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終末的日常論  作者: 杉下 徹
四章  類
48/54

4-9

「可乃先輩と、何かあったんですか?」

「いや、何も無かった」

 問いに短く切り返すと、遥香は責めるような目でこちらを見てきた。

「わかってるなら、聞くなって」

「先輩こそ、わかってるくせに。私は、何があったんですか、っていうのを回りくどく聞いたんですよ」

「だから、わかってるなら聞くなって言ったんだ」

 俺の言葉に、遥香は一瞬だけ首を傾げると、驚きに目を大きく見開いた。

「気付いてたんですか?」

「いや、気付いたのは、今だ」

 放課後の溜まり場で、可乃と俺はそれなりに長く話していた。扉こそ閉まっていたとは言え、所詮は木の板一枚、部屋の外から盗み聞きするくらいの事は容易だっただろう。

 もちろん、確信があったわけではない。ただ、明らかに普段と違った俺と可乃の間の空気を目にして、あえてそこに触れてくるという事は、その内容が首を突っ込んでも問題が無いものだと判断する材料が遥香にはあったのではないかと思っただけで。

「……先輩には、敵いませんねぇ」

 肩を竦め、遥香がやれやれと息を吐く。

「ご想像の通り、実はばっちり聞いちゃってました」

「そうか」

「怒らないんですか?」

「あの場で入って来られるよりはマシだ。それに、聞かれて困るものでもないしな」

 無論、色恋沙汰を人に眺められる事への気恥ずかしさはあるが、俺と可乃のそれはすでに終わっていた話だ。

「私がどうして先輩を家に誘ったか、わかりますか?」

 急な話題の転換。

 可乃と俺の微妙な空気感もあり、雨足の弱まった機を見て早めに解散した後で、俺が遥香と歩いているのは、まさにその誘いに応じたからに他ならない。

「話があるんだろ?」

「その内容は?」

「流石に、そこまでは無理だ」

「まぁ、ですよねぇ」

 楽しそうに笑った遥香の目が、俺の目を中心に捉える。

「特に大した話は無い、って言っても、怒りませんか?」

「むしろ、ホッとするくらいだな」

「ホッとする、ですか」

 遥香の家に誘われるのは、これが初めてだ。そこに何か意味があってもおかしくはないが、その程度の事は機会がなかっただけでもあり得るし、そうであるならそれ以上気に掛ける事はない。

「話したい事があるなら、話せばいい。その後に責任は取らないけどな」

「そこは、話くらいは聞いてやる、って言うところじゃないんですか?」

「仕方ないだろ。これだけもったい付けられると、俺も怖い」

「頼りがいの無い先輩ですこと」

 遥香がおどけて頭を揺らし、そこでふと会話が止まる。

 一瞬の呼吸のずれ。まるで息継ぎをするような、空白の時間。親しい仲であっても、完全にはこういった瞬間を消す事はできない。

 何気なく周囲を見渡し、そこが見慣れない風景である事を再確認する。距離的にはそれほど歩いたわけではないものの、学校や俺の家から駅を挟んだこちら側には、思い返せば意外なほどに訪れた事がなかった。

 特別に大きな施設があるわけでもない、いわゆる住宅街といった町並みは、どこか駅を挟んだ向こう側よりも活気が無く感じられる。陽も落ちかけた時刻、駅前ほどの照明の光量がないからと言えば、それまでかもしれないが。

「先輩は――」

 言葉を紡ぎかけた遥香の口が、開いたままで硬直する。

「……金なら、それほど持ってないぞ」

 目の前から突然現れた、俺と同年代程度の男の拳は、俺のすぐ横を抜けると、男の身体と共に地面に転がる。

「バァカ、金は要らねぇよ」

 声は、先程の男のものではなく。それが進行方向に控えめに鎮座している【無】から聞こえた事で、ようやく事態を把握する。

「だから、素手とかアホだって言っただろうが、キミト」

「うっせぇな、別にいいだろ」

 向かい側から【無】を越えて現れたのは、先の男の仲間らしき三人の男で。その内二人は警棒のような何かを手に持ち、一人はバットケースを担いでいた。

「……逃げるぞ」

 遥香の背を叩き、反転しかけたところで、その先の曲がり角から一人ずつ、下品な笑いを浮かべた男が道を塞ぐようにして現れたのが目に入ってしまう。

 どうやら、囲まれたという事らしい。

 おそらくは、世界の終わりを前にして犯罪行為を犯す事に躊躇いを覚えなくなった、無差別な追い剥ぎの類。俺達はたまたま、その活動範囲内に足を踏み入れてしまった不運な被害者と見るのが妥当だろう。

 別に、驚くような事ではない。つい先日、知人が知人を襲う様を目の当たりにしていた俺にしてみれば、このくらいの事は起こっていて当然とすら思える。

 とは言え、実際に自分の身に降りかかる事を想定して、あらかじめ対処法を練っていたわけでもなく、むしろ対処法なんてものは存在しない。

 つまり、結局のところ、この状況は絶望的に不運で最悪だ。

 俺は、少なくとも人並み以上には喧嘩に慣れているという自負はある。ただ、それもあくまで人並み以上、程度のもので。本格的に武器を手にした若い男を相手に素手では、一人を退ける事すら厳しい。

 彼方がいれば、というのは流石に過大評価が過ぎるだろうか。どちらにしても、この場に彼方がいない以上、考えても無駄な事だが。

 相手は前に四人、後ろに二人。全て殴り倒すなんて選択肢は、明らかに論外だ。となれば、やはり逃げるしかない。

「…………」

 問題は、逃げ方だ。

 金が目的でないとすれば、追い剥ぎ連中の目的は、単に暴力を振るう事そのものか、もしくは女、つまり遥香だ。

 前者もなくは無いだろうが、まともな感性の持ち主ならば、目的は後者の方だろう。つまり、遥香を切り捨てれば、俺を追う事に執着するとも思えない。

 逆に、遥香と共に逃げるとなると、難易度は跳ね上がる。相手方のモチベーションもあるが、単純にフットワークの点でも二人が一人より劣る事は間違いないだろう。

「こっちだ!」

 選んだ選択肢は、後方、二人の男へと向かい、遥香の手を引く事だった。

 ここで遥香を露骨に見捨てるような事があれば、間違いなく俺達の関係性には小さくない罅が入る。それを嫌っただけの、中途半端に打算的な選択。考えたくはないが、遥香が一人で同じ状況に陥っているのを外から見ていたとしたら、俺は身を呈してまでそれを助けようとはしなかっただろう。

「おい、行ったぞ、止めろ!」

 背後からの声に応じて、前方の二人が身構える。道幅は狭いが、それでも人一人が優に抜けられるだけの隙間はある。引き倒されるか、掴まれるかさえしなければ、そのまま先に通れるはずだ。

 掴んだ手の先で、遥香はしっかりと自分の足で走れている。なら――

「……あっ」

 遥香の手首から手を離す。その方が、互いにとって動きやすい。

 向かって左、細身の男が腕の長さほどの細い角材を斜めに振り下ろす。横に避ければ躱せるが、右との距離が詰まり過ぎる為、鞄を掲げて受ける。成功。

 続いた右の男からの一撃は、警棒の小振りな打撃。避けようとしたが間に合わず、そのまま肩に受ける。痛い。が、崩れ落ちるほどでもない。

 追い縋ってきた手は引っ掻いて振りほどき、両者の間を抜ける。これで、位置的には包囲を逃れた。

「そっちはいい! 女!」

 だが、やはり、と言うべきか、遥香は後に続いては来れなかった。角材の方の男に身体全体で抱きかかえるように抑え込まれ、逃げ出せない。

「くそっ……」

 半ば反射的に、遥香を抑え込んだ男の首元に肘を叩き込む。遥香を拘束していた男は崩折れるも、もう一人が壁のように立ち塞がり、そうこうしている間に離れていた四人もすぐ近くにまで接近してくる。

 間に合わない。一人で逃げるか、無理をしてでも抗うかを選択しなければならない。

 一瞬をひどく長く感じるも、それを欠片も有り難いとは感じない。結末の決まっている逡巡など、精神的苦痛でしかないというのに。


「――仕方ない、ですね」

 

 結論から言えば、俺が答えを出す事は無かった。

「……白い、羽?」

 歩みは悠然と、それでいて顔には照れとも悔みともとれる微妙な表情を貼り付けて。

 しかし、そんなものは全て二の次でしかないほどに、二人の男を振り払った遥香の背から生えた一対の翼は異様で、そしてこれ以上ないほどに美しかった。

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