1-7
「……ん、ぁ」
瞼が大きく腫れたような感覚。目はまだ休息を求めているようだが、頭はすでに眠りから覚めている。目覚ましの代わりとなったインターホンの音に応対するか悩むが、どうせ起きてしまったのだから、と立ち上がり玄関に向かう。
「白羽、か?」
玄関の扉に付いた覗き穴から外を見ると、夕陽の赤の中に、制服を身に付けた小柄な少女の後ろ姿があった。狭い視界からでは断言は出来ないが、家を訪ねて来るような異性の知り合いにそれほど心当たりがあるわけでもない。
「悪い、寝てた」
扉を開いてみると、やはり少女は白羽だった。声を掛けると、遠ざかりかけていた背中が止まり、こちらを振り向く。
「あっ、志保。そっか、寝るって言ってた……」
心無しか嬉しそうにも見えた白羽の顔は、しかし驚きへと変わっていく。
「……なんで下履いてないの!?」
「ああ、いや、制服のズボンってきついし」
「パジャマとかに着替えればいいじゃん!」
「急いで出てきたから仕方ない。まぁ、とりあえず入れ」
「志保こそ早く入って! そんな格好見られたら困るでしょ!」
いそいそと俺を押し込みに来る白羽に、そのまま押し切られて家に戻る。
「それで、何か用か?」
「いいから、まず何か履いて!」
顔を赤くして抗議されては、話を続けるわけにもいかず、適当な下履きを取り出して脚を通す。
「もう……なんで恥ずかしくないかなぁ」
「一応、下着は履いてたから問題ないと思ったんだが」
「履いてなかったら論外だよ!」
俺にとって白羽は、半分は妹みたいなものだ。あまり気を使わずに接する事の出来る数少ない間柄だと思っていたが、ここでは認識の違いが出てしまったらしい。
「で、用は? まさかズボン履いてるか確認しに来たわけじゃないだろ」
「いや、用事って言うか、その、一緒にごはん食べないかなって」
「ごはん? ……ああ、夕飯か」
珍しい提案は、すぐにその意図が読み取れた。彼方のいない家で、一人で食事をするのが寂しいのだろう。
「白羽が作ってくれるなら、俺としては助かるな」
「本当? よかった、じゃあ、家に行こっ」
「俺の家で作るんじゃ駄目なのか?」
「もう準備しちゃってるから。それに、志保の家だと食材とかも無いだろうし」
「それもそうか」
白羽の言う通り、普段から料理などしない俺の家には卵くらいしかない。少し面倒だが白羽の家まで足を運んだ方がいいだろう。
「よし、それなら行こう」
鍵と携帯を拾い、ポケットに突っ込んでもう一度玄関に戻る。
「えっ、その格好で行くの?」
「何か問題でもあるか?」
「いや、志保がいいならいいけど」
煮え切らない白羽は気にせず、サンダルを履いて外に出る。日も落ちてきて、Yシャツ一枚に緩いズボンという部屋着のような格好では少し寒いが、白羽の家までの距離なら堪えるというほどでもない。
「何を作るんだ?」
「何って、ああ、ごはん? 生姜焼きにしようと思ってるけど」
「生姜焼きか、いいな」
適当に会話を交わしている間に、すでに白羽の家は目の前まで来ていた。
「志保もお兄ちゃんと一緒で、お肉好きだよね」
「若い内はそんなもんだ。魚だとか野菜だとかは年を取ってから旨さがわかるんだよ」
「どの目線で語ってるんだかわかんないよ」
白羽の口から彼方の名が出た事に少したじろぐが、会話は問題無く進む。行方不明の状況だからといって、あえて腫れ物に触るような扱いをする必要もないのかもしれない。
「お邪魔します、と」
「はい、どうぞー」
白羽の家に来た事は、少なくとも両手の指では足りないくらいにはある。ただ、白羽とも、そして彼方とも、最近では互いの家よりは外で遊ぶ事の方が多く、こうして足を踏み入れるのは随分久しぶりのような気もする。
「できるまで、好きに寛いでていいよ。あっ、私の部屋には入っちゃダメだからね!」
「なんだ、残念だな」
台所に駆けていく白羽の背を見送り、ソファーにあったクッションを尻に敷く。
綺麗に片付けられた居間には、漫画の一つも転がっていない。良く出来た兄妹だと感心しながらも、退屈なので戸棚の中を探る。
「志保、出来たよー」
だが、大したものも見つけられない内に、台所から声が飛んで来る。
「随分早いな」
「元々漬けてあったのを焼いただけだからね。ほら、食べよっ」
いつの間に身に付けたのか、エプロン姿の白羽が食卓に皿を並べていく。手慣れた素振りからは、普段もこうして食事の準備をしているであろう事が伺えた。
「いただきます」
「ん、いただきます」
律儀に食前の挨拶をする白羽に倣い、俺もしばらくぶりの言葉を口にする。
「はい、どうぞっ」
白羽の柔らかな笑みを前に、口に運んだ生姜焼きはやけに美味く感じた。