初めの旅の始まりの夜
小屋から森の入り口までは魔術で転移した。
ヴィ・ディルーがにこにこ笑いながら手を振り、なぜ手などを振ってるのだ、と思っていたら突如として術が発動した。
スィールは、よほど大掛かりで特別な……アーネストを助けたような……術でない限り、杖も呪文も必要とせずに発動させる。それは、まるで呼吸をするかのように自由で、自在だった。
眩暈のような感覚がしたと思ったらその次の瞬間には森の入り口にいて、アーネストもガルディアも一瞬、何がなんだかさっぱりわからなかった。
(いや、我の方がまだアレよりはわかっているだろう)
魔術を礎に築かれた帝国のその中心たる選帝候家の一員であり、最高位の金位の魔法士でありながら、アーネストのそちら方面の知識は一部をのぞけば、一般貴族より少しマシな程度でしかない。
だが、竜族は魔法を呼吸するがごとく使う。否、魔法と意識することなく使う。たとえば、竜が空を飛ぶというのは、自力飛行だけではなくごく自然に魔法の助けを使っているのだ。そして、長命種である為に、蓄える知識の量も人とは比べ物にならない。
そういう意味では、スィールはまるで竜族のようだと思う。その魔力量も、魔法……スィールの場合は魔術……の使い方も。そして、師から知識を継いでいるという点もだ。
アーネストは、スィールが何となくすごい魔術師であるということはわかっているかもしれないが、それがどれほどのものなのか正確にはわかっていないに違いない。
「あのね、あれが麓の村」
森の入り口から、眼下に見下ろした集落は本当に小さかった。
それでも、何箇所からか煙があがっていて、そこには確かな人の営みがあるのだということがはっきりとわかった。
「ダーズ」
スィールは手元の地図をみせて、村の名を告げた。
その手書きの地図は、スィールの育て親が若いころに使っていたものだという。一般的に地図などに使われているラーチ紙は、ラーティスという繊維質の多い草で作られているのだが、スィールのそれは布製だ。
布製はかさばらないし、使いやすい。多少値段がはるが、魔術師や魔法士と呼ばれる人間の大半は、布の地図を選ぶ。特殊な染料を使った地図は、魔力に反応し、書き換えが容易に可能だからだ。
「最果ての村?」
「そう言う人もいる」
アーネストの言葉に、スィールはこくりとうなづいた。
沈黙の森から最も近いその集落ダーズは何もない村だ。だが、帝国の最辺境にある村であるということで、その名だけは帝都でも知られている。
「ここからだと村まで2時間くらいかな」
「わかった。……さっきみたいに魔術だか魔法だかで行かないのか?」
「行かれるけど、でも旅をするんだから。……旅は、転移の魔術はできるだけ使わないんだよ」
それが、旅のルールなんだから、とスィールは当たり前のことのように言った。
「……そうか」
誰が言ったのかは、何も言わなくてもアーネストにもガルディアにもわかったのでそれ以上は何も言わなかった。
□□□
スィールが定期的に薬草や毛皮などを売りに来ていたダーズ村には、宿屋兼酒場兼食堂が一軒だけある。その隣が、薬草でも毛皮でも何でも買ってくれるこれまた一軒きりの雑貨屋だ。
小屋から持ち出した旅に携帯するには適さないさまざまな食品……酢漬けの野菜や、残りわずかな野菜や肉を売り、干し肉やアロサという旅人の為の携帯食料と交換するのだとスィールはアーネストとガルに説明をした。
「……こんな時期に生の野菜は貴重だから、もう一声」
「でもよ、旅に出るなら邪魔になるよな?」
「隣の宿の女将さんなら、きっとたくさんのアロサとか干し棗なんかと替えてくれるよ?」
スィールは、いっそ無邪気にも見える様子で首を傾げる。
その腕に抱かれたガルも大きな荷物を背負ってきたアーネストも、先ほどからまったく口を挟む隙がなかった。
というより、スィールの独壇場だった。
アーネストが交渉したとして、スィールより上手にできるとは思えなかった。
一人で生活をする、ということは、ありとあらゆることを自分でしなければならないということなのだと、アーネストは改めて認識する。
「あー、坊主にはかなわんな、ほれ、おまけだ」
雑貨屋の痩せこけているくせに背は高い親父は、台の上のアロサのつまった袋の中身を更にひとつかみ増やし、干し棗の小袋を加えた。
「ありがと。それから、次はこれ。アルベの小さいのを塩漬けにしたやつ」
スィールは、アーネストが背負っていた背嚢から壺詰めを出す。
雑貨屋の親父は壺のふたを開けて目を細めた。
「味見していいよ」
「どれどれ」
いそいそと箸をもってくる親父は、一切れつまんで口に入れる。
「相変わらず、坊主んとこのアルベはうまいなぁ」
「丁寧に下処理してるから」
アルベという川魚は、内臓がおそろしく苦いので綺麗にとりのぞかなければならないのが手間なのだが、冬は軽く脂がのっていてとてもおいしい。アルベの加工品は人気があり、帝都では高級珍味として知られている。
「……何と交換したいんだ?」
「乾燥したラチェス」
ラチェスという種類の草を干したものはタバコ草とブレンドすると爽やかな後味のある煙草ができあがる。
このあたりの土地は痩せているのでほとんどの作物が育たないが、このラチェスだけは別だ。寒冷地でもちゃんと育つし、そのほかの作物よりもし、地域ごとに微妙に味が異なるとかで、この地方のものはすっきりとした後味があるとかで人気が高い。
「それならちょうど良かった。去年収穫して干したやつを一昨日出したばかりだ。草のままでもいいな?」
「その方がいい」
草のままで、使う直前に刻むほうが香りが高くなる。生の草から搾り出すオイルはクスリとしても取引されているという。
驚きの目でそれを眺めているアーネストとガルをよそに、スィールは次々と目的のものを手に入れてゆく。それは手馴れたもので、彼らが口を挟む隙はない。
(俺の出る幕じゃねえ……)
アーネストは心底そう思っていた。
年上の……成人した男であり、スィールの保護者という感覚でいたアーネストだったが、この第一段階で自分の考え違いを思い知らされる。
「……おじさん、いつもいっぱいおまけしてくれてありがと」
「ったく、坊主には敵わないな」
淡々とした口調で交渉を進めつつ、最後にはにかんだ笑みを見せるところなどは絶妙のタイミングだ。
目の前の雑貨屋の親父は満更でもない様子だし、おまけのリムの実が追加されている。
笑顔というのはいつもにこにこ振りまいているよりも、ここぞという時に見せられたほうが破壊力が大きい。
「……どうしたの?アーネスト」
「いや。慣れたもんだと思ったんだ。ラチェスなんて何に使うんだ?」
「あんまり荷物にならないし、街で高く売れる。……田舎は物々交換が基本だけど、帝都ではお金が必要になると思うし」
何度も繰り返し思うことだが、この年齢の子供とは思えない。
その生活力の高さに思わず頭が下がりそうだった。
「……スィールは、旅に出たことがあるのか?」
「少しだけ。……あと、ちょっとだけ街で暮らしたこともある」
その時のこと思い出しながら、いろいろ準備した、と告げる表情に気負いはない。
(何ていうか……落ち着いてるなぁ)
自分がスィールの年齢のときはどうだったんだろうか?と考えて、アーネストは思い出せるような記憶が一切なくて愕然とした。
記憶喪失というわけではない。単に、覚えていられるような特別な記憶がなかったのだ。
その頃の年齢なら、おそらくは騎士団に居て従騎士をやっていた頃だと思うのだが、何度考えてみても記憶に蘇ってくることがない。
(特別なことがなかったんだろうな……)
開き直ることもできず、どうしていいか悩み続けていた時期でもあった。
「坊主、旅に出んのか?」
「うん」
交換しているものを見れば、それは一目瞭然なのだろう。
「気をつけていけよ」
「ありがと」
「これをもてばいいか?」
「うん」
だいぶ空になった背嚢に、交換した品を詰めていく。
「今夜は隣に泊まるのか?」
「そう」
「今日は蕪のシチューだって言ってたぜ」
雑貨屋の親父のその言葉にスィールは小さな笑みを浮かべた。
□□□
「しかし、真冬に旅するなんてねぇ」
「大丈夫。雪には慣れてるし、魔法も使える」
「そういや、あんたは魔法が使えるんだったね。……いつものじいさんはどうしたんだい?最近、姿を見ないけど」
宿兼酒場兼食堂の貫禄のある女将は、気安い口調で話しかける。
月に一度くらいのペースで村を訪れていたとスィールは言っていたが、それなりに顔見知りではあるらしい。
「……じじさまは、遠くに行ったの」
「遠く?」
「空の向こう」
空の向こうには天の国があると言われている。
そこはエシュリーダ女神の治める地であり、死者はそこで次に生まれるまでの時間を過ごすのだと教会は教えている。
「悪いことを聞いたね」
「ううん。いいの。じじさまは長生きだったし、寿命だったから」
しんみりとしそうな雰囲気だったが、スィールは明るく続ける。
「あのね、蕪のシチューと黒麦のパンにする」
「……それだけか?」
「えっと、デザートにリムの実。ガルと分ける」
「そうか」
「アーネストも好きなの食べて。あ、でも、お酒はだめ!」
「昨日の今日で飲むか!」
だいたい、まだ周囲には酒臭さが漂っている気がしている。アーネストはそこまで節操がないわけではない。
むしろ、しばらくは禁酒しようと心に誓ったのだ。
「だって二人で仲良く酒盛りしてた」
「あれで、仲良いわけねーだろ」
「でも、ディは人間大嫌いだし、そもそも、気難しいからあんまり友達いないんだよ。あれなら仲良しの部類にはいるよ」
「あの綺麗なにーちゃんが聞いたら泣き濡れそうな、嬉しくねえお言葉をありがとよ」
「どういたしまして」
ヤケクソなセリフにスィールにはにっこり笑って返す。自分の真意は絶対に伝わっていないとアーネストは思った。
「ほら、シチューだよ。たーんと食べるんだよ」
「わぁ」
立ち上る白い湯気。食欲をそそる匂いにスィールが笑みを漏らす。
「はい、ガルの分」
『うむ』
女将の心遣いか、大き目の木椀にたっぷりと盛られたシチューを、スィールはガルと分けあう。
二人分とってもかまわなかったのだが、当人同士が分け合うこと前提で話をしていた為、アーネストは何も言わなかった。
魔術師と守護者の絆が強固なものであることは昔から言われていることだが、目の前の二人を見ているとそれもなるほどとうなづける。
ガルの世界はスィール中心に回っており、誰に対してもさほど強い感情を抱かないように見えるスィールもガルにだけは心を寄せる。
名を捧げているとはいえ、未だ己の立ち位置を決めかねているアーネストはやや置いてけぼりだ。
「熱いから気をつけてね」
『大丈夫だぞ。かつて、我は天をも焦がすと言われていたディスリオ火山の焔を喰ろうていたのだからな』
「すごいね、ガル」
『うむ』
何がすごいのかまったくわからんと思ったが、口を挟むことははばかられた。
ガルディアのように全てをスィール中心に考えることができれば良いのだ。だが、スィールが主であるのだと頭では理解しているのに、アーネストはどうあってもシュレイヤーンの候子である自分から抜け切れない。
主を得た喜びを覚えたのは確かであり、そのことに一時は解放されたと思いながら、結局はまた元の自分に戻っていて、どう接していいかわからぬまま曖昧な態度を取り続けている。
スィールのせいにするわけではないが、スィールがアーネストを自身の騎士として扱わないせいもあるだろう。貴族ではないスィールは、騎士がどういうものかわかっていないのかもしれない、とも思う。
「……ガルは、人間の食いモンで足りるのか?」
脈絡のない問いを口にする。
あまり突き詰めて考えたくなかった。
(俺は、逃げているのかもしれない……)
『我は何も食わずとも生きていける。主、ある限りな。守護者とはそういう生き物だ』
「守護者ってより、守護竜って言うべきじゃないのか?」
『そうだな。まあ、呼び方などどうでもいいのだ……ああ、使い魔などという名で呼ばれることは御免被る』
何が嫌なのかガルディアはぶるりと身体を震わせた。
『人の食べるものは我にとって本来の意味で栄養にはならぬ。だが、そうだな……我は、共に食す主との絆を感じながら、作り手の気持ちというものを食べていると思うのだ。きっと、その気持ちを美味と感じるのだろう』
そう言って、ガルディアは蕪にカブりつく。スィールはにこにこしながらそれを眺め、そして、自分も木匙を口に運び、おいしいと呟いてさらに笑みを重ねた。
それは何だか見ているだけで幸せな光景だと思い、アーネストの頬も自然に緩む。
「私もガルやアーネストと一緒に食べると、前よりずっとごはんがおいしく感じる」
それまでが孤独すぎたからだ、といおうとして、アーネストはやめた。
スィールは、自身の孤独を孤独であると認識することすらできていない。口に出したところで軽く首を傾げるだけだろう。
『……かつての我が今の我を見れば、飼い馴らされたと思うのやもしれぬ。だが、我は今の我を案外気に入っているよ』
ガルディアは呟くように言い、そして小さくゲップをした。
その姿が何だかユーモラスで、アーネストは笑った。
初めの旅の始まりの夜───それは、それぞれに何度も思い出す幸福な記憶となった。