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終末的日常論  作者: 杉下 徹
三章  刹
31/54

3-6

 ごめん、君と付き合うつもりはない、と彼方は言ったらしい。

 それはきっと、誰に対しての言葉でもなかったのだろう。俺からしてみれば異常とも思える頻度で告白を受けていた彼方は、その全てにそう返していたというのだから、それは不在着信の際に電話が告げるメッセージと同じような、機械的な定型文でしかない。

 志保って子と付き合ってるから? と時折聞かれる、と言って笑う彼方に、俺は色々な意味で渋い顔を見せた。

 志保、という名前は、まぁ一般的に言えば女の名前で。先輩、後輩、あるいは別の学校の生徒など、多種多様に富んだ彼方への告白者の中には、彼方が『志保』という人物と親しくしている、という中途半端な情報だけを小耳に挟んだ結果、妙な誤解を持ってしまった者もいたらしい。

 純粋に字面と響きに限ってのみ言えば、俺は自分の名は嫌いではない。ただ、頻繁に起きる勘違いの類を処理するのは、あまり楽しいものではなく。

 巡り巡って生まれた冗談のような『彼方は志保と付き合っている』という誤解、そこから派生した南雲小夜との関係は、その最たるものと言えた。

「嫉妬、か……」

 南雲は、『志保』に嫉妬していた。

 そんな事は、本人に言われずともなんとなくわかっていた。

 南雲と俺が初めて出会った時、中学も違ったはずの南雲はなぜかすでに彼方の事を好いていて、同時に『志保』という存在しない少女への嫉妬を溜め込んでいたから。行き場の無くなったその嫉妬は、実在の天川志保、つまりこの俺へとそのまま向けられる事となったのだろう。

「まったく、いい迷惑だ。本当に」

 大抵の問題は軽く解決していた印象のある彼方だが、俺と南雲の間の軋轢についてはついぞ一切干渉する事はなかった。それも、今となっては昔の話だが。

「あぁ、暇だな……」

 ティーカップを傾け、申し訳程度に中の液体を口に注ぎ込んだ後、机に戻す。

 今日は、なんとなく学校に行く気分ではない。その程度の理由で家に籠もってはみたものの、特別に家でやりたい事もない事実に気落ちする。

「…………」

「可乃?」

 安物の紅茶を飲み干し、部屋に戻ろうと立ち上がったところで、いつからいたのかリビングの隅でこちらを伺うように立ちつくす可乃の姿に気付いた。

「どうした、腹でも減ったか?」

「…………」

 場繋ぎの言葉に返事はなく、代わりに一歩だけ距離を詰めてくる。

「志保は、私に何も言わないのね」

 どこか問い詰めるような、張り詰めた口調。

「何か言ってほしいのか?」

 俺の口をついた言葉は、皮肉ではなく純粋な疑問だった。

 可乃が俺の家で過ごすようになって以降、俺は出来る限り可乃を放置していた。そしてそれが最善だと、本気で思っていたのだから。

「……ずるい」

 何かが決壊したように、可乃の表情が崩れる。

「そんなの、わかんないわよ! 自分でどうしたらいいかわかるくらいなら、私は……っ」

「悪い」

 唐突に崩れ落ちた可乃に、俺は心の籠もらない謝罪を告げるしかない。

「志保は、私を……彼方を、だって、辛くて……」

 何かきっかけがあったわけではない。

 ただ、可乃はまだ自宅の、両親の喪失を受け入れられていなくて。今はそれがふと表に出てきてしまっただけなのだろう。

 どこまでも感情的な、理屈の通用しない現象に、当事者でない俺が出来る事はない。だからと思って放っておいたのが、可乃には辛かったのかもしれない。あるいは構っていたとしても、結局は今のような状況に直面していたのだろうか。

「俺にできる事なんて、ほとんどない」

 涙を流すでもなく項垂れていた可乃が、声に反応して顔を上げる。

「お前を慰める方法も、【無】から身を守る方法も、俺にはわからない」

 あるいは彼方なら、と今になっても思ってしまうのは、きっと悪い癖なのだろう。

「だから、その程度のものだと思って、それでもいいなら何かできる事を言ってくれ」

 少しも頼りにならない、何の意味すらない言葉は、紛れも無く本音だった。

 俺は、何をすれば可乃の為になるのかもわからない。仮にわかったところで、それが可能か、それどころか可能であっても実行してやるかどうかすらわからない。

 だけど、少なくとも可乃に普段の調子を取り戻してほしいというのは間違いない本音だから。

「志保は、私の為に死ねる?」

「死ねない」

 予想外の言葉に、即座に否定を返す。

「私の為だけに生きられる?」

「嫌だな」

 問答の前後で、可乃の表情は欠片も変わる事はない。

「なら、私と付き合える?」

 答えは、決まっているはずだった。

「死ぬまでなんて言わないし、尽くしてくれとも言わない。ただ、普通の恋人みたいにデートして、キスして……そういう事をしてくれる?」

 可乃は俺の事を好きだろう、などと思ってはいなかった。

 それでも、そうであったとしても驚く事ではないとは思っていた。親しい男女で構成された少数の集団、特にその中で恋慕が生まれない理由もない。

 俺は、あくまで普通の感性を抜け出ない凡人だ。

 可乃を、遥香を、そして白羽を、異性として意識していなかったわけではない。それぞれが十分すぎるほど美少女の類に入る面々から、仮に告白されたとすれば、それが三人の内の誰であれ拒む事はないはずだった。

「可乃は、俺の事が好きなのか?」

「好き。大好き」

 意味のない質問に、真摯な、だからこそわかりきっていた答えが返ってくる。

「俺も好きだ、可乃」

 耐えられなかった。

 抱きしめ、意味の無い言葉を囁く。整理の付かない頭の中、俺は思考を放棄して感情に身を任せてしまっていた。

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