Ep.8-1 戦う黄金
馬車は山脈沿いに、北へ進んで行く。荷台には旅の一行およびルッツ。御者席には、仲良く肩を擦り合わせてオスマンとスィベルが座っている。次の街まで送ってくれると申し出たのである。ルッツに対する好意に便乗するのは二人とも不本意だったが、贅沢は言えない。
ミダは頻りに、首やら肩やらを回していた。
「身体痛ぇ……」
昨夜はエスと共に食堂で雑魚寝だった。と言うのも、唯一客人の使えるベッドが据えられた件の子供部屋は、表の功労者であるルッツに奢られたからである。裏でのミダの尽力あっての成功だったが、裏方故にミダやエスへのオスマンが下した評価は低かった。
ミダは不公平を感じる。が、それでも悪い気はしていない。元々公に出来ない力を使ったのだし、小さな胸に仕舞い込んだ優越感は何にも代え難いものだ。
「……良いなぁ、愛ってのは」
乳繰り合う恋人同士の背中を見ていると、ミダはくすぐったい気分にさせられる。意味も無く笑い出してしまいそうだ。
しかし、プ、と吹き出したのは、ミダの呟きを聞いたエスだった。
「な、なんだよ」
「別に。似合わない台詞だと思っただけさ」
答えてニヤニヤ笑う。ミダは上気するのを感じた。
「何だよ! ガキ扱いか?!」
「いやいや。『恋愛』の『レ』の字も知らないガキが良く言うな、と」
「やっぱりガキ扱いじゃないかッ」
ミダは言い返す。
「あんたなんかただの変態だろ!!」
「あらぬ誤解を招く発言はよしてくれ。俺はただの小児性愛者だ」
右手をずいと突き出し、きっぱりと言い切った。
「それは十分変態だと思いますけどね」
横から口を挟んだルッツが、ははは、と笑う。
「まあまあ、醜い争いは程々にしましょうよ。幸せなお二人の近くなんですから」
オスマンとスィベルは、まるでこちらの会話を意識していないのか、相も変わらずイチャついている。
怒りの遣り場を奪われたミダは、仰向けに倒れ込んで空を仰ぐ。屋根の無い荷馬車から見える空は快晴。木々の葉っぱの隙間から覗く、青く無限の領域には、綿を小さくちぎった様な雲がいくつかぽっかりと浮かんでいる。あれほど疎ましかった日光も、今は心地よく降り注いでいる。大きな欠伸を一つして、ミダは目を閉じた。
「ところで……」
その様を眺めていたエスがおもむろに口を開く。
「ルッツ。お前の目的は何だ?」
質問に反応して、ミダは頭を持ち上げ、ルッツを見た。
「目的? 何の事でしょう?」
ルッツは笑い顔のまま惚ける。
「帝国の人間かとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。お前は何者だ」
「ご覧の通り、一人旅のしがない若造ですよ。帝国なんておぞましい連中と一緒にされては困りますね」
そう答えて苦笑する。
「理由も無く俺達に付き纏うとは思えない。何を企んでいる」
「計画だなんて、そんな高尚なものはありませんよ。ただ……」
身を乗り出して、声を低くする。
「……僕は自殺志願者なんです」
「何……?」
ルッツは片腕の袖を捲り、その細く青白い腕を露わにした。
腕の内側に幾筋もの傷跡が刻まれていた。みみず腫れの様な細い傷跡が、無数に並んでいる。
「自分で切った傷です。両腕にありますよ」
確かめると、さっと袖を戻した。
「この通り、僕は死にたくて死にたくて堪らなかった。だから無茶な旅も平気で出来たんです」
「回答になっていないぞ」
エスはルッツを睨め付ける。ミダは再び身体を起こして、二人の顔を見比べた。
「僕は臆病なんです。死にたいと思う癖、本当に死ぬ事なんて出来やしなかった。こうやって自傷しながら、自分を慰める事しか出来なかった」
笑顔が貼り付いた表情のままで語る。
「でも、そうしていても無駄なんです。痛みでは救われないんです。そこで思い付きました」
目を細める。ルッツの思考は読み難い。
「復讐をしよう、とね。僕を死にたいと思わせた相手を見つけ出して、この銃で、殺してやろうと思ったんです」
柔和な顔付きで恐ろしい事を言うこの青年に、ミダは寒気がした。
「その相手とは、誰だ?」
「一人は『ヒーロー』、そしてもう一人は……『神』」
「神だと?」
エスは眉間に皺を寄せた。
「神を殺すと言うのか」
「ええ。ヒーローは僕から愛する人を奪い、神はそれを許した。両方憎らしい」
はは、と笑い声を上げる。感情と表情とが一致していない。壊れている、ミダは直感的にそう思った。
「僕は二人を捜す旅に出ました。見付けたら必ず殺す。死んだらそれまで……そんな旅です」
「だから俺にくっ付いて来るのか」
エスは納得がいった面持ちで頷く。
「俺とダラムの話を盗み聞きしていたな? 俺が神に会いに行くと知り、帝国へ行くと知って、それで付いて来たのか」
お察しの通り、とルッツは口の片端を吊る。
「皇帝が神を名乗っているのは知っていました。しかし、得てして独裁者は自らを神と言う。僕が打ち倒したいのはそんな神じゃない。ですが、貴方の力を見て、話を聞いて、本物だと解った。僕も行かなくちゃならない」
ただ、と人差し指を立てた。
「『付いて来る』というのは語弊がありますよ。僕は僕の目的を持って帝国へ向かう事にした。道程が同じだから僕と貴方方は一緒になる。それだけの事です。いずれ別れるでしょう」
ルッツの言葉にエスは、ふう、と息を吐いた。
「なら安心だ。連れが増えると動きにくいからな」
膝を立て、荷台の内壁にもたれ掛かる。
「おや。話はもう良いんですか?」
「ああ。別にお前に興味がある訳じゃない。一緒に居る理由が知りたかっただけだ」
「僕を止めないんですか? 僕は貴方の神を殺すんですよ?」
「俺の神は死んだ。あの男はもう神じゃない。それに、あの男がそんなちゃちな道具でやられるとは思わないしな」
投げやりに言い放って沈み込む。ルッツも、そうですか、と言って座り直す。
目的地は同じ。目論見は別。つまりルッツの同行は一時的なものだ。ミダは安心した。
しかし、蒸し返すのはエスに悪いと思いながらも、ミダにはどうしても気になる事があった。
「どうして死のうと思うんだ?」
「ん?」
ルッツはミダに目を向ける。
「話を聞いていたなら、解ると思うけど?」
「解んねぇよ。愛したひとを取られたからって、その理由は聞いた。だけど、それで死にたくなるのか? 神様まで嫌いになっちまう程、憎らしい事なのか?」
未だに、愛というものの知識が不足している。経験がないからだとエスは言うが、自分を傷付け死にたいと願い、憎悪にまみれる為の経験ならしたくないと、ミダは思っていた。
ルッツは頷いた。
「死にたくなるよ。自分の命より大切なもの、大切にしたかったものが奪われたら」
昨日エスから聞いた話を思い返す。愛とは自分の存在意義を他人に見出す事なのだろうか。ミダは腕を組む。
ミダはこれまで、自分など生まれてこなければ良かったと、幾度となく考えた。しかしそれは、死に対する願望とはまた違ったものだ。寧ろミダは生に固執している節がある。自分を助け出した者への恩義も理由の一つだが、何よりそれ以前の、生まれながらの監禁生活中に培われた生存本能が強く作用していた。ドブネズミの如きこそ泥として生き長らえた為に、生死を分かつ場面にも多く出くわしたが、その度に必死になって窮地を脱している。自らの存在や力を呪う事はあっても、死んでしまおうとする事はただの一度も無かった。自殺という概念そのものが、ミダには無いのである。
それ故に、ルッツの感情は理解に苦しみ、そして彼の腕に刻まれた傷は衝撃的だった。
「……嫌だな、『愛』ってのは」
先程口にしたばかりの感想を打ち消した。愛が自己嫌悪や憎悪を生むなら、それは等しいものだとミダの中で結論づけられていた。
しかし、当のルッツは頭を振る。
「僕は、そうは思わない」
はっきりとした口調でミダを諭した。
「誰かを愛していると、ふと何もかもが素晴らしく思える時がある。愛したひとだけじゃない。景色や世界中のあらゆる物事、自分の人生、他人の人生……全てが輝いていると感じる瞬間がある。現在がどんなに困難でも、未来が見えずまだ空想の中にしか無くても、誰かを愛おしいと思うその気持ちは希望になるんだ」
「希望……」
ミダの認識では、憎しみや悲しみとは相反する言葉だ。愛が相対するものを作り出すのなら、愛は混沌としたものだ。混乱する。
複雑に絡む思考の糸を解きほぐす為に、ミダは逆説的に考えた。
もし、愛が希望になるなら、希望を抱いた時、同時に愛も存在するのだろう。そうだとして、ミダが抱く希望とは何だろう。希望は誰に貰ったのだろう。愛は誰に向けられるのだろう。それは――。
「けど、僕の愛は二度までも奪われてしまった」
ミダが結論を導き出すのを妨げる様に、ルッツが言う。
「二回も?」
「そう……僕の愛した『彼女』は心を奪われ、ついには、永遠に奪い去られてしまった……」
「永遠に?」
ミダには意味が解らなかった。
ルッツは僅かに眉を顰め、何故かクラウスの方に目を遣る。
「……殺されたんだ。『ヒーロー』に」
「どうして……?」
「僕にも解らないよ。ただあいつは、彼女の命まで、僕から取り上げて行ったんだ」
これでミダにも解った。ルッツは愛した相手を、愛を失ったから、憎しみを募らせたのだ。
ミダは何となく、ほっとした気持ちだった。
「やっと解った。けどさ、その『ヒーロー』ってのは何なんだよ?」
「彼女を殺したあいつは、強くて逞しくて、脚光を浴びて、英雄だった。だから『ヒーロー』なんだよ」
だからヒーローを嫌っている。
「じゃあ誰なんだ? その『ヒーロー』って奴は」
「『ヒーロー』の名前、僕が殺してやりたい男の名前は……」
俄然、明らかな憎しみの色がその目に出た。ミダにも読み取れる程の強い憎悪だ。
「……クラウス。クラウス・フォン・キルヒアイス」
ミダは驚いて振り返り、黒い犬を見る。クラウスは耳だけを二人の方に向け、丸くなっていた。
おっと、とルッツは己で頭を叩いた。
「こういう暗い話はいけないね。特に今は」
御者席で、恋人同士が唇を触れ合わせていた。人目などお構い無し、まるきり二人だけの世界である。ミダは何となく見てはいけないものを見た気がして、目を逸らした。
不意に馬がいななき、馬車が急停止した。がくりと揺らされ、ミダの小さな身体が前に転げ出る。
「どうした!」
エスが大声を上げ、オスマンの肩に手を突いて身を乗り出す。
見れば、馬車の前を一人の女が立ち塞がっている。女が木陰から急に飛び出して来たものだから、馬は驚き足を止めたのだ。
「またあんたか、カティア」
エスは鼻を鳴らした。




