つけど……」
ふと、ルッツは真顔になった。何かを思い出して、あ、と口を開けた。
「……僕は、どうして関わっているんだろう?」
自問する。クラウスに向けられていた視線が、虚空を漂った。
「おかしいな。僕は独りのはずなのに。誰にも憧れないと決めたのに……」
ルッツの身体がぐらりと揺れる。目眩を引き起こしているのは酒か、それとも別の何かか。ルッツの様子を見ても、クラウスは一切の動揺を見せなかった。
「……嗚呼、僕もヒーローになりたい……」
頭を抱えて呟きながら、よろよろと後退る。
ルッツの心はパラドクスによって蝕まれていた。孤独を望み、孤独を拒絶する。英雄に対する憎悪と、英雄に対する憧憬。生から遠ざかり、死から逃れる。
酒が人に働きかけるものは、常に両極端である。時に楽観を与え、時に悲観を突き付ける。自分がまるで強大な存在であると思わせる事もあれば、どうしようもなくちっぽけで矮小に思わせる事もある。
ポジティブかネガティブか。エスの酔い方が前者なら、ルッツの場合は、明らかに後者だった。
よろめいたルッツの背中が、通行人にぶつかる。ぶつかった相手は二人連れの巨漢だった。
「おい、酔っ払い」
見るからに柄の悪い男が、ドスの利いた声でルッツに脅し掛かる。
「ツラ貸しなァ」




