ヴィ・ディルーの剣(2)
ヴィ・ディルーを初めて見たとき、アーネストはまるで冬の化身のようだと思った。
クセのない長い髪は銀糸の雨、肌は白く、どこかひんやりとした空気を纏っていて、何よりもその視線が氷点下を思わせるほどに冷たかった。
一目でそれがスィールの言っていた妖精族なのだとわかった。
身につけているものは人間とそれほどかわらない。だが、丁寧にほどこされた刺繍やところどころに意匠のあしらわれた衣服は、さすが妖精族と思わされる美しいものだ。
ヴィ・ディルーのそれは白と銀を基調にまとめられ、当たり前のことだが、目の前の男にこの上なくよく似合っていた。マントが光を浴びるたびに鈍い光を放つのは、妖精族の織姫の手になるものだからなのだろう。
「ディ!」
「おいっ、あぶなっ」
男を見るなり、屋根にいたスィールはふわりと飛び降りた。
危ない、と言い掛けて、スィールは大丈夫なのだと気付く。魔術だか魔法だかわからないが、ほとんど意識することなくそれらを駆使しているスィールにとって、この程度の高さは何ほどのことでもない。
だが、身についた常識が邪魔をして、アーネストは毎度そのたびにヒヤヒヤするのだ。
スィールのように魔術も魔法も使えないアーネストは、おとなしく梯子をつたって下に下りる。ずっと使われていなかった梯子はぎしぎしと音をたてていて、今にも壊れそうだった。
「ディが来るなんて思わなかった」
駆け寄ったスィールに、男は膝をついて軽く見上げる。
「そなたが旅立つのだ。これを見送らねば、友とは呼べまい」
「ありがと」
スィールは、その言葉に嬉しそうに笑う。
「今日、泊まって行ける?」
「ああ」
「ごちそうにするね」
「それは楽しみだ」
男は、柔らかな笑みを見せる。
そうすると驚くほどにその気配が変わった。まるで冬そのもののような冷ややかさが、柔らかな光を帯び、春の訪れを思わせるあたたかさを漂わせる。
「ディ、手紙でも書いたけど、アーネスト、私の騎士。アーネスト、彼がヴィ・ディルー。私の友達」
「……よろしく」
アーネストは軽く目礼し、手を出す。
差し出した手を一瞥し、男……ヴィ・ディルーは言った。
「私は人間が嫌いだ。おまえがスィールのモノであるとはいえ、それには変わりがない」
「……あー……」
握手を求めた手が行き場をなくす。
とはいえ、これくらいのことは驚くに及ばない。妖精族の人間に対する対応としてはかなりマシな方だ。
「アーネスト、気にしないで。ディも、普通にして。そのうちきっとお互いに、こいつ、案外悪くないってわかるから」
スィールは、気にした風もなく言う。
「スィールがそう言うなら」
「スィールがそう言うのなら」
お互いの言葉が、綺麗に重なった。
思わず互いに顔を見合わせる。
「ほら、きっと仲良くなれるよ」
スィールは、おかしげに笑った。
□□□
夕食は思っていたよりも和やかなものとなった。
ヴィ・ディルーは、最初に宣言しただけで、それ以上は何かを言おうとはしなかったし、アーネストが口を開いてもそれを否定したり、殊更つっかかってくるようなことはなかった。
(大人、なんだろうな)
妖精族も同じように言うのかはわからないが、大人な態度なのだろうと思う。
嫌いだと宣言されたときにはどうしようかと思ったが、これくらいなら全然許容範囲だった。
(妖精族が人間を嫌うのは、理由のないことではないしな……)
かつては、大陸中のどこであっても妖精族の姿を見ることができたという。だが、今では妖精族は、ほとんど自領……妖精国から出ることがない。
妖精国はこの世界と界を異にしていると言われ、『妖精の環』と呼ばれる門からしか入ることができない。もちろん、常人にはその門を開くことが出来ない。
気まぐれな月の魔力のせいで迷い込む以外には、普通の人間が妖精国に辿りつく術はない。
時々、変わり者の妖精が人間界に住み着いていたり、人間界に出てきて旅をしたりしている以外は、何らかの仕事の為にこちらに来ている者しかおらず、ほとんど鎖国状態にある。
基本的に、妖精族は人間と関わることを好まないのだ。
「アーネスト、もっと飲む?」
スィールは、老人が秘蔵していたという火酒の緑色の瓶を目線で示す。
「いや、このくらいにしておく。明日は早いんだろう?」
「ううん、そんなに早くない。明日は、麓の村で一泊しようと思っているから、昼ちょっと前くらいで大丈夫」
「そうか。なら、もらおうかな」
手にした杯は、美しい細工のなされたもの。妖精族の作った硝子製の品で、光に透かすとテーブルの上に美しい模様を描いた。それこそ、王侯貴族の屋敷で飾られているような品だったが、この小屋では当たり前のようにそれが使用されている。
食器は素朴な土焼きのものばかり。ただカトラリーにはこだわっていて、銀の美しい細工がされているものを使っていた。
素朴な手作り感がいっぱいの小屋の中で、そういった繊細な細工物は不釣合いのように感じられるかもしれないが、スィールの育て親だった老人には一定のこだわりがあったのだろう。杯もカトラリーも不思議とこの小屋にしっくりと溶け込んでいて、亡くなった老人の美意識の高さが感じられた。
「いっぱい飲んで。どうせ、持っていけないんだし」
ディも、と、スィールは、彼の手にする杯に惜しむ風もなくたくさん注ぐ。
先ほどから出される酒、出される酒のすべてが、酒好きのアーネストが、これは!と思う逸品揃いである。こんなにも大盤振る舞いして良いのかと、つい他人事ながら気にしてしまうほど。
(まあ、まだ子供だからな……)
この酒の価値がわからないのだろうと思う。きっと、大人になってそれを知った時に後悔するに違いない。
「うまいな」
ヴィ・ディルーがつぶやく。それに、アーネストも同意だというようにうなづいた。
備蓄していた食糧をいつもより豊富につかったスィールの心づくしの料理は、彼らにとっては、どんな山海の珍味にも勝ったので、更に酒がすすんだ。
アーネストとヴィ・ディルーは、何か会話を交わすというわけではなかった。だが、同じ空間で過ごしていても特に気まずさを感じることはなく、そこには、不可思議な静謐さがあった。
「ここはどうするんだ?」
どれだけ飲んでも、ヴィ・ディルーの端正なたたずまいが崩れることはなかった。
妖精は、小人族ほどではないが酒を好む。麦酒などよりも果実酒等をより好むと言われていて、葡萄酒の名産地では妖精が変装して買いに来たという逸話が数多くあるほど。ヴィ・ディルーもその例にもれないらしく、薦められる酒は断らない。
「んー、全部、燃やしちゃおうかなって思っていたんだけど」
「燃やすだと?」
「……ちょっと待て」
ヴィ・ディルーが信じられないことを聞いたというような表情をし、アーネストはぎょっとする。
そして、互いに視線を合わせ、少し気まずい思いをしながら、何事もなかったようにそらした。
「スィール……良いか、この小屋にある書物は人間にとっても貴重なものではあるが、我らにとってもかけがえのないものも多い。それを燃やすなどと……」
妖精族の美しさはよく知られているが、なるほど確かに美しいとアーネストは改めて思う。
わずかに眉を顰め、どこか困惑しているような表情は、見ているだけで眼福だった。いや、どんな表情をしていてもその美しさは見惚れるしかないものだろう。
男に美貌などという言葉はそぐわないと思っていたが、確かにこれは「美貌」と言う他ない。
「うん。アーネストもここの本はすごく貴重だっていうからちょっと困ってた。でも、じじ様は処分しろって言ったんだよ。処分って捨てたりあげたりして、全部なくしてしまえってことだよね?でも、ここの本は誰かにあげたりするのはあんまりできないし……」
「そういうわけでもあるまい。全部というのではなく……きっと、長期で留守をするから、家にあるなまものや食べ物などの置いておいたら困るものを処分しろということだろう」
ヴィ・ディルーの言は、かなり苦しい言い訳だ、とアーネストは思う。
「そうかな」
「そうだとも」
「……俺も、そう思う」
アーネストも後押しをした。
スィールの育て親は随分と豪快な人間だったようで、漏れ聞くその言動の端々に、時々不安を覚える。
(いや、豪快っていうか、大雑把?)
ヴィ・ディルーは、大きな溜め息を一つついて言った。
「……そなたが再びこの地に戻るまで、私が封じよう。そうすれば、誰の手にも触れることがない」
「わかった。……ありがと」
「いや。ここは君の故郷だ。それを守ることは私の喜びだ、我が友よ」
スィールに対する時だけ、ヴィ・ディルーの態度はとても柔らかなものになる。それだけ大切にしているのだと知る一方、自分にとっても大切な存在なのだと主張したい気持も生まれる。
その口から出る『我が友』という単語は、とても大切に発せられていて、聞いているほうが何だかむずがゆさを覚えた。
(あの肩乗り竜がいれば、これが普通の妖精の『我が友』というヤツなのか聞いてみるとこだが……)
どこまで行っているのかしらないが、ガルはまだ帰宅していなかった。
スィールは、ガルとはつながっているから全然平気、と、不在をまったく気にしていない。守護者と対となる魔術師とは、互いの視界すら共有することが可能なのだというから、心配するまでもないのだろう。
□□□
「これも、じじさまがおいしいって言ってた」
スィールが、何本目になるかわからない瓶を抱えてくる。
「いや、もうそろそろ……」
「我が友よ、我ら妖精族は酒に目がない種族ではあるが、さすがにこれは量がすぎる」
いつの間にか、アーネストとヴィ・ディルーの間には奇妙な連帯感が生まれていた。
「そう?遠慮しなくていいのに」
「いや……」
アーネストの視線は泳ぎ、ヴィ・ディルーは明後日の方角を向く。
「じゃあ、最後の一杯ね」
スィールは、残っていた酒を二人の杯に注ぐ。
二人は無言で視線を合わせた。何となく、気持が通じ合っていたような気がしたのはアーネストの一方的な感覚ではなかったと思う。
テーブルの上、杯越しに落ちた光はまるで水面のように揺らぎ、とても美しかった。