1.三条小夜子
早朝、俺は真新しいブレザーに身を包み、自転車のペダルをこいでいた。
季節は春である。
不意に気持ちのいい風が俺の頬を撫でていく。
その風がどこか桜の匂いを感じさせたのは、近くで桜が咲いているのか、それともこの春の陽気の中、俺の心が弾んでいるせいなのか。
おそらくは後者だろう。
なぜなら今日は入学式。
俺のこと江口健は、本日より、滝沢守高校に入学するピカピカの一年生なのだから。
【第一話 その日僕らは出会った】
1
緊張の中で式は終わり、今は教室に戻って担任教師が来るのを待っているところである。
皆、早くも友達ができたのか、教室内はワイワイガヤガヤとした楽しげな声に溢れて騒がしい。
すると俺にもお鉢が回ってきたのか、後ろから肩を叩かれた。
俺は少しばかりの期待と共に振り返る。
そこにいたのは二人の男子だ。
「よっす。俺、後ろの席の木野久吾。よろしく」
まず挨拶したのは、俺の後ろの席に座る男。
髪型はソフトモヒカン、顔は大きく、体はがっしりとしているが、背は小さいように見える。
見える、というのは椅子に座っているためのこと。
もしかすれば、座高が低いだけで足が物凄い長い長身の男かもしれない。
「あ、お、俺は江口、健」
思わずどもってしまった俺の自己紹介。
かなり恥ずかしい。
「ちょ、緊張しすぎ。あ、俺は永田孝輔。ちなみにこいつと俺は“オナ中”ね」
次に自己紹介をしたのは、木野君の席の傍に立っている、眉にかかるくらいの髪を中分けにしたスラリとした感じの男だ。
身長は170センチ半ばといったところか。
さて、これで互いの自己紹介が済んだわけであるが、ここで俺は、ある単語について首をかしげざるを得なかった。
それは――『オナ中』。
オナ中……?
はて、なんだろうか。初めて聞く言葉である。
オナ中……。
オナ、オナ、オナ。
俺が知っている『オナ』といえばあの言葉しか思い浮かばない。
――オナニー。
言わずもがな、性的欲求を解放する聖なる儀式だ。
なるほど。
『オナ』はオナニーか。
だとすると『中』とはなんだろうか。
俺は少し考えて、ハッとした。
――中毒。
つまり『オナ中』とは、オナニー中毒のことである。
……。
えええええええ!?
なんでオナニー中毒なんて告白しちゃってるの、この二人!?
そりゃ俺だってオナニーは毎日一回はしてるし、休みの日は三回してるけど、だからって……。
と、ここまで考えて、ふと思う。
もしかして、これは普通のことなんじゃないか、と。
はっきりいって俺は、中学の頃、あまり友達が多い方ではなかった。
元々対人関係が苦手で、ネットという電子の世界へと旅立っていた男である。
勉強以外の時間は全てパソコンと向き合っていたといっていい。
だが、やはり一人は寂しかった。
俺だって人並みの青少年なのだ。
女の子と話したい、ふれあいたい、チュッチュしたい。
というわけで一念発起、地元からは少し離れた進学校に入学したのである。
胸には、高校デビューを夢見て。
だというのに、いきなりの難所がやって来た。
流行に疎い俺の前にそびえ立つ言葉の壁。
それは『オナ中』ことオナニー中毒。
え、なに、これが普通の高校生の会話なの?
正直、愕然である。
知らなかった、高校生の会話がここまで性に乱れていたなんて。
おそらく、おおっぴろげに性を語るのが今のトレンドなんだろう。
想像するのは、美少女高校生二人の会話である。
『ねえねえ、昨日何回オナニーした?』
『あたし、5かーい。ベッドでしてる途中で寝ちゃったから、朝急いでシャワー浴びたよー』
『うわー、平日に5回とか“オナ中”すぎでしょ。あたしでも3回なのに』
うん。
最 高 じ ゃ な い か 。
というわけで俺は、自身をオナニー中毒と公言する彼らに、どう返事をすべきなのだろうか。
いや、考えるまでもない。
オナニー中毒を告白することが当たり前ならば、やはり俺自身もオナニー中毒であると言うべきではないだろうか。
同じ価値観の共有こそが友達の条件。
正直、オナニー中毒なんて名乗りたくはない。
だって俺はオナニー中毒でもなんでもないもの。
だが、ここは恥を忍んででも、オナニー中毒者になりきるべきだと思う。
俺は腹をくくった。
そして、清水の舞台から飛び降りるかのような決意をもって口を開いた。
「お、俺もオナニー中毒だよ。き、昨日なんか5回もオナニーしたんだから」
どうだ、ちゃんと言えてるだろうか。
しかし佐野君と永井君は、鳩が豆鉄砲くわえたような顔をしている。
しまった、流石に5回は多すぎたか!?
「ごっ、ごめん嘘! ほ、本当は3回しかオナニーしてないんだ!」
俺はちょっと大きめの声で訂正する。
これで、わかってくれたかな?
すると――。
「ぶ……」
ぶ?
「ぶわはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!」
木野君がまず大笑いし、釣られて永井君も大きく口を拡げて笑い始める。
「お前っ! まさか、オナ中をオナニー中毒と間違えたのか?!」
「つーか、言い直したオナニー回数が一日に3回!! どんだけ変態なんだよ!!」
この木野君と永井君の反応。
間違いない、俺はやってしまったのだ。
「あ、あ、ご、ごめんっ! い、今のう、嘘……っ! 嘘だから……!」
吃りまくって訂正する。
喉が錆び付いているかのようにうまく声が出ない。
「おいおい、キョドりまくってるじゃねーか」
嫌らしい笑みを浮かべて俺を嘲る木野君。
さらに永井君がクラスの皆に向かって叫ぶ。
「皆さーん! ここにいる江口健くんは一日にオナニーを3回するそうでーす! 江口くん曰く、オナニー中毒なんだそうでーす!」
結果、クラスは爆笑の渦に包まれた。
もっとも、馬鹿みたいに笑っているのは下世話な話が大好きな男子のみ。
女子はクスクスとした嘲笑を漏らす者もいたが、白い目で見る者といまいち話についていけない者が大半だった。
「ちがっ、違うからっ! そ、そんなんじゃないからっ!」
笑い声が止まぬ中、俺の否定の声は誰にも届くことなく、むなしく教室に響いた。
こうして俺の高校デビューは、失敗どころか奈落の底へと転げ落ちるがごとき悲劇の始まりへと姿を変えたのである。
それからの学校生活は地獄だった。
俺は江口健という名前からエロ犬なんていうあだ名をつけられて、毎日からからかわれてばかり。
孤独よりも辛い日々。
完全にいじめといっていい。
しかし、彼らは俺に手をあげることはなく、ただ笑い者にするだけ。
それにオナニー発言をしたのは事実であって、そんなことを誰になんと相談すればいいのだ。
また、もし教師なりに相談しても何も変わらないと思う。
いじめには明確な基準がない。
軽い悪ふざけ。むしろ友達としてのスキンシップととられるのがオチ。
それどころか教師に訴えたことで、もっと酷いいじめに発展する可能性だってある。
そもそも教師には信頼が持てなかった。
ニュースでみるいじめ自殺の加害者には、大体が教師も含まれているからである。
だから俺には耐える以外に道はないのだ。
そして一年が過ぎ、二年生の進級初日。
「じゃあ順に自己紹介をしてくれるかな」
俺の席は前から三番目。
すぐやって来た自己紹介の順番に、俺は椅子から立ち上がると、新しいクラスの皆に向かって口を開く。
「江口健といいます。趣味は――」
「オナニーでーすっ!!」
割り込んできたのは、俺の二つ後ろの席の木野。
次いで、ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃ、とクラスの男子が馬鹿みたいに口を大きく開けて笑う。
くそっ、木野死ね。
進路であいつが文系を選ぶって言ってたから、俺は理系を選んだのに、なんであいつが理系のクラスにいるんだよ。
「あだ名はエロ犬でーす! オナニー中毒でーす」
今度は永井。
これにより、また爆笑が巻き起こる。
死ね永井。地獄に落ちろ。
てめえも文系にいくとか言って、俺を騙しやがって。
「おいおい、江口。そのなんだ、ほどほどにしとけよ? やりすぎると馬鹿になるぞ」
男性教諭の一言でまたまた爆笑するクラス。
バカはてめえだろ、このアホ教師。
さっさと木野と永井の屑コンビを止めろよ、タコ。
――こうして学年が変わろうとも俺の悲惨な日々が終わることはなかったのである。
2
朝、ピピピピピという目覚まし時計のデジタル音が鳴り響き、俺は起床する。
途端、途方もない憂鬱に襲われた。
学校に行きたくない。
そんな負の感情が俺の心を縛り上げていたのだ。
しかし、家族に心配をかけるわけにもいかない。
結局俺は、何事もないように振る舞い、今日も学校に登校するしかないのである。
自転車に乗り40分。
普通にペダルをこげば30分で着く距離ではあるが、内なる俺が学校に行くのを拒否しているため、自然とその速度は遅くなる。
頬を撫でる風は一年前とは違い、どんよりと淀んでいるように思えた。
やがて学校に着くと、下駄箱で靴をスリッパに履き替えて教室に向かう。
この時、俺は孤独感に苛まれる。
駐輪場、下駄箱、そして廊下。
多くの生徒達がそれぞれ誰かしらと挨拶を交わしている。
だが、俺にはそんなもの存在しない。
結局は中学の時から変わらない孤独。
しかし孤独ならばまだいい。
「よう、エロ犬、昨日も自家発電に励んだか?」
教室に入って俺にかけられた第一声がこれだ。
犯人は木野。
男子からは爆笑が巻き起こり、女子からは汚物を見るような軽蔑の目を向けられる。
そして、今日もまた地獄の一日が始まるのだ。
課業開始から課業終了まで、木野と永井は隙さえあれば俺にちょっかいをかけてくる。
なにがそんなに面白いのか。
いや、確かに面白いのだろう。
彼らは俺を笑い者にすることで自己欲求を満たしている。
クラスの笑いをとることで満たされる自己顕示欲。
俺を下、自身を上とすることで得られる自尊心。
それらはまるで麻薬のように彼らを快感へと導くのだ。
無視すればいいと人は言うかもしれない。
しかし、人間はそんなに単純じゃない。
確かに無視しようと努めることはできる。
だが、そこには怒りや羞恥を始めとした様々な感情があるのだ。
彼らは俺をよく観察し、たとえば怒りに震える俺を、たとえば羞恥に顔を赤くする俺を、新たな笑いの種として利用するのである。
そして16時を回った頃、屈辱と忍耐と殺意にまみれた全授業が終わり、漸く俺の心は少しばかりの安息を得る。
敵しかいないクラスに長々といる意味もないので、俺はさっさと下駄場へと向かった。
靴が入っている開閉式の下駄箱、その扉を開ける。
すると見慣れないものがそこにあった。
あれ? なんだこれ、とそれを手にとる。
それは――手紙。
はて、下駄箱に手紙とくれば……。
ドキリとした。
胸が段々と高なっていく。
だがそれはすぐに収まり、平静へと戻った。
どうせまた、木野と永井のイタズラだろう。
家に帰ったら、また死亡予言ノートにアイツらの名前を書かないとな。
そんなことを考えながら、俺は何気なく、手紙の封を切って中を見た。
『放課後17時に家庭科室で待ってます』
手紙には、やけに達筆な字でそう書いてある。
俺は、うん? と疑問に思った。
普通いたずら目的で呼び出すなら、もっと女の子っぽい文字で書くはずだ。
木野達の仕業じゃないのか……?
いや、裏の裏をかいて、わざと達筆な字で書いたのかもしれない。
おそらく女の子のような字で書いたら、逆に怪しまれると思ったのだろう。
ズル賢いあいつらの思い付きそうなことだ。
「お、エロ犬さん、今お帰りっすか? やけに早いっすね」
木野の吐き気をもよおすような憎たらしい声。
俺は反射的に手紙をポケットの中にしまった。
すると一緒にいた永井が言う。
「ばっか、エロ犬さんは一日に10回は抜かないといけないから、一分たりとも時間を無駄にはできないんだよ」
『ぎゃははははははははははははは!!』
まだ人の少ない下駄場で大笑いする二人。
くそ、死ねよ。
あーあ、クラスで異世界に転移して、俺だけチート能力もらって木野と永井をボコボコにしてやりてえ。
俺は昨日読んだネット小説の主人公に自分を当てはめて夢想する。
とはいえ、そんなこと実際にありえるわけがない。
俺は知能の低い二人を無視して校舎を出た。
その瞬間、ものすごい勢いで走って駐輪場へと向かう。
奴らの目の届くところにいては笑いの種にされるのがオチだ。
かといって、やつらの前で必死に逃げるような真似はさらしたくない。
だから、見えないところで全力疾走。
駐輪場にたどり着いた俺は、一切無駄のない素早い動きで自転車に乗る。
自転車乗車選手権なんてものがあれば、チャンピオンになれるかもしれない。
そして学校を出て、自宅へと自転車を走らせる。
今日もやっと終わった。
自転車のペダルをこぎながら、俺は一息つく。
そこで、ふとあることに気づいた。
木野と永井の二人は帰ろうとしていた。
じゃあもしかすると、俺のポケットにある手紙は奴等のいたずらじゃないのか?
俺はペダルをこぐのをやめて、立ち止まる。
佐野達の家は反対方向。
もう、学校を出ていることだろう。
俺は手紙をもう一度取り出した。
達筆な字だ。
俺は考える。
このまま家に帰ってもいい。
また明日も馬鹿にされる日々が続くだけだ。
じゃあ逆に、この手紙の場所にいってみたら?
もしかしたら木野じゃない別の誰かのいたずらかもしれない。
でも、いまさら馬鹿にされることの一つや二つ、なんだっていうんだ?
自然、俺は学校に向けて自転車のペダルをこいでいた。
校舎に入り早足で家庭科室に向かう。
――そこに彼女はいた。
背中にかかる美しい艶やかな黒髪。
ドアを開けると彼女は振り向いた。
長いまつげの大きな瞳が、俺を見つめる。
その肌は透き通るような純白で、まるで雪のよう。
筋のとおった、高すぎない鼻に小さな顔にちょこんと乗った口。
おそらくは学校で一番美しい少女。
名前を三条小夜子。
俺のクラスメイトであり、お嬢様と噂の女子生徒だ。
「あ、あの、江口さん、来てくださったんですね」
「あ、う、うん」
ヤバイ、緊張する。
何故、彼女がここにいる?
いや、今の会話から察しろ。
明らかに彼女が手紙の送り主だ。
「……」
「……」
沈黙。
僅かな時間がまるで終わりのない永遠のように感じる。
「あ、あの」
声をかけたのは俺。
「は、はい!」
上ずった声を返す三条さん。
「その、用事は……」
俺が尋ねると、三条さんは顔を赤面させて下を向く。
おい、これはもしかしてもしかするんじゃないのか?
来てよかった……っ!
万歳!
万歳、俺!
生まれてきてよかった……っ!
「ちょ、ちょっと、待っててください」
そう言って彼女は扉の方へと行く。
俺は嫌な予感がした。
まさか、家庭科室の外へ誰か別の奴を呼びに行くつもりなのか?
彼女もいたずらの共犯なのか?
俺をはめたのか?
三条さんへの疑いが募り、背中には嫌な汗が流れ、いつ発動するかもわからない落とし穴の上に立たされている心地になった。
だがそれは、杞憂。
三条さんは、扉の鍵をガチャリと閉めただけだ。
彼女はまず前の扉を閉め、次に後ろの扉を閉めて、俺の方へ戻ってくる。
途中、俺と視線が交差し、彼女は恥ずかしそうに目をそらした。
そんな他愛もない仕草が俺の心をどうしようもなく高揚させ、俺はゴクリと息を飲む。
「その私、その……」
用件をなかなか言わずに、何やら手をもじもじとさせている三条さん。
まどろっこしい、と普通なら考えるかもしれないが、相手が三条さんなら話は別だ。
いつまでも見ていたいと心から思う。
そして何より、彼女の用件がわかっているからこそ、俺には待ち続ける余裕があった。
その用件とは――ずばり、告白である。
下駄箱の手紙。
二人きりの家庭科室。
鍵まで閉めた彼女。
これはもう愛の告白以外になにがあるというのか。
「えっと……」
ああ、かわいいなあ、もう。
うんうん。
告白には勇気がいるもんね。
しょうがない、ここは俺から――。
この時俺は、彼女の小さく可愛らしい口から発せられる言葉は、天使の歌声のように、なによりも美しく神秘的なものである――なんて思っていた。
しかし。
しかしである。
「あ、あの、私! 実は、オナニー中毒なんですっっっ!!!」
「うんうん、俺も好き……って、ええええええええええええええええええええええええええええ!?」
えええええええええええええええええええええええええええええええええええ!?
――こうして、オナニー中毒の少女と別にオナニー中毒でもなんでもない青少年が出会った。