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親孝行って?

「あっ、先生。おはようございます」

「おおっ、竹下か。おはよう」

 駅に停車した電車に竹下は静かに乗車した。先に電車に乗っていた石川の姿に気がつき、声をかけてきた。その声はどことなく寂しそうだった。

 朝六時。通学時間にはまだ早く、電車の中は空席が目立っている。

 車窓から見える風景は田植えを終えたばかりの田んぼが広がっている。農業用水を引き入れた田んぼには春の日差しが反射して鏡のように輝いている。田んぼの先に見える遠くの山並みも、太陽の光が木々の緑を鮮やかに映えさせる。

 石川はいつもと同じこの時間の電車に乗り、勤め先である高校へと出勤している。

 席は空いているが、吊り輪につかまり立っていることが多い。学校では教室と職員室の往復だけで、大した運動をしていない。電車で立っているのは体力作りの一環と考えている。声をかけてきたのは、石川が担当する学年の女子だ。

 石川は学生服を見て自分が通う高校の学生だと分かった。ショートの髪に赤い眼鏡。その様相の子は竹下しかいない。もし学生服を着ていなく、コンタクトレンズにしていたら、だれだか分からなかったかもしれない。

「早いな、朝練か?」

 竹下は顔を横に振った。石川は、いままでに通勤電車の中で学生に会うことは無かった。ここから二駅先の学校まで約十分。六時三十分には着く。いつも授業前の講義確認のためこの時間に学校へ向かっている。学生に会うとすれば朝の部活動ぐらいしか思い浮かばない。

 竹下は石川のつかむ吊り輪のとなりの吊り輪をつかんで横に並んだ。動作はゆっくりしている。女子高生特有のわいわい騒ぐ活発な態度はない。竹下の目は石川に合わせることなく、窓の外へ向かっていた。

 竹下は小さい声でつぶやいた。

「昨日、お母さんと喧嘩しちゃって……」

 竹下の横顔が沈んでいた。

「喧嘩か……」

 石川は言葉を選らんでいた。

「どんな?」

 これが今掛けられる言葉だった。早朝から学生と悩みについての話をするなど想定に無かった。言葉が見つからない。

 竹下は、静かな口調で話し始めた。ひとりで悩みを抱えているのは辛い。誰かに聞いて欲しい。そんな気持ちが口を開かせたのかも知れない。

「昨日数学のテスト返してもらったでしょ。私バカだからよく分からなくって。最悪の点数だったの。それで怒られて。そこで謝ればよかったのかも知れないけれど、私も意地になって、口聞かなくなっちゃって。頭にきたから部屋にこもって、ゲーム始めちゃって。そのことでまたお母さんに怒鳴られて。むしゃくしゃしちゃったからそのまま寝ちゃって。そしたら朝早く目覚めちゃって。お母さんに会うと文句言っちゃいそうで……」

 石川は竹下の途切れた言葉をつないだ。

「それで、今日朝早いのか」

 竹下はゆっくりうなずいた。竹下の目線はまだ外を見ている。石川は竹下に合わせて外に目線を移した。緑の山から少しずつ住宅地が広がっていく。

「竹下だって受験勉強はしっかりしたんだろ。そうじゃなければ今その制服は着ていないはずだからな。自分をバカというな」

 やさしい口調だった。竹下はそっと石川に振り向くと、強張っていた頬が一瞬ゆるんだ。

「先生って、先生何年目?」

 目線を感じて石川も竹下に振り向いた。

「教員の免許取って一年見習いやってたから、先生になったのは今年からだ」

 竹下は興味深く聞いてくる。

「それじゃ私と同じ一年生なんだ」

 石川は答えた。

「先生一年生といういとならそういうことかな」

「大学出て二年目ってことでしょ? ていうことは、今二十四歳?」

「今年で二十五だ」

「ふーん。髪型ダサイからもっと年取ってると思ってた」

 竹下の目が石川の髪を追っていた。短髪にそろえられ固めてある。

 石川はちょっと顔を引いた。

「なんだよ。教員がちゃらちゃらした髪型に出来るわけないだろ」

 竹下の顔に笑顔が見えた。石川はそんな竹下を見て一緒にほほえんだ。

 竹下は目線を外し、窓の外へ目線を向けた。また寂しそうな顔に戻っていた。

「最近私、お母さんに素直になれていない。ぎくしゃくしちゃって。本当はいろんなこと話したいんだけど、何か話すとすぐ喧嘩になりそうで」

 また言葉がとぎれた。石川はつないだ。

「お母さんだって心配なんだよ」

「本当かな。そうは思えないんだけど……」

 今度は言葉をつなげられなかった。竹下の様子を見守るしかできない。

 竹下は自分の言葉につなげた。

「親孝行できてないなって思う……」

 竹下の優しさが伝わってくる。石川はその言葉には答えられる。

「そう思うだけでも親孝行だと思うぞ」

 電車は減速を始めた。駅に近づいたからだ。窓の外は田んぼから離れ住宅街へと変わっている。駅構内に進入する。ホームで待つ人はまだ少ない。

 竹下は石川の答えに沈黙していた。納得がいかないわけではない。でもそれが親孝行だと言われてもよく分からない。竹下はそう思いながらホームに並ぶ人々を漠然と見ていた。

 停車した電車の扉が開く。ホームに並んでいた人たちが乗り込んでくる。空いている席にみんなが座る。それでもまだ席は空いている。扉が閉まり、出発を告げる笛の音を耳に響かせて、電車は動き出した。

 石川は沈黙を破るように話しかけた。

「親孝行ってなんだと思う」

 静かだった竹下は、石川の言葉を待っていたかのように話しを返した。

「親の言うことを聞いて、家の手伝いとか、期待する立派な人間になるとか」

 竹下は、石川の話に耳を傾けて自分の考えを素直に話している。そんな姿勢を石川は快く感じた。

「まー、そうなってくれれば親もうれしいだろうな。でも、それは親孝行とは違うと先生は思う」

「じゃーなに」

「親孝行がはっきりしなければ、逆のことを考えてみればいいんだ」

「逆って?」

 竹下は頭をひねった。

「親不孝ってなんだと思う」

 少し考えた。

「やっぱり、言うこと聞かないとか。勉強しないとか」

 石川は首を横に振った。

「それはただの努力不足だ」

 竹下の下唇が尖った。

「じゃなによ」

 石川は竹下から目線を外した。住宅が続く景色に目を移す。

「先生が思う親不孝は、親より先に死んでしまうことだと思う」

 竹下は石川に顔を向けたまま黙っていた。石川は話しを続けた。

「言うこと聞かなくっても、勉強ができなくっても、そこに自分の子供が生きているだけで、親として幸せなんだと思う。それは親も人間だから、子供にイライラすることもあるだろうし、時には手を挙げることもあるだろう。でもその張り合いもいずれ良い思い出になるし、逆に手を挙げたことを反省して成長していったりもする。親も子供に育てられているのさ。たとえ子供が不良になろうと、過って犯罪を犯そうと、子供を守ろうとするし、そんな子供にしないように怒って守るのさ」

 竹下は無言のまま、石川から目をそらさない。

「責任を取ると言って、自ら命を捨てる人がいる。でもそれは責任を取ることにはならない。責任から逃げているだけだ。自殺ほど親不孝なことはない。子供に先立たれた親の苦しみは計り知れない。だから子供は親の前で元気な姿を見せてあげること。それだけでいい。それが親孝行だと先生は思う」

 石川は、沈黙している竹下の座った目線に照れを感じ、顔を赤らめた。勢いで、余計なことを話してしまったと少し恥ずかしくなっていた。

 赤くなった石川をからかうように竹下は言った。

「先生って、若いくせに年寄りみたいなこと言うんだね」

 石川は恥ずかしさを隠すように、眉を寄せて竹下をにらみ付けた。

「なんだっ、年寄りって」

 竹下の顔が笑っていた。

「でも先生の言いたいことよく分かった。先生の授業はよく分からないけど」

 石川の顔も笑顔になっていた。

「それは努力が足りないからだ」

 二人は顔を見合わせながら笑っていた。

 電車が減速を始めた。

 次の駅に近づいた。学校の最寄り駅だ。外は舗装が行き届いた住宅街。人も車も多くなり、今日一日が動き出してきたように感じる。ホームに電車を待つ通勤通学の人たちが整列して並んでいる。電車はゆっくりとホームへ進入する。指定の位置に停車。扉が開いた。

 竹下が石川に話しかける。

「先生、先に降りてよ」

 石川は扉に向かった足を止めた。

「竹下も降りるだろう」

 竹下は握っている吊り輪を離すことなく、石川の耳に届くだけの小さな声でささやいた。

「降りるけど、先生と一緒に降りるところをだれかに見られたら誤解されるでしょ」

「誤解?」

 聞き取りにくい竹下の声に石川は扉に向かう足を竹下に戻した。

「付き合ってると思われたら迷惑だから」

「先生と竹下が? そんなふうに見られるわけないだろう」

「いいから早く、先に行って。扉が閉まっちゃう」

 竹下は石川の肩を押して、扉に向かわせた。

「そうか、わかった」

 石川は扉を出ると、言うとおりに足早で改札口へ向かった。

「先生!」

 竹下は先に足を進めた石川を呼び止めた。

 石川は足を止めて竹下に振り向いた。

「なんだ」

 竹下はホームに降り、学生鞄を両手に持ちながら、足をそろえて真っ直ぐ立っている。

「また、話し聞かせてもらってもいいですか」

 さっきの小さな声じゃない、はっきりした声が石川の耳の届いた。竹下の姿勢の正しさに素直な心を感じた。竹下の将来に心配はない。そう思えた。

「この電車に乗れたらな」

 石川は右の口角を上げた。明日は今日みたいに朝早く起きられないだろう、という軽い嫌みを含んでいた。

 竹下は口を曲げた。顎で早く行ってと促している。石川は笑顔でうなずくと、改札を抜け、学校に向かい歩き進めた。

 竹下は、この時間に急いで学校へ向かっても、時間を持て余すだけだった。だからといって、途中寄るところがあるわけでもない。深呼吸をしながら、のんびりと学校へ足を向けた。早朝の日差しが心地よい。時折吹く柔らかい風が髪を揺らす。竹下の顔からは家を出たときの寂しい表情が消えていた。すがすがしそうに笑顔で空を見上げている。雲のない青空がどこまでも続く。空は竹下の心を映すように晴れ渡っていた。

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