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終末的日常論  作者: 杉下 徹
四章  類
47/54

4-8

 雨の日に、屋上で過ごすのは、余程の酔狂かあるいは馬鹿だ。

 雨の中、傘をささずに踊る人間が――なんて言葉もあるように、そんな奴がいても否定する気はないが、少なくとも一般人を自認するところのこの俺は、身体が濡れるのを嫌って、屋根の下で不自由に時間を潰していた。

「……あっ、志保」

「可乃か」

 放課後、まず溜まり場に顔を出したのは可乃で、先に一人待っていた俺と合わせて、必然的にその場は二人きりになる。

「学校、来てたのね。雨なのに」

「どうだ、偉いだろ? 褒めてくれてもいいぞ」

「授業にも出てないのに、何を褒めろって?」

 挨拶代わりに軽く冗談を飛ばすと、可乃は呆れたように笑ってみせた。

「可乃こそ、今日は早いな」

「そう? 水曜日は、大体私の方が白羽と遥香より先に来てると思うけど」

「そうだったか?」

 あまり印象に無かったが、当人である可乃が言うならそうなのだろう。

「……ホテル暮らしはどうだ?」

「まぁまぁね。家事とかしなくていいから、楽は楽だけど」

 思えば、可乃が俺の家を出て仮宿暮らしを始めてから、二人だけで顔を合わせたのはこれが初めてかもしれない。

 いや、それ以前から、可乃と二人だけで顔を合わせる機会は、意外な事にあまり無かった。この場所に顔を出す時は、大体が他の面子も揃っていて、それ以外の場所にあえて可乃だけと出掛けるという事もほとんど無かったから。

「将棋でもするか?」

「いいけど、私、そんなに強くないわよ」

「俺だってそんなに強くはない」

 二人で何を話せばいいのか、何をして遊べばいいのか迷う自分がいた。

「嘘。だって、志保、彼方と良くやってたじゃない」

 可乃の口から彼方の名前が出た事に、少しだけ胸を撫で下ろす。彼方の話をしてもいいとなれば、選べる話題は相応に広がる。

「まぁ、勝った事無いけどな」

「そうなの? へぇ、意外」

「だから、実は将棋はそんなにやってないんだ。チェスなら、結構やってたけど」

「チェスでは勝てたの?」

「なぜか、な。ただ、勝てたって言っても、通算だと負け越しだ」

 彼方に負けた事を思い出す時、不思議と悔しさは感じない。

 俺は心のそう深くもないところで、彼方に勝つ事を諦めていた。そうしなければ耐えられないほど、下ノ瀬彼方という人間は完璧だったから。

「なぁ、可乃」

 だから、これは対抗心なんて立派なものではなくて。

「俺が彼方に勝ってるところって、何かあるか?」

 聞くべきではなかった、と、すぐに気付いた。

 どうしたって、この世界には知らない方が幸せな事というものがある。この問いの答えは、きっとそういう類のものだ。

 あの時、俺と彼方を同列に好きだと言った可乃の言葉が、こんなところから崩れてしまう。理詰めで問うてはいけないと、わかっていたのに。その優しい嘘を突き壊す事は、他の誰でもなく俺を最も傷付けるだけなのに。

「何言ってんのよ、そんなの……」

 無い、とは言えないだろう。

 だからと言って、無いものは無いのだ。だから、言葉を止めるしかない。そんな事は全くもってわかりきっていた事で。

「……ああ、そういう事」

 しかし、流石にいきなり平手打ちをかまして来る事までは予想できなかった。

「反射神経なら、彼方もこのくらいできるぞ」

「このっ……大人しく殴られなさいよ!」

 いつかのように平手を手の甲でいなした後、一応の確認を口に出してみるも、やはりそれが正解ではないらしい。

「ふざけないでよ! 私が、彼方がいなくなったから代わりに志保に告白したなんて、今更になってまだ本気で思ってるの!?」

 どうやら、この場に至って、可乃はいつになく察しが良い。しかし、やはりそれでも俺の心情を完全に汲み取れているわけではない。

「いや、違う。流石にそこまで可乃を疑ってはいない。ただ、恋愛感情ってものは勘違いしやすいものでもあるから……」

「っ、この馬鹿っ!」

 二発目の平手は、手首を掴んで止める。

「……彼方なら、多分殴られてたわよ」

「ああ、そうかもな。でも、俺はそこまで人間が出来てないんだ」

「だから、どうしてっ……」

 利き手でない左での平手は、片手を固定されている事もあってか弱々しく、受け止めるのは容易だった。

「志保は志保でしょ! 彼方は彼方じゃない!」

「そうだな」

 人と人とを比べる事に意味はない。

 そんなものは、詭弁だ。

 比べる事が出来てしまう以上、そこにはどうしたところで優劣が生まれる。そして、俺は別にその事を悲観しているわけでもない。

 昔から、大抵の事は人並み以上にできた。自分は人より優れていると思っていたし、自分として生まれた事を残念に思った事はない。

 ただ、彼方には勝てないというだけ。彼方に出会い、俺は自分が特別な存在などではない事に気付いた。それも、今となっては良かったと思っている。

「……現代文」

「?」

 頭を垂れ、可乃が呟いた言葉を、聞き取れずに首を傾げる。

「だから、現代文。志保が彼方に勝ってるところ」

「そんなわけ……」

「あるわよ、彼方本人が言ってたんだから。志保は、現代文で間違えた事が無いって」

「…………」

 記憶を辿るも、定かなものが無く、断言できない。

 勉強、国語という括りなら彼方より劣っていたのは確かだが、それ以上に区切られた分野までは流石に把握していなかった。

 そして、一つ例外を出されてしまえば、俺はそれ以上返せない。一つを下らない事だと切って捨てれば、逆に彼方が俺に勝っている部分にも同じ事が言えてしまう。そんなわけはないのに、極論を理屈で説き伏せられない。

「彼方は、たしかにすごかった。何でも出来たし、嫌味なところもなくて。欠点なんか何も無いみたいで……悔しかった」

 そこで、苦々しいものを吐き捨てるように、可乃は顔を歪めた。

「私も、志保と同じ。彼方と自分を比べて、いつも悔しく思ってた。だから本当は、偉そうに何か言ったりできないんだけど」

 人が自分と誰かを比べてしまうのは当然の事。思えば可乃も、彼方に、そして俺にすら競争心を見せる事があった。その上で、可乃は何を言おうというのか。

「志保、彼方の言葉、全部わかってた?」

「……多分、ほとんどは」

 問いの意図が読みきれず、手探りで返す。

「私は、わかんなかった。時々、彼方って良くわかんない事言わない?」

 同意はできない。しかし、可乃の言わんとしている事はわかってしまった。

「彼方は、会話が下手なのよ。考えた事をそのまま言うし、こっちの言葉を勝手に解釈する。それくらいしかわからなかったけど、それがわかって、なんとなく安心したの。彼方にも、欠点があるんだって」

 俺は、そんな事を感じた事は無い。彼方の言葉は斬新でこそあれ、俺には意味も意図もはっきりとわかるものだったから。

「志保には、これでわかるでしょ?」

 きっと、俺は言葉を読み取るのが得意なのだ。可乃がそう言おうとしている事が、俺にはわかってしまう。

 それは、おそらく俺が凡庸だからこその長所。特異な感性を持った彼方には理解できない他人の言葉も、あくまで一般の域を出ない俺には理解できる。それでいて、彼方の思考の一端を理解できる程度には、僅かに俺は人よりも優れているのだろう。

 わかっていた。そんな事はわかっていた事で、可乃の言葉は別の角度から同じ答えを導き出したに過ぎない。

 ただ、それでも長所は長所だ。例え副産物のようなものでも、その一点に限れば、俺は本当に彼方よりも優れているのかもしれない。

「それと、これは本当に言いたくないんだけど……」

 口籠った可乃の頬は、怒りからか赤く染まっていた。

「私が好きなのは、やっぱり志保だったみたい」

 いや、それは怒りよりも照れによるものか。

「彼方ももちろん好きだけど、それは友達としてと、憧れとして。恋愛の意味では、私が一番好きなのは志保なんだって。変な話だけど、それが今やっとわかったの」

 嘘、かもしれない。

 ただ、それは不安から可能性を否定できないというだけで、可乃が嘘を吐いているので無い事は、理屈でなく感性で理解できていた。

 きっと、これが本当の意味での初めての告白。そして、そうでありながら、その結末はもう既に決まっていた。

「ごめん」

「ううん、こっちこそ」

 今度こそ響いた平手の音は、やけに乾いて聞こえた。

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