4-13
別に、確信は無かった。
単純な連想ゲーム、理屈としても成り立たない思い付き。それでも、単に思い付いてしまっただけの事を口に出すのがはばかられる関係でもなかったから。
空が嫌いなら、地下は好きなのか? と俺が聞く。
「地下は好きだよ。空が嫌いな理由とは、あんまり関係ないけどね」
記憶の中の彼方の声に、それより少しだけ深く反響した彼方の声が重なった。
いつか行ったやり取り。それと、一言一句も違わない。
「ここも、屋上とそう変わらないな。夏は熱くて、冬は寒い」
「それを言ったら、どこだって同じじゃないかな」
予想していたよりも明るい、だだっ広い空間の中心で、彼方は嬉しそうな表情を浮かべて俺を出迎えた。
「【無】は、光を通すんだな」
「【無】は視覚的なものを除いては、存在していないのと同じだからね。通す、通さないというよりも、そもそも通っていないんだと思うよ」
「ああ、わかってる。ただ、考えた事が無かっただけだ」
【無】に入り口を覆いつくされ、閉鎖した地下鉄のプラットホーム。それほどの覚悟も決めずに立ち入り禁止のカラーコーンを越えた先に待っていた光景は、半分が予想通り、そして半分は予想外だった。
「それにしても、電気が付いてるのは意外だった」
「それは、運が良かったんだ。多分、路線の進行経路としての事情なんだろうけど」
彼方がここにいれば、それでいい。いなければ、それはそれで仕方ない。それでも、彼方の顔を見る事ができて、安堵している自分はたしかにいた。
「志保なら、来てくれると思ってたよ」
「わざわざ自分から隠れといて、来てくれる、なんて、お前は面倒な女か」
「ははっ、心境的には当たらずとも遠からずかも」
懐かしい、と感じる。
彼方が姿を消してから、まだ一ヶ月と経っていないというのに、最後に何気ないやり取りを交わしたのがひどく昔の事のようだ。
「世界は、救えそうか?」
「わからない。結局、確信があるわけではないからね」
いきなりの核心を突く一言にも、やはり彼方は動揺もせずに緩く肩を竦めた。
「だけど、きっと確信が持てる時なんて来ない。だから、志保が来てくれて良かった」
「核のスイッチの役割は、俺にはちょっと重すぎるな」
「いや、志保はどちらかと言えば、それを押す指の方だよ」
そちらの方が重荷だ、と返そうとしてやめる。軽口を交わし合うのは楽しいが、それは後でもいい。
「いくつか質問がある。嫌だ、とは言わないだろ?」
「喜んで、と言わせてもらうよ」
この時が来る事を、彼方は予想していた。それが確信だったのか、それとも可能性でしかなかったかは俺の把握するところではないが、どちらにしても予想していたなら、この先にも想いを馳せた事があったはずだ。
「成功する目算は?」
「一つ目が七割。そこから先は、正直なところ、まだわからない」
「それでも、無理矢理出すとしたら?」
「半々よりは、下回るんじゃないかな」
不確定にも程のある推測を、それでも彼方は即座に弾き出す。
「俺が来なかったら、どうしてた?」
「もう少し悩んで、そのまま実行してたか、もしくはお金が無くなる前に戻ってたかな」
順当過ぎる答えに、どこか安心する。
「それなら、お前は何をしようとしてる?」
「それは、わかっているだろう?」
ここに来てやっと、彼方が意外そうな顔を見せた。それは新鮮な驚きというよりは、失望や呆れに近いものだろうが。
「なんとなくは、な。でも、詳細は知らない。遥香から聞いたのは、ほとんどあいつに関しての事だけだ」
今度こそ、驚き。
意外そうで、それ以上に楽しそうな彼方のその顔を見るのが、俺はなぜだか好きだった。
「そうか。だから志保は、地下が好きかなんて聞いたんだね」
「ヒントに正直な答えを用意してくれて、助かった」
「問題としては、それでも難しすぎると思っていたよ」
彼方からしてみれば、俺が自分の力でここに辿り着くのは予想外だったのだろう。ここに来るとしたら、遥香から答えを聞いた上で来るものだと思っていたに違いない。
「そこまでわかっているなら、遥香の話を最後まで聞けば良かったのに」
「そこは、こっちの流れだ。それに、お前から聞いた方が早い」
「そういう事なら、俺は構わないけれど」
何かを察したような彼方の笑みに、あえて反応は返さず続きを待つ。
「【無】は人と周囲の空間を呑み込んで、時に羽を、更に稀に翼を、そしてそれより更に低い確率で神を排出する。羽と翼は、神の一部、欠片のようなものかな」
俺の推測していた事実の確認でしかない部分には、頷いて続きを促す。
「そして、その現象により、人と世界は消え続けている。このままでは、きっと世界は終わってしまうだろう」
それは、俺でなくとも、世界の大半の人間が推測している事だ。
「でも、それは実際のところ、推測に過ぎないんだ。そもそも何が原因で【無】が発生しているのか、それが世界、というより地球を全て呑み込むまで発生し続けるのか、そういった事は何一つわかっていないわけだからね」
「ああ、そうだな」
あくまで推測、その推測に俺達は怯え続けている。そもそも、例え世界が終わらなくても、自分が【無】に呑み込まれてしまうだけで、十分に脅威ではあるが。
「少し話が逸れたかな。とにかく、俺の目的は【無】の発生を止める事だ。でも、その為には、俺達にはまだ【無】についての情報が全然足りていない」
ここからが、本題だ。
「俺はね、志保。実際に神に聞いてみるのが、一番早いと思ったんだ」
単純な発想。しかし、それを思い付くのは、並の人間には容易ではないだろう。ましてや、実行に移す事ができる者など、世界中を探してもそうはいまい。
「……遥香は、お前が?」
そこで、ふと初めての思い付きが脳裏に浮かんだ。
「言いたくないけど、その通りだよ。そうでなかったら、見つけられなかっただろうね」
いくら彼方と言えども、【無】により偶然発生した突然変異である遥香の存在を、すぐに発見する事などできただろうか。そんな存在が、偶然同じ学校にいたりするものか。
遥香の話の中で、唯一僅かに引っ掛かっていた部分に、やっと納得がいった。彼方は遥香を見つけ出したのではなく、自ら生み出し、そしてその後で接触したのだ。
「怒らせちゃったかな?」
「下らない冗談言ってないで、続けろ」
「そうだね、志保はそうだと思った」
形式上のやり取りで戯れるよりも、今は話の先が気になる。
俺は、『以前』の遥香を知らない。故に、『以前』の遥香が消えてしまった事などはまったくどうでもいい事で。それでも、両親の喪失が『今』の遥香を傷付けているなら気に掛けていたかもしれないが、『今』の遥香からは『以前』の遥香の両親に対する情は感じられなかった。つまり、俺にとっての遥香は、彼方に害を受けてなどいない。
「ああ、一応言っておくと、可乃の家は俺じゃないよ」
「そうか、良かった」
懸念していたわけではないが、それでも、思い出したようなその一言は俺を安心させた。
「神を呼び出す条件は、適合率なんだ」
「適合率?」
「俺がそう呼んでるってだけなんだけどね。空間の大きさや、人数の多さなんかではなくて、【無】に呑み込まれた人の性質や、特徴。そういったものが、神を呼び出す条件なんじゃないかと、俺は推測しているんだ」
新たな情報に、脳が勝手に話の展開を予想し始める。そして、まさに一つの答えが弾き出されようとしたその寸前で、彼方の言葉が棘のように引っ掛かった。
「……呼び出す、なのか?」
「それも、推測だけどね。ここからは本当に予想の一つに過ぎないんだけど、俺は【無】を発生させているのは、まさに別の場所にいる神なんじゃないかと思ってるんだ」
世界の終わりを語るには明るすぎる声で、彼方は嬉しそうに語る。
「別次元とでも言うのかな、天界でもいいね。そういったところから、この世界に現れる為に、【無】を発生させている。神も、現在進行形で試行錯誤している最中なんだよ」
「それは、夢のある話だな。まるで神話みたいだ」
まるで夢を語るかのように目を輝かせた彼方とは反対に、俺はひどく冷静だった。
これまで見た事がないくらいに浮かれた彼方の様子に気圧されていたのもあるが、神の事情よりも人間の事情の方が俺にとっては重要だ。
「……また、話が逸れたね」
どうやらそれに気付いたのか、彼方は照れたように一つ咳払いをした。
「そう、神を呼び出すんだ。そうじゃないと、話が聞けない。だから、遥香ではまだ成功とは言えないんだよ」
「完全に成功すれば、記憶を持った神が呼び出せる」
「それが、俺の当面の目的だね」
一段落付いた、というように、彼方が小さく息を吐く。
何とも壮大な話だ。だが、すでにこれまでも異常を目にしてきた身からすれば、信じられないというほどではない。当然、信じたい気持ちもある。
「それなら、俺はそれを止めよう」
話を全て信じたとした上で、しかし俺は最高の結末を信じる事ができなかった。
「……そんなに俺を愛してくれていたなんて、嬉しいよ」
「そうやって気持ち悪い事を言うから、変な誤解が生まれるんだ」
彼方の反応を見て、最後の推測が確信に変わる。
「もう一度聞く。成功する目算は?」
「二割」
それは、根拠の無い数字。そうでありながら、俺の大雑把な予想と一致していた。
「二割しか生き残れないと思っていて、どうして実行しようと思えるんだ?」
彼方が俺達から姿を隠し、地下に籠もっていた理由を考えた。
一人になって集中したいから――あり得なくはない。
地下が好きだから――流石に極端、主な理由ではない。
世界を救えるかもしれない、なんて下手な希望を持たせたくないから――ある。
だが、そこまででは足りない。俺達に、白羽に要らない心配を掛けてまで、今の世界で行方不明を装うマイナスと釣り合いが取れる理由ではない。
「世界の為」
そう、彼方は自分を実験台に、神を呼ぼうとしていたのだ。その結果として自分が、自我が残る確率が半分より低くても構わないと、そう決めていたのだ。
更にそれどころか、失敗した時の事を考え、そうなってから俺達が悲しむ事の無いように、心の準備をさせておくなんてのは、あまりにふざけているとしか思えない。
「……なんて、馬鹿みたいな事は言わないよ」
彼方の顔に当たる寸前、俺の拳が止まる。
俺は彼方を殴ろうとしていた。そして、彼方はそれを避けようともしていなかった。その代わりに、彼方は俺の腹を目掛けて膝を振り上げる。
「一回くらい、志保と殴り合いの喧嘩をしてみても楽しかったかな」
躱すどころか受ける事すらできなかっただろう蹴りは、やはり寸前で止まった。
「俺は嫌だ。だから、やらせるな」
「嫌なら、無理強いはできないね」
残念そうな表情を浮かべてみた彼方は、すぐに笑みでそれを上書きした。
「理由は一つじゃないし、もちろん躊躇いもある。そういったものを全て自分の中で秤に掛けて、実行したい方に針が振れたから。ってだけじゃ、説明不足だよね」
「ああ、不足だな」
彼方の言った事は、全ての行動決定における普遍的な行程でしかない。つまり、何の説明もしていないのと同義だ。
「志保とは前に話したよね。【無】と死、世界の終わりについて」
「そうだったな」
思い出すのは、彼方の矛盾。彼方は死と世界の終わりを同一視していながら、自らの死後について想いを馳せていた。
「志保は、自分が死ぬのと世界が終わるのは同じだと思っている」
「そうだな」
「俺もそう思ってはいるんだ。自分が死ねば、主観的世界は終わる。一般に言う世界が終わる事も、そのまま自分の死に繋がるしね」
そこまでは、言葉こそ違えど、聞いた事のある内容だった。
「でも、今の俺からすれば、やっぱりその二つは違う。実際に観測しないとしても、白羽が、志保が、可乃が、それに遥香が消える事は、想像するだけで辛い」
自分の消えた後の世界。彼方が憂慮していたその意味が、俺にも朧気に見えてくる。
「死んだり、消えた後は同じだろうね。でも、生きている時に想像する分には、やっぱり自分の死と世界の終わりは違うんだって、俺は思うんだよ」
彼方の矛盾は、矛盾ではなかった。それは、見る角度の違いなのだ。
「つまり、俺達を救う妄想をしたままで死にたい、って事か」
「あはははっ! いいね、それっ! そう、ずばりその通りなんだと思うよ!」
皮肉を解せず、いや、理解した上で、彼方は的を射たというように盛大に笑い転げた。
「……お前じゃないと駄目なのか? 遥香みたいに、他の奴で試せばいい」
「それは、世界を終わらせるのに加担する事になるよ」
「それなら、お前でやったって同じ事だ」
「俺はね、志保。変な話だけど、神を呼ぶのに最適なのは他でもない俺だと思ってるんだ」
何一つ根拠を提示しない、何の論理性もない宣言。だが、納得できてしまう。
彼方なら、何でもできる。経験則もあるが、それはもはや信仰に近い信頼だ。万能である彼方が、神を呼ぶにふさわしくないわけがない。理屈でなくそう思ってしまったからこそ、俺は彼方が自らを依代に選んだ事に気付いたのだから。
「勝手にしろ……って、言いたいところなんだけどな」
人の選択に関与する事は、できれば避けたい。相談を求めてきたわけでもない相手の決定に口を挟むなんてのは、基本的には余計な世話でしかない。
だが、これは彼方だけの問題ではない。彼方が消えるという事は、俺の世界の大きな一部が削り取られる事でもあるのだから。
「俺がお前を説得、論破したら、意地を張らずに引き下がるか?」
「志保を相手に、意地を張るつもりはないよ。俺の意見が変わったら、それまでの話だ」
俺の提案に、彼方は快く応じる。
こうなる事は知っていた。問題は、ここからだ。
彼方が長い時間を掛けて考えて出した結論を、他でもない俺が覆す必要がある。彼方の思い付かなかった要素、論理的な破綻、そういったものを見つけ出し、あるいは作り出してでも、彼方に自らの生き残る可能性の高い選択をさせなくてはならない。
「彼方の守りたいものは、白羽だろ?」
「俺自身を除けば、そうだね、白羽が一番かな。可乃や遥香、志保には悪いけど」
「白羽が、お前の犠牲で救われた世界を望むと思うか?」
稚拙な感情論。問題がすでに主観と感情の領域である以上、それは重要な一つだ。
「白羽なら、大丈夫だよ」
彼方の笑みは、間違いなく俺に向けられていた。
「志保が付いていれば、白羽は大丈夫だ。もちろん、俺が消えれば悲しむだろうし、そうであってほしいけど、人は誰かを喪っても立ち直れるように出来ているはずだから」
「俺も消えたら?」
「それは……辛いね」
一瞬だけ悲痛に沈んだ顔を見せ、しかし彼方は頭を振る。
「でも、それは俺にはどうしようもない事だ。志保が、可乃が、遥香が、白羽が、それに俺も、このままならいつか不条理に【無】に呑まれるだろう」
この路線は、やはり失敗だった。
「だから、俺はそれを止めたいんだよ」
ゲームを楽しむかのように、ゆっくりと彼方はそう宣言した。




