北の大賢者の養い子(5)
山の冬は厳しい。
とはいっても、冬篭りのしたくが万全ならばそれほど恐れることはない。
冬が厳しいのは日々の糧を得る手段が限られているからで、食料や燃料の確保がちゃんとできていればそれほど心配することはなかった。
春から少しづつ準備をしていたから、山が雪で閉ざされてもスィールは特にあわてることもなかった。一人になって3回目の冬ともなれば要領もいろいろわかってくる。
(今年は運が良かったし……)
自然と頬がゆるむ。
森の奥深くで半ば自給自足のような生活を送っているスィールだが、勿論自足できないものはある。
それらを購入する為に、春と夏は森で薬草を摘み、これを乾かしたものや調合したものを麓の村やちょっと離れた街に売りに行く。これはじじさまと一緒に暮らしていたときからの習慣で、スィール達の持っていく薬はよく効くと評判だった。
それから、罠をしかけたり、狩りをして獲った獲物の毛皮や牙なども売る。
ものによっては魔術の触媒となるものや、魔力を込めることのできるものがあり、そういったものは高く売れる。
とはえ、元々がスィールが育てていた野菜に悪さをする獣を取る罠にかかる獲物だけなので量はたかがしれているのだが、今年はめったに見ることのない純白のウサギが罠にかかって、その毛皮がびっくりするほどの高値で売れた。
そのおかげでちょっとだけ贅沢をして、スィールは南の国でとれる白い砂糖を買った。
夏になれば森では豊富なハチミツがとれるし、甘草が群生しているところも知っている。それでもやぱり砂糖は特別だ。茶色い砂糖に比べて、白い砂糖は雑味が少なく、甘さが濃い。
秋口にその砂糖で作ったベリーのシロップ漬けがそろそろ食べごろになる。
冬に新鮮な果物はなかなか食べられないから、スィールはずっとそれを食べるのを楽しみにしていた。
(おやつにしようか、それとも夕食の後のデザートの方がいいか……)
そう迷うのもまた楽しいひと時だ。
ぐーと小さな音でおなかがなる。誰も聞いていないのに、ちょっとだけ恥ずかしく思う。
(その前にあさごはん、っと)
手早く暖炉に火をいれた。暖炉に火をいれるくらいの術は呪文も何もなしですぐに熾せる。
暖炉のストーブの上には、いつもスープ鍋がかけてあって、都度、塩漬け肉を足したり、野菜を足したりしながら、切らさないように煮込み続けている。
朝食はこのスープに卵と青菜を落としたものと、この地方ではムナと呼ぶ小麦粉とディラ粉を水でこねたものを薄く延ばした薄焼きパンで簡単に済ませる。
冬は野菜が不足しがちだが、野菜好きのスィールは氷室に大量の野菜を保存している。貯蔵のための最適な温度だってちゃんと研究済だ。
都の方では、密封できる箱に魔方陣を刻んで保存用の箱にしているそうだが、こんな場所では自然がその代わりをしてくれる。最新の道具はなくとも、自分の使える術を工夫すればそれなりに便利に生活できる。
「今日は、屋根の雪を片付けちゃおうかな……」
3日に1度は屋根の雪を片付ける。……もちろん、魔術を使ってだ。
これをさぼると、場合によっては雪の重みで小屋が潰れる。
スィールは魔術でほとんどの日常の大変な作業を代用できるが、それにも限度がある。
例えば、屋根の雪を落としたり溶かしたりをするのは問題ないが、魔術で小屋を強化して雪を片付ける回数を減らそうとするのは危険だ。雪の重みが強化の術の限界を越えた瞬間にぺちゃんこだ。
魔術は万能ではないし、己の魔力や術の限界を越える事はできない。
無から有を生み出すことはできず、有を無に帰す事もできない。
簡単に言ってしまえば、魔術というのは『自身の魔力で、あるべきもののカタチを変えること』だとスィールは思っている。
自然法則に則り、精霊達の力を借りて発動するのが『魔法』で、陣や呪を組み、あるいは式を構成し、ある種、自然法則に反することをも可能にするのが『魔術』だ。
混同されることも多いが、魔法と魔術は似ていて非なるものだ。
とはいえ、『魔法』が使えない魔術師は存在しない。
『魔法』は『魔術』の基礎と言ってもいい。『魔法』を学び、使いこなすことができなければ、『魔術』には到達できない。
実のところ、『魔術師』になれるのは、『魔法士』のうちの一割にも満たない。
魔力がどれほどあり、どれほど自在に魔法を使っても、魔術師になれない者もいる。
そして、一口に『魔術師』といっても、個々の能力は千差万別だった。
魔力の質や量もだが、術との相性の良し悪しもある。それゆえに『魔術』の探求には終わりがない。基本を修めた後は、自身でそれを深めていくしかないからだ。
自身で深めていくにせよ、同じ師について学んだ者の術は似たようなクセがあったから、その術の構成を読み取れれば、だいたいどの系統で学んだのかが特定できる。
現在、魔法・魔術の世界で最も勢力をもつのは、リスティア・スラードを祖とするスラード派だ。
スラード派は、実践魔術を標榜する一派で、そもそもが戦場で利用する集団魔法から発達しているため、その術には攻撃的なものが多い。
逆に、教会の奉仕活動から生まれたアディリア派は、教会魔術を基としている性格上、癒しの術が多くある。
(私のは、じじさまの術だから……)
スィールは何派の術であると呼べるような高名な術はほとんど知らない。
老人は、術そのものを教えるよりも、術を生み出すための根本的な考え方や、魔術言語や古魔術語を理解することに重点をおいてスィールを教えた。いわば、基本を徹底的に仕込んでくれたのだ。
だから、スィールは教えてくれる老人が亡くなった後も、自身で学習を続け、今では幾つもの独自の術を編み出していた。