3.三条小夜子
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激動の一日が過ぎた。
翌朝、鏡を見れば目の下には隈ができている。
体はダルい。
だというのに心はとてつもなく清々しい。
自然と笑顔が溢れてくるほどに。
俺にとって、これまで学校というものは苦痛でしかなかった。
だが今日初めて俺は、自ずから学校に行きたいと思った。
いってきます、という快活な声を響かせて家を出る。
朝の日差しを浴びて自転車をこぐ。
空気もどこか清々しいように感じた。
見える景色が昨日までとはまるで違う。
世界とはこんなに美しいものなのかと感嘆させられるようだ。
「よーすっ、エロ犬!」
学校の下駄場で木野に声をかけられた。
もちろん木野の隣には永井がいる。
いつもは、こんな場所で会うことはない。
何故なら俺は極力こいつらと会わないようにするために、時間ギリギリ来るのがデフォルトだからだ。
「うおっ、お前オナニーしすぎだろ! 目の下の隈、凄いことになってんぞ! どんだけ昨日オナニーしたんだよ、このオナニスト!」
永井が俺の目の下の隈をめざとく見つけて、あげつらう。
だが――。
「まあ、ちょっとだよ、ちょっと」
俺は微笑みを湛えて、特に否定もすることなく受け答えした。
はっきり言って余裕。
余裕だ。
今日の俺はいつもの俺じゃない。
スーパー江口だ。
「……ふーん、そういう作戦ね」
何やら意味深な発言をする木野。
その後、永井とゴニョゴニョなにか話し始める。
どうせろくでもないことでも企んでいるのだろう。
まあ、どうでもいいが。
俺は気にも留めずに足を動かし、そして教室へと入る。
すると、その時だった。
「えーっ!!! マジかよ!!!」
木野が突然大きな声を出したのだ。
続いて永井も叫び出す。
「エロ犬!!! 昨日オナニーしすぎで徹夜か!!!!
おいおい!!! 目の下に隈ができてるじゃねえか!!!」
クラス中どころか、隣のクラスにも聞こえるような大声だった。
その声の主である二人は、叫び終わるとニヤニヤとこちらを見ている。
「ぷっ、エロ犬はまたオナニーかよ」
「あいつのエロは半端ないな」
男達の嘲笑。
「うわ、ほんと目の下に隈できてるじゃん」
「マジ、きもいだけど」
女からは蔑視。
「ちょっ、私、おかずにされてたらどうしよー!」
おまけにドブスが一人、とんでもない勘違いを発動している。
勘弁してほしい。俺にそんな趣味はない。
周りの女子も、ないない、と白い目でそのドブスを見ていた。
――と、ここでいつもの俺ならば歯を食い縛り、眉間にシワを寄せて、怒りに耐えるところである。
だが今日は違う。
俺は既にお前達とは別の次元に存在しているのだ。
「おいおい、木野も永井もやめてくれよ。お前達も毎日やってることだろ?」
ふっ。
完璧だ、完璧の返しだ。
「はあ? ふざけたこと言ってんじゃねーぞ、エロ犬!」
「オナニーしてんのはてめえじゃねえか!」
木野と永井が反論する。
その表情には俺に罵られたことに対する僅かな怒りが見てとれる。
とはいえ彼らはまだ平然としていた。
だからもう一撃。
「木野、お前の手からイカみたいな臭いがしてるのに?」
「えっ!?」
木野はギョッとして自身の手の臭いを嗅ぐ。
だが、そんな臭いはしない……いや、もしかしたら本当にしてるかもしれないが、少なくとも俺の位置からは嗅ぎとれない。
やがて、手の臭いを確認した木野が顔をこわばらせて俺に怒りをぶつける。
「てめえ、嘘ついてんじゃねえ! 臭いなんてしてねーじゃねえか!!」
だが、既にお前は俺の術中にハマっている。
永井を見てみろ、あちゃーって顔になってるぞ。
「ふっ、お前の行動が何よりも決定的なんだけどな」
木野はビビって手の臭いを嗅いだ。
自覚のある証拠だ。
オナニーしたっていう自覚がな。
「ちょっ、木野もかよ」
「うそー、きもっ」
クラスの男女から嘲笑と軽蔑の声。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!? こ、こんなん、あんなこと言われりゃ誰でも手の臭いくらい嗅ぐだろうが!!!!」
逆ギレする木野。
うぷぷ。俺は心の中で笑いをこらえながら、必殺の言葉を口にする。
「焦んなよ、顔真っ赤だぞ?」
これぞ友達の居ない俺が、日夜ネット掲示板で鍛え抜いた煽り技術だ。
木野の顔が本当に茹で蛸のように真っ赤になる。
そして助け船を出すのは永井だ。
「てめえ、自分がオナニストだからって――」
「はいはい」
俺は永井の言葉を最後まで聞かず、もうどうでもいいという風な感じで席についた。
クラス中からクスクスとした笑い声が聞こえる。
それは俺ではなく木野達への嘲りだ。
ぷっ、ざまあ。
俺が本気を出せばこんなもんよ。
俺はもう以前の俺じゃない。
一皮剥けたんだ、心も体もな。
俺は教科書を出し予習を始める。
昨日はエロエロ……じゃなかった、色々と忙しくて何もできなかったから、僅かな休憩時間も無駄にはできない。
なんてったって進学校。
ほんの少しの油断が、成績に響き、将来に影響する。
終業時間に向けて、順調に時間が過ぎていく。
木野と永井が絡んでくることもなく、感情を乱されない環境というものが、どれだけ勉強に有意義であるかをよく知ることができた。
なお、三条さんとは同じクラスでありながら、目を合わせることはしない。
何故ならば、昨日の帰り際のこと――。
『あの、このことは内緒に……』
『あ、うん、そうだね。うん、その方がいいよ』
『あの、それから教室では……』
『わかってるって。教室では他人の振りをするから大丈夫だよ』
『うぅ……すいません、私に勇気がなくて……』
という、なかなかに心臓にグサッと来る会話があった。
彼女は教室では話しかけないでほしいと言っていたのだ。
いや、確かにオナニー星人とあだ名される俺と話してたら、彼女もオナニー星人に間違われるだろうから、致し方ないことではある。
俺としても別に構わないと思った。
あの清純可憐な三条さんがオナニー大好き人間であるということを知っているだけで、俺の心は十分に満たされている。
なにせ、彼女は全校生徒の憧れの的なのだ。
ふふふ。
まるで、テレビの中にいるアイドルの真実の姿を知ってしまったような気持ち。
アイドルだって、おしっこもすればおならだってする。
美しいものが、汚いものを出すという背徳感。
俺は知っている。
彼女の秘密を。
ふひひ、という下劣な思考が副交感神経を刺激し、血流をある一点に集めていく。
おっといけない。
俺は目覚めてしまったJr.を隠すために足をクロスに組んだ。