1
「新入職の方で3棟の方は、1つ上の階へ上がってください。3棟だけでの歓迎会が別であります」
騒がしい会場の中でもそのアナウンスは聞こえた。
入職して初日、オリエンテーションの終わったあとに開催された新入職歓迎会で、偉い人たちの長いスピーチを聞き終わり、知らないうちに入っていた肩の力も抜け、周りのまだほとんど何も知らない同期たちと少し遠慮しながら料理をつついているところだった。
「3棟だけ?」
「えー、気合い入れる会だったりして…」
他の棟へのアナウンスがないことを不思議に思った同期たちから、ひそひそと不安の声が漏れる。割り箸を置き、少し残っていた紙コップの中身を飲み干してから、履きなれないパンプスに痛む足を動かす。オリエンテーションのある数日間は、仕事着である制服ではなくリクルートスーツなので、当たり前のようにこの靴を履いているのだが、まだその初日だと思うと気が滅入る。
しかし、さすがにまだこの程度で弱音を吐くつもりはなかった。先月大学を卒業してここに入職するまで、給料が出るような労働を経験したことがなかった。あるのは老人ホームや地域のイベントでのボランティアばかりで、受け取るのは感謝の言葉だけというのが基本だった。最低限役割を果たせば大きな責任はない。それが、今日からはお給料をもらう対価として労働するのだ。受け取る金銭に見合うだけの労働をする責任があるのだ。不安がないといえば嘘になるが、それなりにやる気に満ち溢れている。
階段をのぼるとそこには15人くらいのラフな私服の男女が待ち構えていて、私達は順に新しい紙コップや割り箸を受け取った。さっき飲み干したのと同じドリンクをもらって乾杯をする。お菓子の包みやおかずのパックを開けて、各々が挨拶やらを始めると、先ほどまでと同じような騒がしい空間が広がった。恐れていたような、特別に気合いを入れさせられるような儀式はなさそうだ。
「先輩たちみんなフレンドリーって感じで、よかったね。佐藤さんとおんなじ部署の人、見つかった?」
今日出会った、同じ寮の2軒隣に住む三田愛美が、ひととおり挨拶を済ませてきて言った。
「深音でいいよ。うーん、私ひとりなのかなあ?もうだいたいきいて回ったと思うんだけど、出会わないや」
「そっかー。たしかにすごい人数差ありそうだなとは思ったんだよね。私もけっこう話しかけたけど、佐藤さ…深音のとこの人じゃなくてうちの部署がほとんどだったよ」
私が配属された部署は、まだ出来てから歴史が浅く、ほかの部署と比べると少人数で仕事を回している。仕事を教える側の人間の労働量を考慮すると、新人をそう多く雇用することもできず、毎年数人ずつしか採用できない。仕事がそう少ないわけではないので1人あたりの労働量は多くなる。そのうちに結婚や出産を機に教える側も減っていくので、長い目で見るとあまり人数が増えることはない。人数が少ない中で上手くやっていかなければならないとなると、重要なのは同期の存在だ。ここと上手くいくかそうでないかで、私のこの会社での労働の質は大きく変わってくる。と、探し出して仲良くなっておこうと思ったのはいいものの、いつまで探しても同じ部署に配属されたという同期には全く出会わなかった。
「あ、いたいた。佐藤さん」
「はい」
呼ばれて振り返ると、ふくよかな女性が立っていた。私服だから同じ棟の先輩ということになる。それに、顔には見覚えがあった。たぶん、入社試験の前に建物の中を色々案内してくれた人だ。ということは、同じ部署のトップか。試験を受けたのはもう半年以上前なので記憶も曖昧だが。
「改めて、保坂です。これからよろしくね」
「は、はい!よろしくお願いします」
「それから、えーっと…」
「三田愛美と言います!よろしくお願いします!」
「三田さん。三田さんね。もう最近全然名前覚えられないから、勘弁してね。ところで、えーっと、…会った?」
「え?」
「もう1人には」
「あ、もう1人いるんですか?よかったぁ。まだ出会ってなくて、もしかして1人なのかなって思っていたところでした」
「あら?…そうか。私もちょっと探してくるね」
保坂さんは途中こちらが予想するよりたくさん表情を変えていたけれど、お互い雑音の中であまりたくさん口に出す気にはなれず、なんとなく伝えたいこともそこそこに会話を終えたような感じがあった。しばらくすると、ひょろっとした背の高い私服の男性を連れて戻ってきた。
「はい!もう1人連れてきた!」
「あ、坂口といいます。よろしく」
「え?えーっと…」
「ちょっとしばらく坂口さんとしゃべってなよ」
保坂さんはそういうと、坂口さんを置いてどこかへ行ってしまった。三田ちゃんもちょうど先輩に捕まっていたので、私と坂口さんとの2人でしゃべらなくてはいけない雰囲気になった。
「あ、えっと、佐藤深音といいます。これからよろしくお願いします」
「よろしく。なんかひとりぼっちだね」
あなたが見つからなかったからではないか!
とはさすがに初対面の人には言えないが、なぜか私服で立っている坂口さんが、それなのに飄々と、さも当然かのように振舞っているのが不思議で仕方なかった。
「あ、そうなんです。別の部署の子が構ってくれて…。あの…、なんで私服?」
「え?うーん、制服着れないから?」
「…?」
まさかスーツが嫌で初日から私服ということだろうか。いやいや、それはさすがに目立つから、同じ会場にいて気付かないわけはない。じゃあ、オリエンテーションと歓迎会の合間に1度着替えに帰った?だからいなかった?それはそれで心臓強すぎ。
「制服着れるのは3棟にいる間だけだから、着替えた」
「今日3棟に行ったってこと?」
「うん。出勤だったから。仕事して。ここには保坂さんといっしょに来たよ」
「………あっ!すみません!勘違いしました!」
やっと気付いた。保坂さんは、もう1人先輩を連れてきたと言いたかったのだ。…どうやら保坂さんは言葉の足りない人らしい。入職初日から先輩にうっかりタメ口をきいてしまったではないか。
「ん?」
「あ、いえいえいえ…。えっと、結構かかりますか?時間」
雑音の中で言葉を端折ったと思ったのか、坂口さんはぜんぜん気にしていないようだったので、あまり触れないことにした。
「そうだね、僕普段は自転車だけど、保坂さんに合わせて今日はバスに乗ったから、いつもよりはかかったかな」
「バス!東京のバスは混むんでしょうね。恐ろしいです」
「まあ時間によるよ。僕も山口から出てきたから正直最初はビビったけど、全然慣れる」
「そうなんですね。そのうち挑戦します」
「何事も挑戦、挑戦。まあゆったり頑張って」
てっきり仕事に対する意気込みとかを言わされるのかと思っていたのに、そんな気の抜けた会話をしばらく続けた。私は自分から話題を提供して会話を盛り上げるのが得意な方ではないが、それは坂口さんも同じなようで、段々と話題は尽きて、その辺の人たちを眺める時間が出来ていった。そのうち、じゃあまた3棟で、と言って坂口さんは離れていき、その後は三田ちゃんとその部署の先輩たちが盛り上がっているところに混ぜてもらった。保坂さんは戻っては来なかった。




