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終末的日常論  作者: 杉下 徹
三章  刹
39/54

3-14

帰宅の挨拶は、俺にとって習慣付けられたものではない。

 家族と暮らしていた頃は毎日のように口にしていた記憶はあるが、この家で一人で暮らすようになってからも、誰もいない家に声を掛け続けるほどには、その行為は身体に染み込んだものではなかった。

「ただいま」

 だから、口にした言葉は明確な相手を定めてのもので。

「おかえり、志保」

 その相手は、ソファーから立ち上がると、父親の帰りを待っていた子供のように俺の元へと駆け寄ってきた。

「夕飯は食べたか?」

「一応、ピザを頼んで食べたけど」

 テーブルの上は綺麗に片付いており、食事の痕跡は見えないものの、可乃がゴミ箱を見ればわかる程度の嘘をつくわけもないだろう。どうやら、ひとまず食事についての懸念は解消されたようで、胸を撫で下ろす。

「志保は、誰と食べてきたの?」

「白羽と、話のついでにな」

 わざわざ俺が可乃を置いて一人で外食する理由などなく、それが可乃にもわかっている以上は誤魔化しても仕方ない。

「そう……白羽は、どうだった?」

 白羽の名前を出しても、呼んでくれれば良かった、とは言わず、可乃はむしろ心配そうに眉を潜めた。白羽が溜まり場に顔を出さなくなると同時期に引き籠もり始めていた可乃も、俺からの話で白羽の状況は大まかに知っている。

「少なくとも、明日は顔を出してくれるとは思う」

 話の終わった後、一通り泣きじゃくり涙が途切れてから、白羽は妙にさっぱりとした顔で食事の用意を始めた。夕食の間も普段に戻ったように会話も弾み、一見して涙が悪い感情を押し流したようにも思える。

 だが、やはり実際のところはわからない。なにせ、俺の言葉も白羽の涙も、大元の原因の解決という面では、欠片の役にも立ってはいないのだから。

「そうなの? それなら、良かった」

 そしてそれは、目の前で純粋に喜んでみせる可乃についても同じだ。

 だが、俺はそれ以上には踏み込まない。他人の心などわからないのが当たり前、表面上は問題の無い世界があるのなら、あえてその中の罅を広げる必要はない。

「ねぇ」

「なぁ」

 声が、微妙にずれて重なる。

「何?」

「いや、先に話してくれ。そっちの方が少しだけ早かった」

「……じゃあ、そうするわ」

 話題の譲り合いは起こらず、可乃が話を先行する。

「志保は、家族に会いたいと思わない?」

「思わないな」

 考え込む事もなく、問いに即座に答えを返す。

「絶対に会いたくない、ってわけではない。だけど、会って何をしたいとか、そういうのは、俺の場合はもう済ませたから」

 唐突に【無】に家族を奪われた可乃と比べて、俺の家族との別れは恵まれていた。

 能動的に、自分達で選んだ別れは、十分な準備を済ませてから行われたもので。未練や後悔など残さないように考え、行動し、涙を流した上で、だからこそ俺と家族はそれぞれ一人で過ごす事を決めた。残ったものがあるとすれば、それは必然の感傷だけだ。

「そう……」

 息継ぎのように呟きを零し、可乃は更に言葉を続ける。

「志保は、家族の事は好きだったのよね?」

「好きだった、と思う。正直、自分でもよくわからないけど、嫌ってはいなかった」

 いつかも口にした答えを、同じように声にして辿る。

 可乃は、まだ俺が家族で暮らしていた頃、この家で両親と会った事があった。だからなのか、俺が一人で暮らすようになったと聞いた時には、過剰なくらいに驚き、しつこいほどに事情を尋ねてきたものだった。

「なら、志保は、家族と私達と、どっちが好き? どっちが大事?」

 面白い質問だ、と思った。

 たしかにそれは、考えた事もなかった。

 そもそも家族とは、親子という関係は、その他の人間関係と比べて明らかに特殊な形で成り立っている。生まれた時から否応無しに傍にいた両親を、友人と同じ尺度で比べるなどという事が、はたして成り立ち得るのか。

「俺には、家族よりもお前達の方が必要だ」

 可乃の問いの答えには、ふさわしくないかもしれない。

 だが、俺にとって家族と友人を比べうる最も適切な尺度は、『必要』だった。そしてその観点において、結果はすでに出ている。とうに切り捨てた家族と、今まさに繋ぎ止めようとしている友人、どちらが俺に必要なものかなど。

「それなら、私達の中では? 志保にとって、一番大切なのは誰なの?」

 問い詰めるような言葉は、自分を選んでくれと言っているようにも聞こえる。

 だが、きっと違うのだ。その問いの意味は。

「可乃は、どうなんだ?」

 単純な問いの反転に、可乃の息が詰まる。

 奇遇にも、俺が元々問おうと思っていた事はまさしくそれだった。

 可乃は、本当に俺の事が好きなのか。彼方ではなく、俺に恋愛感情を抱いていたのか。

「……私は、わかんないのよ」

 弱々しく零れた声は、懺悔に似ていた。

「ずっと、わからなかった。志保が好きなのか、彼方が好きなのか。だって、どっちも好きなんだもん……仕方ないじゃない!」

「ああ、そうだな」

 駄々を捏ねるように叫ぶ可乃の手を、包み込むように両手で握る。

 嬉しかった。

 彼方の代わりとして、俺で妥協したわけでないという言葉は、南雲との件で俺の中に生まれていた懸念を吹き飛ばしてくれるくらいには真摯に聞こえたから。

「俺が一番大切なのは、自分だ」

 当たり前の言葉だけでは、きっと伝わらないだろう。

「それでいいんだよ。誰が一番好きだとか、そんな事を決める必要も、それに縛られる必要も無いんだ」

 こんな事を口にするのは、やはり勝手な事なのかもしれない。

 彼方が消えたからと俺に告白してきた南雲を糾弾しておいて、どちらも好きだなんて事を許容するのは、明らかに矛盾している。でも、それは仕方の無い事だ。

 恋愛なんてものは、人生における娯楽の一つでしかない。

 俺自身も、可乃を選んだわけでもないのに、その告白を受け入れた。それが自分の望む基準を超えていれば、一番でなくても、二番ですらなくても、誰に告白し、誰の告白を受け入れる事も個人の自由だ。ただ、それを恨むのもまた自由だというだけで。

「……やっぱり、志保は私とは違うのね」

 それは、綺麗な笑顔だった。

 明るい感情からは程遠い、押し殺すような声。その声をそのまま表情にしたような、儚げで作り物のような笑顔。そんな不自然さが、俺の目には奇妙な美しさと写っていた。

「知ってたと思うけど、私、最初は彼方の事が気になってたの」

 固まった笑顔のまま、独り言のように可乃の声が続く。

「彼方は明らかに普通じゃなかった。でも、志保もそれに負けないくらい、私にとっての普通とは違うみたい」

 俺にとって、俺は普通の人間だ。

 でも、可乃にとってはそうではないらしい。どれほど親しくても所詮は他人、互いの当然を、常識を共有できるとは限らない。

「……きっと、志保は私とは付き合えない」

「そうかもな」

 俺は可乃と付き合える。恋人になる事を拒まない。

 ただ、俺の中での恋人という関係性は、可乃の中での恋人の関係性と同じではないのだろう。俺にとって、俺が可乃を恋人にできても、それでは可乃にとって、俺が可乃を恋人にした事にはならない。

「……私は、志保と『遊びの関係』で妥協はできない」

 そうか、俺の中での『恋人』は、可乃の中では『遊びの関係』だったらしい。

「なら、これからも友人でいよう」

 最後まで、可乃に言わせたくはなかった。

 互いに望む関係にズレがある、それだけの事で可乃はきっと傷付いてしまうから。それだけの事では傷付かない俺が結論を告げるべきだ。

「ねぇ」

 声色を変え、表情も変えて、可乃は呟いた。

「こういう事言うのって、自分でもすごい理不尽だとは思うんだけど」

 その様子は、先程までの張り詰めたような緊張が消えて、どこか疲れたようで。

「一発だけ、平手でいいから、殴ってもいい?」

「嫌だ」

 多分、可乃は呆れているのだと、平手打ちを手の甲で止めながら気付いた。

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