高校生 冨田真白の場合
「将来、ねぇ……」
腹の底から息を吐く。それでも目の前の紙は、角を震わせただけだった。
「お待たせしました。レアチーズのアップルパイです。お熱いですので、お気をつけください」
テーブルの端に、お皿が置かれる。香ばしいチーズと、甘いりんごの香りがふんわりと漂ってきた。『期間限定』のポップに釣られて良かったかもしれない。
少し間延びした口調の女性は、伝票を丸めて筒の中に入れた後、ごゆっくりどうぞ、と笑みを深めた。それに会釈を返した私は、改めてA4の紙に目を落とす。『進路志望票』の文字が、私の頭痛を増幅させた。
志望動機なんか、無いっつの。将来の夢とか、とっくの昔に忘れたわ。
言葉に出さなかった恨み言は、重石となって胸に落っこちる。静かなジャズのBGMも、美味しそうなパイの香りも、胸に広がるモヤモヤを晴らしてはくれなかった。
高二の今の時期から差し迫る問題が、これだ。私立校に通っている友達は、それを高一でやってたというのだから、私の通う高校は寧ろ遅い方なのかもしれない。
中学の頃は、まだマシだった。高校は『制服が可愛い』というところから入って、偏差値どうだろう、家から通えるかな、なんて理由で選んで、受験して終わり。……いや、あの頃はあの頃で、受験勉強も面接対策も死ぬほどしんどかったはず。だけど綺麗さっぱり忘れてしまっているということは、風化した記憶より現在の状況が頗る悪く見えているからか。
とにかく、高校卒業後の進路は将来を左右する。というより、将来に直結するのだ。だから慎重に選ばなければならない――のだが。
私は、志望票を見下ろした。希望する進路の方向で『進学』の文字を丸で囲ったのは、まあ一般的だ。そして、第一志望に入れた大学名も無難な選択だと思う。
偏差値はそこそこ。同じ高校の友達曰く「入る時は頭良いけど入った瞬間グループが真っ二つに分かれる感じのハイブリッド大学」だそうだ。情報源は彼女の姉の友達らしい。因みにそのご友人の一人は真面目ちゃんに、もう一人は見事パリピに進化していたという。現代の人類も、環境に合わせ短期間で進化できるようだ。……考えが逸れた。
進路は無難。第一志望は、偏差値だけ見ればそこそこ。それでは何が問題なのか、と問われたら私は無言で指を指すだろう。大学名の隣の欄、また第一志望の下が消しゴムの後すら無く真っ白なままなのだ。つまり、志望動機が無い。更には第二志望も書いてない。日付、学年、クラス、学籍番号、名前までは迷いなく書けたものだが。帰り際のSHRを思い出して、またため息を吐く。
真っ白なんて、私の名前と一緒だね。そう考えて、頭を軽く振った。……疲れてる。一回文字を見るのを止めよう。
私は進路志望票をテーブルの端に押しやり、パイの皿を引きずった。そして、テーブルの端に置かれている箱からフォークを取り出す。フォークの持ち手には、控えめな装飾が施してあった。
ここの喫茶店、凄く落ち着くんだよね。私は軽く手を合わせて、フォークをパイにのめり込ませた。
雰囲気も落ち着いた感じ。なんだか異空間に迷い込んだようだ。アンティークな家具や小物はレトロな色で統一されているし、かかっているBGMだって普段聴くようなJーPOPとはかけ離れている。
お客さんは疎らで、カップを傾けるサラリーマンや、綺麗な手付きでパスタを食べる女性、はたまたパフェを尻目に携帯を弄る同じ年頃の男子も居るようだ。
ちょっとした優越感を覚えるのは、オトナな自分に酔っているのだろう。それで誰にも迷惑掛けていないのだから良いじゃない、なんて自分に言い訳をしながら、フォークを口に運んだ。
軽やかな音を立てて割れたパイ生地の中で、とろけた甘いチーズと酸味を飛ばしたりんごが絡まり合っている。優しい風味が鼻を抜けた。じゅわっと染み出すりんごの果汁が、口の中のチーズとパイ生地に染み込み、噛むたびに味を変えていく。……小難しいことを考えたけど、要は滅茶苦茶美味しい。とにかく美味しい。あー、幸せ。期間限定、万歳。
ここのスイーツ、見た目は勿論味も特上なんだよね。その上食べやすい。見た目と味、食べやすさのバランスが凄く良いと思う。……お値段は、学生には一瞬躊躇われる額だけど。でも、今のところハズレが無いのは確かだ。値段以上の価値があるし、中毒性もあった。これを食べちゃうと、スイーツのバイキング行けないね。誘われたら行くけど。
SNS映えするけど、撮ろうとは思わない。隠れ家的にこっそり来たいからだ。それに、写真をパシャパシャ撮るのは、同年代と一緒なので、背伸びしているとは言い難い。何より、SNSに載せたことで、万が一このお店が大盛況の大賑わいをしてしまったら、せっかくの静かな空気が台無しになってしまいかねない。それは嫌だった。お店としては、お客さんが入ってくれるのは嬉しいかもしれないけど。
そういえば、と思い出す。かなり前に聞こえた、他のお客さんとさっきのウェイトレスさんの話では、ウェイトレスさんの旦那さんが厨房を担当していて、出される料理は殆ど彼の手作りなんだとか。会計の時に旦那さんの後ろ姿が覗き見えたことがあるのだが、あれはイケメンだった。まごう事なき、イケメンだった。本当に一瞬の出来事だったのだが、それでも学校のイケメンとは桁違いのオーラに当てられた。
そんな芸能人並みのイケメンオーラを漂わせたパティシエ(シェフ?)の旦那さんに、ほんわか綺麗な癒し系ウェイトレスの奥さん。……妄想の中でも、お似合いだ。本当に、世の中偏ってるね。
……そろそろ現実に戻って、進路をちゃんと考えよう。逃避してた分だけ、帰って来るのはしんどかった。
結局、何も進展がないまま私は家に帰った。もともと進むとは思ってなかったけど。
リビングのテーブルに置いたのは、クッキーの入ったビニール袋だ。会計の時目に入って、衝動買いしちゃったんだよね。四種のフルーツチップ入りとか、そんなの買うしかないじゃない。お財布は心なしかぺったんこになった気がするけど……。いや、きっといつも通りだ。……バイト代出るまで色々と控えよう。
ため息を吐いたその時、リビングのドアが開かれた。
「おねーちゃん、おかえりー」
そこから顔を覗かせたのは我が家の天使、昌司だった。半年前再婚し、出来たお父さんの連れ子だ。彼も複雑だろうに、こうやって、お姉ちゃん、なんて呼んでくれるから、私も自然と『お姉ちゃん』ができた。六歳の昌司は、十七歳の私よりもずっと立派な大人だった。
「ん、ただいま。起きてて大丈夫?」
私は、洗面所まで付いて来る幼い弟に尋ねる。鏡越しに見えた彼のおでこには、冷却シートが貼ってあった。
「……うん、へーき」
石鹸を泡立てながら、私は昌司を盗み見る。……これは嘘。目が泳いでいるし、唇も尖っていた。私が見てないと思って、わかりやすい反応をしているのだと思う。多分、一人で寝てるのは寂しかったんだろうな。
昌司はアレルギー持ちの上、病気がちな子だった。身体が弱いから、風邪を貰っては、よくお医者さんのお世話になっている。今回はたまたま症状が軽かったため、家で寝ていたようだ。いつもだったら、学校を休んで寝るだけに留まらず、病院へ直行していたはずだ。
うちは共働きだった。お母さんの仕事は家でもやれるようなものだが、今日は定期の出勤日だったらしい。だから、昌司は一人寂しく過ごしていたのだろう。
昌司が起きてたなら、私も真っ直ぐここに帰ったのに。いや、そうじゃなくても真っ直ぐ帰るべきだった。罪悪感に苛まれながら、私は手を拭いた。
「そっか。まさ、いつも言ってるけど、無理は駄目だよ」
「うん、わかってるよ」
振り返った先には、尖らせた口を緩めた弟が居た。うーん、天使。
ご飯を食べ終え、お風呂に入る。考え事をしながら湯船に浸かって、今日のことを思い出した。
進路、どうしようかな。
いっそ全部を放り出して、逃げてしまいたいくらいだ。どこに逃げるかと言われれば……どこだろう。友達の家は駄目。迷惑かけたくないし。ネカフェとマン喫は嫌だ。カラオケ……滞在料金が安ければ良かったんだけど。喫茶店は、閉店時間があるしなぁ。そういえば、あの店の閉店時間って、何時なんだろう。ホームページくらい出してるよね。後で調べてみよう。
ぼーっとしながらドライヤーをかけて、ため息を吐く。そういえば、名前すら覚えてない。あのお店、レシート出されないんだよね。地図アプリで調べるか。新しそうな見た目だから、まだ載ってなかったり……するかなぁ。なかったら、また今度行って確かめれば良いや。
小さい頃の夢って、なんだったかなぁ。中学の時書いた内容は覚えてる。『公務員になる』だ。理由は、収入が安定しているから。……夢の欠片も無いな。保育園の時は『旅に出る』的なことだった気がする。なんか、観ていたアニメがそんな感じだったはずだ。小学生の頃のは……なんだっけ。小学生ながら、わりと本気で夢見て、そのために取り組んでた気がするんだけど……。
そうやってぼんやりとリビングへ戻り――目が覚めた。
「あっ……」
昌司は、つまみ食いがバレた子供のような表情を……って、そのままだ。彼は、慌ててテーブルの上に伸ばしていた手を引っ込めた。口の中の物を、ごくんと飲み込む。袋から転がりだしたクッキーは、テーブルの上でぺったりと横になった。
昌司は、パンが食べられない。アレルギーを持っているからだ。ケーキも、パスタも駄目だ。それらの食べ物に共通するのは――小麦。
クッキーの原材料は、小麦ではなかっただろうか。
――今、昌司は何をしていた?
私は、身体中の血液がさっと地面に落ちたのを感じた。あれだけ火照っていた身体は冷え切り、ぼんやりした頭はクリアになる。
「あ、その……」
昌司は、目をいっぱいに見開くと、すとんとその場に正座した。
私はそんな彼の元に大股で近付く。
「昌司」
「ご、ごめんなさい、おねえちゃ……」
謝罪なんか、どうでもいい。
昌司の言葉を遮るようにかがみ、両肩をしっかりと掴んだ。
「何枚食べた? 身体、変なところ無い?」
昌司も、顔を青ざめさせながら、口を開いた。
「二枚……」
「身体は?」
小さな手を取って、上へと向けた。屑が付いたままの手は、ふっくらとした白だ。
あれ、と私は内心首を傾げた。アレルギー症状が、出てない……。
鮮明な頭にぐるぐるとこんがらがっていた複雑な紐が、ゆっくりと解けていく。
「えっと、なにもないよ。あの、それ、ふくろにそば、こな? クッキーって書いてた、から。そばは、食べられるから……」
震える昌司は、ちらっとテーブルの上に目をやった。それにつられて、私もクッキーの袋に目をやる。
柔らかいビニール袋には、手書きのシールが貼られている。楕円形のシールには、少し丸みを帯びた字で『サクサクそば粉クッキー』、その下に少し小さく『リンゴ、オレンジ、マンゴー、ブドウ』と書かれている。
ふと、あの喫茶店での会計の記憶が蘇る。
『これ、使ってるのって、そば粉だけですか? 小麦粉とか使ってますか?』
そんな私の質問に、ふわっと笑んだウェイトレスさんが答えたのだ。
『そば粉だけですよ。小麦粉は不使用です』
――これなら、昌司も一緒に食べられる。
そう思って、私は買ってきたのだ。……進路に気を取られていたとはいえ、酷すぎるだろう、この記憶力。……寿命が縮んだ。念のため、両親には昌司がそば粉アレルギーを持ってないか、電話して聞いてみるか。そばが食べれるなら、多分持ってないと思うけど。
私は、昌司から手を離すと、大きくため息を吐いた。それに彼は、びくっと身体を揺らす。ああ、怖がらせちゃった。謝らなくちゃ。
「ごめんね、まさ。お姉ちゃん、勘違いした。でもつまみ食いは駄目だよね。ちゃんと許可取らないと」
私の様子が変わったことに気が付いたのだろう。昌司は肩から力を抜くと、しょんぼりとうな垂れた。
「……ごめんなさい」
それに私は、頷き返した。この子は、強い子だ。誤魔化さず、言い訳せず、ちゃんと指摘を受け止め、非を認められる。私も見習わないと。
「うん。じゃあ、お母さんに電話してみるね。大丈夫だと思うけど、お姉ちゃん、まさのアレルギー全部知らないから」
それに、昌司は頰を膨らませた。
「おれ、知ってるよ。そばこなはへーきだって、おとーさん言ってたもん」
「そば粉ね。うーん、それならメールにしとくか」
尚も不満そうにする弟を尻目に、私は携帯を取り出した。
――そうだ、思い出した。小学生の頃の夢。パパッとメールの文章を作りながら、私は過去に思いを馳せた。
小学生の頃、私はパティシエになりたかった。きっかけは、テレビで観たアレルギーの子の特集だった。その子も昌司と同じ小麦アレルギーで、羨ましそうにケーキを見ていたのが印象的だった。その子に、私の大好きなケーキを食べさせてあげたい。そこから、私の夢は始まった。
夢を実現させるため、お菓子を沢山作ったし、夏休みの自由研究では、有名店のケーキの分析をした。そういえば、それで学年準優勝まで取れたんだっけ。
それだけ本気で研究して、本気で取り組んで……でも、やめてしまった。理由は、両親の離婚だ。離婚して、養育費が払われることになったらしいが、流石に私の趣味に割いている余裕はない。体操着に水着、給食費等、小学生でも結構お金がかかるのだ。それを察した私は、「飽きたから」と言ってやめてしまったのだった。
今でも、私は当時七歳の私を褒められる。あの時は、あれで良かった。でも、やっぱりそれで私は深い傷を負ったらしく、記憶を封印してしまっていたらしい。今思い出しても、胸の奥を包丁で解されているような感覚が鮮明に呼び起こされている。
でも、もう良いじゃないか。私はバイトしている。自分のお小遣いがある。養育費から削ったものではなく、自分で稼いだお小遣いだ。
また、夢を追っても良いんじゃないかな。
私は、進路志望票を提出した。
さて、これからが大変だ。不安はある。きっと挫折もするだろう。しかし、不思議と気持ちは晴れ渡っていた。
――そういえば、あのそば粉のクッキーは、どこのお店で買ったんだっけ?