1-5話 「不穏」
ふとカレディンの鼻が異臭を嗅ぎつけた。その臭いは段々強まっていき、それが人間の本能的嫌悪感を煽るものであることだと分かるほどになると同時に教室の引き戸が開き、小汚い修道服の男が姿を現した。男は無造作に繁茂した髭を摩りながらにんまりと自己紹介した。
「どうも、私は今日付で露草高校の専属祈祷師兼保険医に就くことになったグリゴリーって者です」
カレディンのソカッス特有の嗅覚がこの男の口臭に強く反応した。男からは腐ったネズミの肉の臭い(カレディンは実際かいだことがない)と臭い消しにしては微かな女物の香水の臭いをかぎ取った。
「はあ、それで何かご用件でも?」
アレクセーエフはこの不審者とも教師ともつかない男に困ったように対応する。
他の一同も前者に票を入れているようで、崩した姿勢だった。
彼を教職だと言うのなら鹿も馬と認めなければならないのだから当然だ。
「いやなに、まだ教員方としか顔合わせしてませんもんで、今の間に生徒方にも挨拶しとこうってだけですよ。これから忙しくなるんでしょ?げしし」
「げしし?」
アレクセーエフが聞き返した。男は応答する様子もなく
「会議でしたらお構いなく続けてどうぞ。私はこれで失礼するんで。げしし」
不気味な笑い声を残して去っていった。
カレディンは終始、男を警戒した。臭いからして悪印象だったし、女子を見る目が異常だったのだ。
一同は顔を見合わせた。みんな「何だったんだアイツ」と顔に書いてあった。
予定外のことで壊された雰囲気を取り戻すべくアレクセーエフは大声で言う。
「では第一回戦略ブリーフィングを終了致します。解散」
そう告げられると3人の軍司令官達は足早に教室から退出していった。
残った軍司令官はブルシーロフだった。カレディンも彼女に付随して残る。
「解散だよ、二人とも」
「そう言うな。後片付けを手伝ってやる」
「いいのに」
結局3人で机を隅に寄せ、扇風機をダンボールに戻し、ついでに床の埃を掃除することになった。
「身の丈に合わない立場のせいかな。最近胸焼けの頻度が高いなぁ」
アレクセーエフが扇風機のコードをコンセントを外し、それを大きなファンと胴体を結ぶ長い首に巻き付けながら言う。
「あまり耐えるな。ストレスを貯め込むくらいならビシッと言ってやれ」
ブルシーロフは日の差し込む窓際へ机を椅子ごと押しながら答える。机はツヤツヤした表面の木の皮が大きく剥がれ、2層目のいかにも木材であるという肌触りの素朴な木目が覗いていた。
「なかなかそうもいかないんだよね。先生方の面前だと畏まっちゃって強く言えないし、かといってみんなにそのまま強要するのも悪いし、言い訳ばっかになっちゃて…」
アレクセーエフは愚痴をこぼし、扇風機をダンボールに詰める。
ダンボール箱には新品だった頃の扇風機の写真がプリントされており、それがいかにも当時最先端技術だと言わんがばかりに様々な機能が惜しげなく書かれていた。
だが10年という歳月がそれらの妄言を色あせて見せた。
扇風機は外気に触れて今が夏であると知る。埃を被って眠っていた自分にこの部屋同様、再び活躍の機会が忙しなく与えられるだろう事に心をはせて再び暗闇へ戻る。
機種転換という運命が待ち受けているとも知らずに…
「だが自分の作戦には自信があるのだろう」
カレディンの引きずる机も一見すると、木星の表面よろしく大小の赤斑が渦巻いているが、その中に小さくあいあい傘が刻まれていた。両名は結ばれたのか否か、この学校にまだいるのか否か、異性同士なのか否か、それは誰も知る由もないことである。
「もちろん!ガチリア方面での作戦は私が念入りに作り上げたつもりです」
アレクセーエフの声には先ほどまでの気弱さがなく、自信がこもっていた。
彼女はは戸棚の下段の広いスペースにダンボールを押し込める。
「だけどそれとこれとは話が別です。私は人をまとめるのが得意じゃない」
「レンネンカンプをうまく丸め込んだだろう?」
彼女らの会話を片耳に挟みつつカレディンは黙々と作業を続ける。
他の机も探そうと思えば必ず欠陥が見つかった。
芸術家の卵が描いたのかというぐらい、立体的なアートが隅に刻んであったり、机一面にデカデカとグラフィティがあったり。なかには椅子に醜い顔をした教師らしき男性の顔が描いてあったり。おそらく持ち主は「お前なんか屁でもねぇ」と尻をついて、優越感に浸りながらこの男の授業を聞いていたに違いない。生徒指導部にバレたらオレシェク保養所で1ヶ月の“自習”コースは確定である。
一番印象に残ったのは『革命万歳!教師と学校に屈するものか!』と大きく彫られていたものだった。
持ち主がこの後留年の上、シビリアの“自主的”合宿で“再教育”を施されたのは確実だろう。
何故 “”がつくかというとその実態が名目と真逆のいかがわしいものだからである。
これらの机はこの学校の様々な背景を物語っていたが、それらが異口同音にしていたのはこの教室が掃きだめと化しているということだった。
「あれは予期された行動だったし、逆ギレ気味だったから…。権力を笠に着た物言いで引っ込ませるつもりだったし、変なプライドで強硬になっちゃうし…サイテーだよね」
自虐的な言葉が耳を刺す。カレディンが彼女に何らかの共感を覚えたためだ。
よって自然と口が動いた。
「先輩、その…僕が言うのもなんですが、そうゆう事態になって結局自分の人間性を卑下するくらいなら、まず勇気を持って先生方に自分の主張を言うべきじゃないでしょうか」
それまで寡黙だった者が突然言葉を発するものだから、アレクセーエフは驚く。
「物腰の柔らかいところが先輩の美点ですが、自分を見失わないでしっかり主張すべきです。」
続けざまに、クサいなと思いつつ正論っぽいことを言う。
そう言う間に全ての机を教室の隅へ置いた。続いてほうきを手に取る。
「言うじゃないか」
ブルシーロフが笑って応える。そして彼女は彼らを二人きりにしようという配慮|(とカレディンには思えた)からか、バケツを持って水をくみに廊下まで出て行った。この教室は水道から最も遠い隅っこにあるため、往復は長くなるだろう。
そして閉鎖的空間で他者と一対一という状況はカレディンの最も苦手とするものだった。
なんとか言葉を投げかけて気まずい沈黙を打破せねばならないのだが、接点がないため話題がないのだ。
ブルシーロフ先輩となら最近話せるようになってきた。ほとんどの場合、彼女の語りになるのだが…。
短い沈黙を挟んでカレディンはとりあえずこの場で一番適切と考えた言葉を言う。
「差し出がましいこと言ってすいません」
「いいよ、いいよ。そのとおりだと思うから」
彼女もこれを契機に話し始めた。
「カレディン君だっけ?なんか不思議だよね」
「不思議?」
一体自分の何を不思議と言うつもりなのだろう?やはりソカッス故に異質と思われているのだろうか。
「こう、私達学生ってさ、自分を押し殺して盲従してなきゃなんないから。私なんかは特にそうだけど、カレディン君は同じようでいてどこか違う」
カレディンは首をかしげる。いまだに彼女が何を言いたいのか分からなかったのだ。
彼女は「うまく言えないんだけどね」と前置きをしてから
「ブルシーロフさんにも自分から恭順している感じだし、見栄を張らない一方で意志がはっきりしていて、なんか面白いな、なんて…」
なるほど彼女もカレディンに共感を得てその上で違うと言っているのだ。
誰かに無理矢理服従させられている訳でもなく、有象無象に溶け込むでもなく紛れている異物。その上意志が強い。とそういうことだろうか。
身勝手な解釈ではあるが、彼女はそう評価しているということになる。
ふと、ほうきが床と衝突する音がした。
見るとアレクセーエフが自らの胸元を掴み、その白みがかった茶褐色の制服に大きなしわを作りながら、息を荒げていた。
「大丈夫ですか!?」
カレディンは彼女のそばまで駆け寄る。
当然のことながら彼女の顔は青ざめている。いかにも苦しんでいる人のそれだ。
そしてカレディンも適当な医療法を知らない。下手なことをすればもっと悪化する危険もある。
だがただ傍観するだけともいかず、彼女を保健室まで連れて行こうと決めた。
他力本願だがベストな手段だと判断した。しかし彼女は断った。
「いや、平気。結構しょっちゅうある症状だし、一時的だからそんな苦しくないから…」
まさか彼女が言っていた胸焼けの頻度が多くなっているとはこのことか。
「無理しないで下さい!よくあるなら尚更です。ひどくなる前に診てもらった方がいいですって」
「本当にただ心労がたまっただけだから、すぐ治るって…だからお願い」
幾分かは良くなったのかあるいはそう見えるだけなのか、落ち着いた呼吸で淡々と喋る。
そうかと思えば
「気を遣わないで!」
と啖呵を切る。
それがとても重い含みをもった鋭い響きだったがために、思わず一歩退いてサーベル一本分の距離をとる。もちろん刃はこちらに向いている。
何とも言えない沈黙が到来した。アレクセーエフは発作が治まるとほうきを拾い、作業に戻った。カレディンももう保健室へ連れて行こうとは考えなかった。やはり彼女に倣ってほうきを手にし、何事も起こらなかったかのように振る舞った。
そこにブルシーロフが戻ってきた。
「なんだ、すっかり仲良く談笑しているかと思ったんだが、ずいぶんこぢんまりしているな」
やや呆れた口調で言いつつ、水の入ったバケツを床に降ろす。
「ああ、うん。ブルシーロフさんもありがとう。あとは水拭きだけだから一人で出来るので。お二人とも帰って結構ですよ」
アレクセーエフは早口で厄介者を遠ざけるように言った。
「随分と性急だな。躊躇するな、まだ手伝ってやるさ」
「いいんです。お二人ともお疲れ様でした」
先ほどよりも語調が強くなった。
「……わかった。だがあまり無理することはないぞ」
流石にブルシーロフも折れたようで、忠告を言い残すとカレディンを連れて去っていった。