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終末的日常論  作者: 杉下 徹
三章  刹
30/54

3-5

「おぉ、志保じゃん」

「ん?」

 近くの牛丼屋からの帰り道、右手から聞こえたのは俺の名前で。

「……あ、広瀬か」

「おっ、志保で合ってたか。人違いだったらどうしようかと」

 わずかに枯れた声で笑う男は、中学時代の知人である広瀬だった。

「こっちの方こそ、人違いかと思ったけどな」

「そっか、志保とは中学以来だっけ」

 中学以来、とは言ってもまだ二年とそこそこ。その程度の期間で、しかし広瀬の外見は記憶の中のそれと大きく違ってしまっていた。

「高校デビュー、って奴か?」

 中学時代から特に大人しいタイプというわけではなかったが、それにしても、記憶の中の広瀬は、今のようにほぼ原色に近い真っ赤な髪などしてはいなかったはずだ。

「ん、いや、色々あってさ。そもそも、高校は行ってねぇし」

「まぁ、別に驚きはしないな」

「だよな、むしろこれで高校行ってる方がおかしいわ」

 共に少しだけ笑い、そこで会話が一度途切れる。

「志保は、高校行ってんの?」

「行ってる、ってほど行ってはいないな。一応、退学はしてないけど」

「へぇ、そっか、俺もそうした方が良かったかもな」

 そこで、もう一度会話が途切れる。

 あくまで知人程度の俺と広瀬の仲は、悪くはないが特別良くもない。会話するのに困りはしないが、どうしても阿吽の呼吸にはほど遠い。

 愚痴を吐こうか、とまた思った。偶然にも出会った、そしておそらくこれから先会う事も無いだろうこの知人に、適当に鬱憤を吐きつけてやるのも悪くない。

「そう言えば、志保って七星がどうなったか知ってるか?」

 葛藤は、やはり広瀬の一言に上書きされる。

「七星っていうと、可乃か」

「そうそう、七星可乃。ほら、なんか、あいつの家消えてたじゃん。志保、あいつと仲良かったし、なんか知ってるかと思って」

 あくまで興味本位、といった軽い調子で問うてくる広瀬にも、特に腹は立たない。親しくもない他人の不幸なんてものは、所詮はその程度のものでしかない。

「さぁ? あの豪邸が呑まれたのは知ってるけど、そこまでだな」

「そっか、じゃあやっぱり……」

 だから、可乃の現状について暗い想像をしているであろう広瀬に、事情を隠した俺が罪悪感を感じる事もない。

「そう言えば、下ノ瀬はどうしてる? たしか、高校同じだったよな?」

 話を逸らそうとして、広瀬の選んだ話題はむしろ失敗だった。可乃は【無】に呑まれてはいないが、彼方についてはそうは言い切れない。それどころか――

「何してるんだろうな。俺も彼方も、学校はまともに行ってないから」

 口から出たのは、またも嘘で。可乃の時とは逆に、俺は彼方がおそらく【無】に呑まれただろうという事を隠していた。

「あぁ、そう言ってたっけ。余所で会ったりもない?」

「最近だと、一週間前くらいに会ったか。お前と比べれば、全然変わってなかったけど」

 これは嘘ではない。彼方が俺達の目の前から姿を消してから、色々な事があったようでまだ一週間と少ししか経っていないのだ。

「俺と比べんなよ、一応自覚してはいるんだから」

 誤魔化すように真っ赤な髪を掻き、広瀬は笑ってみせた。

「まぁいいや。じゃあ、またな」

「ああ、また」

 特に意味の無い別れの言葉を残して、去っていく広瀬の背を見送る。俺の家のある方向へと歩いていった広瀬とは、だがこれ以上話す事もない。

「……行ってみるか」

 一度止まった足の向きを、ゆっくりと変えていく。

 爪先が指すのは、白羽の家。白羽がいつもの場所に顔を見せなくなってから、つまり俺が白羽と顔を合わせなくなってからは、一度も訪れていない場所。

 行けば、まず間違いなく白羽と会う事はできるだろう。

 ただ、それが怖い。

 白羽に起きた何らかの心境の変化を把握するのが、なぜか妙に恐ろしくて。歩いて数分も掛からないその場所へと、向かう事ができずにいた。

「…………」

 足が止まる。足首が回り、爪先が向きを変える。

 ただ足が止まった程度のきっかけでは、俺の背を押すには足りないらしい。自分の情けなさに、自然と口元が力なく緩む。

「――ゃっ!」

 瞬間、聞こえた短い金切り声に、表情が固まった。

 方向は右前方、発声者はおそらく少女。聞き間違いもあり得なくはないくらいの短さだったが、少なくとも俺には鬼気迫った悲鳴に聞こえた。

 迷いなく右の道に入り、声の元に向かう。この先にはちょうど白羽の家がある。どうしても、万が一を考えざるを得ない。

 見慣れた路地が視界の端を通りすぎていく。少しづつ近づいていく白羽の家に、様々な不安が入り混じり頭の中を掻き乱す。

 状況は、俺の手に負えるものなのか。こうして向かったところで、俺も余計な犠牲になるだけではないのか。打算と弱音を弾き始める思考は、しかしなぜか足を少しも止める事はなかった。今はとにかく、走るだけだ。

「……はぁ、なんだ」

 人影を探し、白羽の家を通り過ぎた先、ふと覗き込んだ小道には見知った顔があった。

「志保!?」

「さっき会ったばっかりだろ。何を驚いてるんだ、広瀬」

 すでに陽も落ち、暗がりと化した路地の中でもやけに目立つ赤髪は、紛れも無く先程別れたばかりの広瀬のものだった。

「……止めるのか? 別にいいだろ、女の一人や二人」

 逃げるか留まるかを迷うように落ち着きなく足を動かす広瀬の足元には、予想の通りに口にガムテープを何重にも貼り付けられた少女が倒れていた。

「まぁ、そうだな。気持ちはわかる」

 この状況を見て思うのは、そこまで来たか、という感想だけ。

 婦女暴行は、スリや強盗の類と共に、【無】の発生、世界の終わりが唱えられてから加速度的に増えつつある犯罪の一つだ。世界が終わるならば、その前に好きな事をしてしまえ、という短絡な発想は、しかし短絡ゆえに単純に正しくもある。

 問題があるとすれば、その理屈がすぐ近辺、知人にまで伝播するほど、世界の終わりが真に迫っている事くらいだ。

「だよな、そうだよな。もう、そういう時期だよな。そうだ、お前も一緒にやるか? 別に付けてやれば……」

 一言、同意を述べただけで、急に饒舌になって語り始めた広瀬の姿は、偏見抜きで醜く見えた。言っている事は理解できたその上で、感覚的な部分でそう感じる。

「口よりも、手に気を付けた方がいいぞ」

「な――っッ!!」

 忠告は、少し遅かった。

 地面に転がっていた少女は、口こそ封じられていたものの、手足は全くの自由で。位置的にも丁度股下、跳ねるように突き上げられた少女の拳ががら空きの股間を強打する瞬間まで、広瀬はロクに防御を取る事もできなかった。

 股間を抑えて悶絶する広瀬の顔面に一発、そしてもう一発拳を叩きつけると、少女は足早に俺の横へと駆け寄ってくる。

「……っ、天川くんっ!」

 テープを自ら無理矢理に剥がした下、周りを薄っすら赤く腫らした口で俺の名を呼ぶ。

「俺なんか当てにしないで逃げたらどうだ、南雲」

 その少女は、俺のクラスメイトであり彼方に想いを寄せる少女、南雲小夜で。こうして口元が露わになるよりも前から、その事には気付いていた。

「助けに来てくれたのに、そんな失礼な事できるわけないでしょ」

「俺は何もしてないだろ」

「それは、たまたま私が上手く逃げられたから」

「たしかに、随分と上手くやったもんだ」

 逃げろとは言ったものの、地面に蹲った広瀬はいまだ一向に起きる気配を見せない。この分なら、俺が顔を出さなくても結果は同じだったかもしれない。

「まぁ、後は警察に突き出すなり何なり好きにすればいい」

「別にいい、仕返しはしたし。それに、これ、天川くんの知り合いなんじゃないの?」

「知り合い、だからな。お前も広瀬も」

 あくまで『知り合い』程度の相手がどうなろうと、俺の知った事ではない。それは広瀬も、そして南雲についても同じだ。あくまで俺は白羽かもしれない少女の声に駆けつけただけで、その声の主が白羽でないなら関与するつもりもなかった。

「じゃあ、また。会う機会があれば」

「待って」

 その場を立ち去ろうと踵を返すも、後ろ手を掴み止められる。

「助けてくれたお礼ぐらいさせてよ」

「礼を言われる筋合いはない。けど、したいなら勝手にどうぞ」

「助けてくれてありがとう。それと、ごめんなさい」

 案外素直に頭を下げた南雲は、感謝の言葉と共に謝罪を口にした。

「私、天川くんはもっと冷たい人だと思ってた。ううん、思い込もうとしてた。全部ただの嫉妬だって、わかってたはずなのに」

 それはどこまでも純粋に、感情の高まりをそのまま声にしたかのようで。その言葉は紛れも無く南雲の本音でしかない事がわかったから。

「……やめてくれ」

 理解できない感情が俺を蝕む。気持ちが悪い、終わらせたい。

「あっ……天川くん!?」

 早足から駆け足、逃げるように立ち去った俺を、南雲が追ってくる事はなかった。

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