海上からの救難信号3
義経たちが悲鳴を聞く少し前――。
三階のフロアの調査を任せられた二人の隊員は充満する血の臭いに思わず手で鼻を覆い隠す。まだ新しい血の為か空気に生々しい温もりを漂わせている。
「これだけの血の臭い一体どれだけの犠牲者が……」
船内を充満させる濃厚な血の臭いが犠牲者の数を間接的に物語る。
「見た限りここは客室のフロアみたいだから、それが影響しているのかもしれない」
廊下を挟んで左右に向かい合う形で扉がある。それは等間隔で廊下の先まで続いている。客室フロアとなれば廊下の突き当りから左右に繋がる廊下の先にも複数の部屋が設置されているのだろう。
「とにかく手分けして客室の中も調べていこう」
「わかった」
調査する場所を左右に分けて一つずつ客室を調べていく。荒らされた様子もない無人の客室もあれば、無惨に引き裂かれた死体が置かれた客室など、扉を開けた先には様々な様相を呈した惨状が広がっていた。鬼の手によって殺された数多な一般人と戦友を見てきた鬼祓いたちでも思わず目を背けたくなる程に酷いものである。
右手の客室を担当していた隊員が室内の確認を済ませて廊下に出ようとした瞬間、叫び声が廊下から響き渡った。それが相方の声だと直ぐに分かって急ぎ廊下に出ると、腹を貫かれて宙ぶらりんになっている相方の姿があった。じゅぶり、と泥の中から手を抜いたような生々しい音を鳴ると、宙ぶらりんになっていた相方が力なく床に落ちた。相方の体で隠れていた襲撃者の姿が隊員の瞳に映る。
「くそ! やはり鬼の襲撃か!」
隊員の瞳に映ったのは二メートルは余裕で超えた異形の怪物だ。筋骨隆々とした体躯は人間のそれと変わらないが、ひとたび胴体から上を見れば馬にも似た頭が現れる。一般的にイメージする鬼とはかけ離れた姿形かもしれないが、決まった形を持たないのが鬼の特徴だ。そして姿形は鬼の強さに直結する。どういうわけか、より人間に近い姿を持った鬼ほど強力な力を有しているのだ。
眼前に立つ鬼は体の一部を人間に模られている。つまり異形の鬼よりも数段、力のある強敵だ。
隊員はすぐさま腰帯に差す剣を抜刀して中段に構えた。すり足のように靴底を滑らせながら間合いを縮めていく。馬頭の鬼は鼻息を荒くはするも襲い掛かる節はない。鼻息そのものが威嚇と牽制の役割を担っているのかもしれないが、仲間が無残に殺されたことで冷静な判断力を失っている隊員にそこまで頭が回らなかった。
じりじりと縮めていた隊員の足が止まった。
(間合いに入った!)
柄を握る手に自然と力が入る。地面を強く蹴ろうと足腰からつま先に至るまで神経が研ぎ澄まされていく。両足の五指で地面を掴むイメージを描きながら、その通りに動いた。
地面を強く蹴って突進した。突進力を活かして中段の構えから剣を縦に振り下ろす。馬頭の鬼がどれだけ早く防御の構えをとったとしても直撃は免れない。仮に刃を通さない硬度な肉体を宿していたとしても無傷では済まないはず。
振り下ろした剣が馬頭の鬼の眼前に迫ったところで隊員は直撃を確信した。
しかし、現実は嘘を吐いた。傷ついたのは馬頭の鬼ではなく自身の腕だった。血飛沫をあげながら両腕が宙を舞う。何が起きたというのか、理解が追いつかない隊員を強制的に引き戻したのは皮肉にも両腕を切断されたことによる痛みだった。
「うわぁぁぁぁぁ‼」
痛みに悲鳴を我慢できなかった。だが心の奥底から出た悲鳴が義経たちを誘き寄せた。
◇
悲鳴に駆け付けた義経たちが到着した頃には両腕を切断された隊員が両膝を床に付けた状態だった。上顎を上げた形で口を開き、白目を剥いた状態で硬直していた。既に死んでいるのか気絶しているのか、傍目では判断できないが、放置していてはいずれ命を落とすことは誰の目から見ても明白だった。
「あの鬼は俺が引き受ける。その間にあいつらを避難させてくれ」
「わかりました!」
抜刀した義経は駆け引きなど一切無視して突撃した。彼が踏み込んだ床は陥没すると、反動で破壊された床の破片が宙を舞う。義経の通った道を追うように風を切った音が遅れてやってきた。
義経の突撃を辛うじて視認できた馬頭の鬼は敵を前にして初めて自ら初動を見せた。両拳を絡ませて一つの拳を作って頭上から振り下ろすだけの簡単な動き。それだけに一撃に全力を込められる。
馬頭の鬼の両目が義経の姿を完全に捉えた。右手に一刀。刃を腰よりやや低く下げた構えから柄を少し持ち上げて刃を立てている。そこから予測できるのは逆袈裟斬りによる一閃。予備動作と間合いから義経の頭に拳が直撃するのが早い。それを悟った馬頭の鬼の唇が吊り上がった。
(鬼が感情を表現しただと⁉)
義経は驚きを見せた。破壊の限りを尽くしている時も鬼祓いに討伐される時も鬼が感情を表現した記録はこれまでに一度も確認されていない。
「これは定例会議でためになる報告ができそうだ。それと……これは感情を持つ先輩からの助言だ」
義経は独白気味に馬頭の鬼に言う。
「勝負というのは決着するまで余裕を見せないことだ。冥土の土産として持っていくといい」
義経の言葉の意味を理解できない馬頭の鬼の表情から余裕は消えない。だから結果を突き付けることで義経は言葉の証明とした。
逆袈裟の軌道で斬り上げられた義経の刀が加速した。タイミングも間合いも勝っていた馬頭の鬼の拳との距離は一瞬にして縮まり、加速した義経の刀はその威力で分厚い鬼の腕ごと胴体を切断した。ずるり、と肉と肉が擦れる耳障りな音と共に鬼の肉体がずれ落ちた。