北の大賢者の養い子(12)
(困った……)
スィールは、真剣に悩んでいた。
アーネストが目覚めて一週間あまり、思っていた以上に食料の減りが早かった。
(雪が溶けはじめるのは、まだ2ヶ月以上も先なのに……)
スィール一人分だけだったら、節約すれば半年はもつくらいの食料だったが、たった1週間でこの冬を越せないかもしれないと心配しなければいけない状況になっている。
(男の人って、いっぱい食べるんだなぁ……)
アーネストの食事風景を初めて見たとき、スィールは思わずぽかんとし、次いで、しげしげと観察してしまった。
それくらい、勢いがすごかった。だからといってがっついている感じはしなくて、見ていて気持が良かった。豪快な食べっぷりだとも思った。
裏で罠にかかっていたアヴェラ鳥の蒸したものを出した時などは、肉が胃におさまっていくその勢いのすごさに思わず見入ってしまったほどだ。
(じじ様とは違うんだ……)
老人で、更には、限界まで極めた魔導師であったスィールのじじ様は、あまり食べ物を口にしない人だった。
魔導師は、魔術師以上にずっと直接的に世界の一部なので、実際にはまったく食べなくても良いのだよ、と笑っていたが、一人だとスィールが何も食べないので、いつも「スィールと食事をする」為だけに自分も一緒に食べていた。
そんな老人と比べる方が間違っているのだが、スィールは比較対象とするべき人間を他に知らないので仕方がない。
(ちょっと、おもしろい)
じじ様のいない淋しさを埋められるわけではない。
けれど、アーネストが居るから、淋しいことを忘れる時間が多くなったと思う。
大好きなじじ様を忘れられるはずがないが、ただ、じじ様がいなくても笑えるようになった。
誰かが傍に居る、ということに、慣れつつある自分が少し怖い。
(アーネストはじじ様よりうるさいし……)
老人は、わりと放任主義だった。
放置、というわけではない。スィールはどこにいても、いつもじじ様が見守ってくれていることを感じていた。
だが、ぎりぎりまで決して手は出さないし、これはダメとかあれはダメとか、何かを禁止されたこともなかった。
難しい術を練習するときだけは、必ず声をかけるようにと注意をされたことはあるが、毎日の細かなことに何か言われたことはなかった。
だが、アーネストはひどく口うるさい。
(もっと食べろ、もっと食べろって、いっつも!)
自分がよく食べるからって、スィールまであんなに食べられるはずがないのである。
スィールは自分がおいしく食べられる量だけで充分だ。人より少なくたって、まったく問題ない。
食事時には三割増しうるさくなるアーネストを思い出して、スィールはちょっとだけ顔をしかめた。
□□□
『どうしたのだね、我が主よ』
「ガル!おはよ」
ぱったぱったと少し間の抜けた羽音をさせてやってきたガルディアはちょこんと肩にとまった。
見た目どおりの重さはかかっていないので、スィールにはほとんど重さを感じない。
『おはよう』
ガルディアにとって、この新たな主は何とも愛おしい存在だった。
言葉を交わせるからということもあるかもしれないが、それ以上にスィールは特別だった。
(心が、揺れる)
とうの昔に失ったと思っていた心が、まだ自分にもあるのだと気付かされる。
スィールが自分の感じ取れる範囲にいなければ、きっと自分は、生まれてはじめての恐怖というものを感じるに違いないとも思う。
「あのね、どうやったらアーネスト、うるさくなくなるかなぁ」
もっと食べろって言うの禁止にしようかな、とつぶやく。
『ああ、あれがあんなにうるさい男だとは我も思わなかった』
ガルディアは小さく笑う。
そんな他愛のない言葉のやりとりが楽しい。
そう。楽しいのだ。
そんな風に感じたことなど、これまで、一度たりともなかった。
彼は、この世に生まれ出でた時より、王であった。
竜を統べし者……かつて、それは世界の全てを統べし王と同義であった。
彼に手に入らないものはなく、彼にできぬことはなかった。
だが、今だからこそ思う。
あの時の自分は、ただ在っただけであったと。
『漆黒の竜王』その名を持つだけの、ただの存在であったのだと。
『ああいうのを小姑というのだ』
「小姑……」
『そうとも』
ふーん、とスィールは感心したようにうなづく。
それはスィールの知らない単語だった。
これまで剣に封じられていたガルディアは、何人かの主を持った。
剣であったからして、そのすべてが武人だ。一人の例外もない。
選ぶ基準は一つだけ。
彼を扱うにたる腕があるかどうか、だ。
戦場で共に戦うにふさわしい主。それが、これまでの彼の主であった。
だが、スィールは違う。
(守りたい、と思うのだ)
だから、新たなカタチを選べることになった時、剣に戻ろうとは思わなかった。
どんなカタチでも良い。彼が彼の意思でスィールを守れるカタチになりたいと思った。
(我の一番の願いは、既に叶っている)
守護者と魔術師は、同じ命を生きる。だから、彼は決してスィールと分かたれることがない。
だから、彼が願うのは、スィールを守ることだ。
その為にかつての姿を取り戻したいと思い、そして、彼の対となるべき魔術師であるスィールには彼のその願いを叶えるに足る魔力があった。
スィールは、巨大な竜身ではいつも一緒にいられないと言って小さくなることを願ったので、結局のところ今の姿に落ち着いたが、今のところ特に問題はない。
この姿であっても、ブレスは吐けるし、意思一つで竜身も人身にも変じることができる。何よりも剣であった時と違い、魔法が使えるというのも大きい。
彼が使う魔法の為の魔力はスィールのものだったが、おそらく、スィール自身が魔術を使い、彼が魔法を使ったとして、よほどのことがない限り、その魔力が枯渇することはあるまい。
(よく考えると、恐ろしいほどの魔力量だな)
竜を基準に考えてさえも類稀なと思えるほどである。人の身であることを考えると、空恐ろしいものがあった。
(だが……ルゥの名を継ぐのであれば道理やもしれぬ)
『ルゥ』それは、特別な意味を持つ名であるのだから。
「あのね、今日はね、デャーゴのシチューだよ」
肉も魚もさほど好きではないスィールの食事は、基本が菜食である。
デャーゴというのは、芋の一種で甘みが強い。ほぼ一年中とれるし、痩せた土地でも作ることが出来る優秀な作物だ。
一番良い時期の春先のデャーゴは、お菓子を作るのにも使われるほど甘みが強いのだが、今の時期はだいぶ甘みがおちる。貯蔵してあるものはやや甘みが強くなるものの、ある一定の時期をすぎると逆に甘さがほとんどなくなっしまう。それでも、雪に閉ざされる冬には、いろいろな形で食卓に登場するるご馳走だ。
スィールは、このデャーゴで作るシチューが好きだった。
半分はつぶしてそのまま煮溶かし、半分はなくならないように後からいれる。
ほんのりと甘いこのシチューは、じじ様の得意料理だった。手伝いながらいつも見ていたけれど、最後に入れるかくし味が何なのか未だにわからなくて、今でも研究を重ねている一品である。
『それは旨そうだな』
「おいしいよ。ほんのり甘いの」
でも、またアーネストがうるさそう、と小さく溜め息をつく。
『案ずるな。またうるさいようならば、我が黙らせてやる』
「うん。ありがと」
良かった、とスィールは嬉しそうに笑った。
□□□
「スィール、もっと食わなきゃ大きくなれないぞ。戦場でものを言うのは結局、最後は体力だからな」
もうおなかいっぱいだし、戦場に行く気はないし、体力がないのは承知の上だが、もっと食べたからといって体力がつくとは到底思えなかった。
言いたいことはいろいろとあったが、スィールが口に出したのは一言だけだ。
「……もういい」
「スィール……」
非難を帯びた声で名を呼んだアーネストが更に続けようとすると、ちょうどシチューを食べ終えたガルディアが呆れたような声音で言った。
『うるさいぞ、小姑』
瞬間、室内をブリザードが荒れ狂い、絶対零度の凍気を満たして時を止めた。
そこに他の誰かがいたとしたら、あまりの事態に逃げ出すことも出来ずに、ただそこで氷の彫像と化していたに違いない。
(ガルは、すごい!)
だが、当事者である二人を除けば、そこにいたのはスィールだけだった。
そして、スィールはその空気をまったく気にしなかった。
一人ぼっちで暮らしてきたスィールに、周囲の空気を読むなんていう芸当ができるはずもない。
いや、空気が変わったことには気付くのだ。だが、それを気にしない。それがスィールだ。
スィールは、むしろ、ガルディアがアーネストを一言で黙らせてしまったことに尊敬の念を抱いたくらいだ。
その日、スィールの脳内辞書には『小姑』という単語が新たに追加された。その実例は、勿論、アーネストだ。
アーネストがそれを知ることがなかったのは、幸いと言うべきだっただろう。