世界の終わりと、最後の嘘
# 雨
「一番大事なのはなんだと思う?」
天城澪の声に、神崎悠斗はモニターから顔を上げた。
窓の外では、今日も雨が降っている。大きい雨粒が研究棟の古い窓を叩き、薄暗い室内に途切れない音だけを満たしていた。
「主語が無いから分からん」
「クイズだからね」
「こんなクソクイズがあるか」
「ほら答えて」
悠斗は無造作に髭が生えた顎を撫でながら、答える。
「……夢」
「残念、不正解。ロマンチストなんですねぇ」
「なんだコイツ」
「正解は証明です。タイムスリップは未来から過去に、過去から未来に移動した証明が最も大事なのです。つまり、この実験に成功はなーい」
「雨にやられてヒステリックでも起こしたか?」
澪は両手を広げてくるくると回る。
研究室の端に鎮座する仰々しい装置。中に人がゆったりと入れるカプセルがある。
「失礼だなぁ。私は極めて論理的なのでヒステリックとは無縁です」
「論理的な奴は『実験に成功はなーい』とか言わない」
澪は椅子に腰掛け、カプセルを指差す。悠斗は澪の指差す先を一瞥した。
「だって証明できないからね」
「写真とか動画とか、移動前の時代の物とか見せれば良いんじゃねーの?」
「生成AIですね」
「物は無理だろ」
「3Dスキャンです」
「……」
「未来の技術」
「手品ですかね」
「ゴリ押しが過ぎる」
分かりませんと言わんばかりのジェスチャー。いつも以上に面倒くさい。
「なんだよ、不機嫌か?」
「そりゃそうでしょうよ、毎日毎日篭りっきりでぶつくさぶつくさ!湿気こもって頭にカビ生えるわ!」
「大詰めなんだから仕方ないだろ……」
「こんな時は優雅にお散歩でもしましょ?」
「窓が割れそうなくらいの嵐だが?ついに頭でもやられたか」
窓の外は横薙ぎの雨で景色すら見えない。
「まぁ、誰しも休憩は必要ってことよ」
「急に何だよ」
「雑談。脳の休憩」
「休憩ならコーヒーの方がいい」
「そのコーヒー、昨日のよ」
悠斗は手元の紙コップを見下ろし、黙って机の端へ押しやった。
澪は小さく笑って、カプセル横の制御盤へ視線を戻す。白い筐体は古びた研究室の中でそこだけ場違いに新しく、青い待機ランプを静かに点滅させていた。
「で、調整は終わった?」
悠斗は僅かに澪を睨み、視線を戻す。
「順調だよ、完璧だ」
「完璧って言葉、研究者が一番使っちゃいけないやつ」
「じゃあ、だいぶ完璧」
「悪化してる」
澪は呆れたように言いながらも、口元だけは緩んでいた。
この研究室に残っている人間は、もう二人だけだ。指導教授が去り、予算が削られ、隣の部屋は物置になった。それでも悠斗は毎日ここで、配線を直し、プログラムを書き換え、誰も信じなくなった装置に向き合い続けている。
「次の申請、通ると思う?」
澪が尋ねる。
「通す」
「根拠は?」
「この結果」
悠斗はそう言ってモニタを指差す。波形は滑らかで、異常ログは出ていない。
「短期保存は成功した。代謝停止からの復帰も安定してる。ここまで来たら、あとは人で確かめるだけだ」
「その“だけ“が一番大きいんだけど」
「分かってる。でもさ」
悠斗は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「人が未来へ行けるようになったら、すごいと思わないか。治せない病気の人が、治療法のあるかもしれない時代まで眠れる。宇宙だって、時間の壁を越えられる。百年後の景色を、自分の目で見られる」
「相変わらず、夢だけは大きいね」
「夢くらい大きくないと、こんな研究室に残ってないだろ」
「それはまあ、そう」
澪は窓の方を見た。強い雨が、随分と長い間降り続いている。ここ数日、空が晴れたところを見ていない。
「ニュース、見てる?」
「見てない。見たら進捗が遅れる」
「世間から置いていかれるよ」
「世間が俺に追いつけばいい」
「周回遅れでしょ、それ」
澪はスマートフォンへ一瞬だけ目を落とし、すぐ伏せた。画面は暗くなり、彼女の顔もまた窓の影に戻る。
「澪?」
「何でもない。雨、止まないねって思っただけ」
「台風みたいだよな。時期違うのに」
「うん」
短い返事だった。
「やっぱり凄いな、新しく開発された電池。理論上寿命は無いんだと。保守電源として最適だよ」
「それなら保存モードに入った後、かなり持つね」
「だろ?外部電源が落ちても、復帰信号さえ拾えれば再起動できる」
「数週間の実験には十分すぎるね」
「数年だって申し分ないぞ」
「本当、本当」
澪はそう言って、机の上に置かれた古いマグカップを片づけた。何度も欠けた縁を、彼女はいつも捨てずに洗って使っている。
「ねえ、悠斗」
「ん?」
「明日世界が終わるなら、何したい?」
「次は何だよ」
澪は背を向けたまま言った。
「何したい?」
悠斗は少し考え、笑った。
「俺なら、この装置を完成させる」
「最後の日まで研究?」
「最後の日だからこそだろ。もし世界が終わるとしても、誰か一人でも未来へ送れたら、それは終わりじゃない」
「……誰か一人でも」
「そう。人間は負けっぱなしじゃないって、証明できる」
澪は振り返らずに答える。
「何と戦ってるのよ」
「澪は?」
雨音が更に強くなる。室内に居ても煩いくらいに。
「私は、多分……誰かの夢を叶える手伝いをするかな」
「何だそれ。最後まで助手かよ」
「私が居なくてここまで来れてた?」
「はいはい、共同研究者様ですね」
悠斗が笑うと、澪もようやく振り返った。
いつも通りの顔だった。少し呆れたような少し優しい表情。
「じゃあ、叶えようか」
「何を?」
「君の大きすぎる夢」
澪は制御盤に手を置いた。
「最終調整、今日中に終わらせるよ」
「本気か?」
「明日世界が終わるかもしれないし」
「縁起でもないな」
悠斗は笑いながら立ち上がった。つられて澪も笑う。
# 嘘
「最後の日だからこそ、か」
澪はその言葉を、舌の上で確かめるように繰り返した。
「変か?」
「ううん。良いんじゃない」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「危なっかしいなって」
澪は制御盤に視線を戻し、保存液の温度推移を確認した。数値は安定している。冷却槽の奥で、薄青い液体が静かに揺れていた。
「未来ってさ」
悠斗はカプセルの側面を軽く叩いた。
「たぶん、俺たちが思ってるより遠いんだよな。百年後なんて想像もつかない。でも、そこへ行けるかもしれないってだけで、俺はここまで来られた」
「誰も信じてくれなかったのに?」
「澪は信じてくれただろ」
「私は、データを見て判断しただけ」
「はいはい。そういうことにしとく」
悠斗は笑って、机の上の書類を束ねた。
「でも、本当にここまで来たんだな」
「まだ完成じゃないよ」
「分かってる。でも、もう手が届く。人が未来へ命をつなぐ技術に」
澪は返事をしなかった。
窓の向こうは灰色に沈み、雨に滲んだキャンパスには人影がない。いつもなら研究棟の前を通る学生の声がする時間なのに、今日は雨音ばかりが大きかった。
「悠斗」
「ん?」
「睡眠データ、今日取っておかない?」
悠斗の手が止まった。
「今日?」
「うん。最終調整のついでに。入眠から代謝低下までのログが欲しい」
「被験者は?」
「あなた」
「俺?」
「開発責任者で、プロトコルを一番理解していて、健康状態も把握済み。条件としては悪くない」
「いや、悪くはないけど」
「怖い?」
「怖いというか、準備が急だろ」
「被験者は寝るだけなんだから、急も何もないでしょ。それに、そろそろちゃんと寝た方が良い」
澪の声はいつもと同じだった。穏やかで、少しだけ人をからかう余裕がある。
悠斗はカプセルを見た。白い蓋。透明な観察窓。何度も修理し、何度も失敗し、そのたびに二人でやり直してきた装置。
「……まあ、確かに人体でのデータは欲しい」
「でしょ」
「でも、澪一人で操作できるか?」
「失礼だなあ。私を誰だと?」
「共同研究者様でした」
「よろしい」
澪は薄い笑みを浮かべ、端末に実験記録を開いた。
「薬剤量は最低限。温度は二・八度まで。異常が出たら即停止。目覚めたら、まず私の名前を言うこと」
「記憶確認か?」
「そう。忘れてたら怒る」
「それは怖いな」
悠斗は白衣を脱ぎ、袖を畳んで椅子に置いた。
「もしこれがうまくいったら、次の申請資料に載せられるな」
「うん」
「学内の連中、驚くだろうな。閉鎖寸前の研究室が、人類初の一歩を踏み出すんだから」
「大げさ」
「大げさじゃない。俺は本気でそう思ってる」
澪は彼の腕にセンサーを貼りつけた。指先が少し冷たかった。
「澪、手冷えてるぞ」
「雨のせい」
「空調、下げすぎたか?」
「平気」
彼女は手早く配線をつなぎ、脈拍、酸素濃度、脳波の表示を確認していく。
「本当に、未来を見たいんだね」
「見たい」
悠斗は迷わず答えた。
「そっか」
澪は目を伏せ、それからいつもの調子で肩をすくめる。
「じゃあ、必ず起きてもらわないと」
「もちろん」
悠斗はカプセルに横たわった。背中に伝わる冷たさに、少しだけ身体が強張る。
「保存液、入れるよ」
「了解」
薄青い液体が足元から満ちていく。冷たさはすぐに感覚を鈍らせ、身体の輪郭を曖昧にした。
「気分は?」
「思ったより悪くない。少し眠い」
「誘導薬、入るからね。十秒後」
「澪」
「何?」
「起きたら、コーヒー淹れてくれ」
「自分で淹れて」
「冷たいな。起きる時間分かっているんだから、問題無いだろ?」
「考えておく」
観察窓越しに、澪の顔が見えた。白い光を受けて、やけに遠く見える。
「カウントするよ」
「頼む」
「十、九、八」
雨音が遠のいていく。
「七、六、五」
悠斗は薄く笑った。
「四、三」
「澪」
「なに?」
「またあとで」
澪は一拍遅れて、微笑んだ。
「うん。またあとで」
「二、一」
まぶたが落ちる。
最後に見えたのは、制御盤へ手を伸ばす澪の横顔だった。
装置の駆動音だけが、静かに鳴っている。数値は静かに下がり、カプセルの内側で悠斗の呼吸が消えていくのを横目に、澪はしばらくモニタを見つめていた。
「睡眠状態、安定」
誰に報告するでもなく呟く。研究室には、雨音だけが残った。
澪はカプセルに手を添え、透明な窓の向こうで眠る悠斗を見下ろした。
「……約束、守れなくてごめんね」
その声は、冷却装置の低い駆動音に溶けて消えた。
# 別れ
カプセルの内部で、悠斗の心拍は限りなく低い線を描き、呼吸の表示は停止を示している。けれど異常ではない。澪にとっては予定通りの、深い眠りだった。
「……成功、だね」
澪は小さく息を吐いた。
制御盤には、保存モード移行完了の文字が浮かんでいる。冷却温度は二・八度。密閉、無菌、薬剤濃度、すべて正常。悠斗は眠っている。目覚める条件が満たされるその時まで、ずっと。
澪は椅子に座り、引き出しからアーカイブ用紙を取り出した。顔料インクのペンを握る。実験記録を書く時と同じ道具なのに、指先だけがうまく動かない。
机の端で、伏せていたスマートフォンが震える。通知はもう見ない。代わりに古いテレビの電源を入れると、砂嵐混じりの映像が映る。今はどのチャンネルに変えても同じ光景だろう。
そのニュース番組は、海外の放送局から届く映像だと何度も繰り返していた。
映像は粗く、時折ノイズで乱れる。字幕さえ途切れ途切れで、音声も雑音に飲まれている。ヘルメットを被った現地の記者らしき人物が、強い風に煽られながら空を指し示している。その空には、肉眼でも確認出来る一点が浮かんでいた。
澪はすぐに音量を下げた。知らなくていい。どうせ結果は変わらない。
「ごめんね」
紙の一行目に、その言葉を書いた。そこから先は、少しずつ書けた。
今日の実験は本当は短時間の睡眠データではないこと。世界がもうまもなく終わること。あなたを騙して眠らせたこと。怒っていいこと。けれど、他に選択肢は無かったこと。
何度もペンが止まり、指先が震える。
悠斗が未来を語る時の顔が頭に浮かぶ。誰にも笑われても、壊れかけた装置の前で、百年後の景色を本気で信じていた。その隣にいるうちに、澪もいつの間にか信じてしまった。未来をその目で見る、悠斗の横顔を。
そこまで書いて、澪は目を閉じた。
「ずるいよね」
声は雨に溶けた。
「目覚めたら、だなんて。言い出したのは私なのに」
カプセルの中の悠斗は、少し眠っているだけのように見える。昨日のコーヒーを間違えて飲みそうになった顔も、装置の不具合で徹夜した朝の顔も、全部そこに残っている気がした。
澪は続きを書いた。
あなたの夢を叶えたかった。たとえ私が隣にいなくても、あなたには未来を見てほしかった。
もし目覚めた先に誰もいなくても、それでもどうか、生きてほしい。
最後の一文を書くまでに、ずいぶん時間がかかった。
雨は止まない。窓の外で、空が何度も白く光り、遅れて届く低い振動が、研究室のガラスを震わせる。
澪は手紙を封筒に入れ、防湿パックへ滑り込ませた。乾燥剤を同封し、封をする。手順に迷うことはない。何度も試料保存で繰り返した動作だ。
カプセルの保守スペースを開け、内側の固定具にそれを留める。
「未来で読める保証はないけど」
澪は透明な窓越しに、眠る悠斗を見た。
「あなたなら、見つけるでしょ」
テレビの画面では、記者はもう原稿を読むことをやめ、ただ空を見上げていた。カメラが空へ向けられるたび、画面は強烈な光で白く滲む。雲は橙色に照らされ、空そのものが燃えているようだった。
その周囲では泣き崩れる者、祈る者、抱き合う者が映り込む。
やがて中継が途切れた。絶句し、放送事故さながらの沈黙の生放送が続いたままのニュース番組が垂れ流されたままだ。
澪はテレビを消した。静かになった研究室で、冷却装置の駆動音と雨音だけが続いている。
「悠斗」
澪はカプセルに額を寄せた。
「またあとで、って言ったよね」
返事はない。
「だから、これはさよならじゃないことにする」
窓の外で、雨が強くなる。
澪は笑った。泣く代わりに、いつものように少しだけ呆れた顔で。
「おやすみ。私の、世界で一番危なっかしい共同研究者」
研究室の中では、悠斗の眠りを守る青いランプだけが、静かに点滅していた。
# 約束の未来
最初に聞こえたのは、雨ではなかった。
低い駆動音と空気が入る音。遅れて、肺に空気が入る感覚。喉が焼けるように痛み、悠斗は咳き込んだ。
「……澪?」
返事はない。カプセルの観察窓の向こうには、低いコンクリートの天井。壁沿いに太い配管が何本も走っている。
「どこだ?ここは」
カプセルの蓋がゆっくり開く。冷たい保存液が排出され、悠斗は震える腕で身体を起こした。筋肉は思うように動かない。
「澪」
もう一度名前を呼ぶ。だが誰の声も返ってこない。周りを見渡すと、扉と共に壁の一部が崩れ、そこから光が差し込んでいた。
「何だよ、これ」
声が掠れる。足元の表示パネルには、復帰完了の文字が点滅している。日付は読めなかった。壊れているのか、理解したくないだけなのか分からない。
悠斗はカプセルの縁に手をつき、震える足で床に降りた。
制御盤の横に、透明なパックが固定されていた。見慣れた試料保存用のものだ。中には封筒が一つ入っている。
宛名には澪の字で、神崎悠斗へ、とある。
悠斗は無言でそれを手に取り、封を開けた。紙はわずかに波打っていたが、文字は読める。
『ごめんね、悠斗』
最初の一行を見て、呼吸が止まりそうになる。
『あなたに嘘をつきました。あれは只の睡眠実験ではありません。世界は、あの日で終わる予定でした。私はそれを知っていて、あなたを眠らせました』
指先が震え、紙が小さく鳴った。
『怒っていいです。許さなくていいです。でも、あなたには未来を見てほしかった。誰にも信じてもらえなかった夢を、あなた自身の目で確かめてほしかった』
悠斗は膝をついた。古い床に、保存液の滴が落ちる。
『あなたが「誰か一人でも未来へ送れたら終わりじゃない」と言った時、私は決めました。あなたを未来へ送ることが、私にできる最後の共同研究だと思ったから』
「違う」
思わず声が漏れる。紙の中の澪は、淡々と続けていた。
『もし目覚めた先に私がいなくても、生きてください。あなたの見たがっていた未来を、ちゃんと見てください。じゃないと、私はあなたの夢を叶えられたと思えなくなるから』
「違うんだよ、澪」
悠斗は手紙を握りしめた。
未来を見たかった。それは嘘じゃない。けれど、百年後の景色も、未知の世界も、一人で見たかったわけじゃなかった。
装置が完成したら言うつもりだった。
最初の被験者は自分で、次は澪と一緒に眠ろうと。小さな澪が夢に見た、未来の景色を見る為に。
起きたら言う。あの日、そう先延ばしにした言葉だけが、取り返しのつかない場所に残っている。
手紙には、少しだけ滲んだ文字があった。
『おやすみ。私の、世界で一番危なっかしい共同研究者。またあとで、なんて嘘をついてごめん』
少しの空白と、綺麗で力強い文字。
『遠い未来を見れたことを、貴方が証明して。私の分まで』
悠斗は額を紙に押し当てた。泣き声は出なかった。ただ、喉の奥が焼けるように痛むだけだった。
どれほどそうしていたのか分からない。やがて、崩れた扉から入る日の光の形が変わる頃、悠斗は立ち上がった。
立ち上がっただけで震える脚で、ゆっくり、ゆっくりと光に向かって歩き出す。扉の横から外に出ると、捨てられた廃墟のような、どこか見覚えのある通路。ぼろぼろの階段を時間を掛けて慎重に上がる。
目の前には風化したように半壊した建物。屋根は無く、至る所から自然の匂いが入り込んでいる。何かに縋るように歩く。気が付けば、悠斗の研究室のあった部屋にいた。
そこには机も、制御盤も、古いマグカップも残っていた。けれど天井はなく、瓦礫が散乱し、壁には見知らぬ植物の根が入り込んでいる。窓ガラスの向こうに広がる景色は、彼の知るキャンパスではなかった。研究棟の外壁を緑が覆い、その先に、雨上がりの光が差していた。
着られないほどに朽ちていた白衣を拾い肩へ掛け、手紙を握り締める。
「澪」
名前を呼んでも、答えるものは何処にもいない。
「見てくるよ。俺が証明する」
何の確証もない。その声を聞くものはいない。けれど、その場所に別れを残すように誓いを立てる。
外には、緑で包まれた何処か面影のある景色と、雨上がりの空があった。
悠斗は一歩を踏み出した。本当に見たかった未来は、ここには無い。
それでも、彼女が残した言葉が、悠斗の足を動かした。




