第9話 残された側
マイケルが来たのは、土曜の昼だった。
インターホンが鳴り、兄が立ち上がる。
私はソファに座ったまま、その背中を見ていた。
「ハロー!」
ドアの向こうから、あの明るい声が聞こえる。
「ゲーセン、行こう!」
玄関先での会話は短かった。
マイケルは楽しそうで、兄は少しだけ戸惑っている。
リビングに戻ってきた兄が、私を見る。
「百合」
「なに?」
「マイケルに誘われた」
「……うん」
兄は少し間を置いてから、続けた。
「俺、行ってくる」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「私も?」
聞いてから、
自分でもおかしいと思う。
兄は首を振った。
「いや」
それから、声を落とす。
「ちょっと、話してくる」
「話?」
「マイケルに」
兄は、視線を逸らしたまま言った。
「百合のこと、どう思ってるか」
胸が、強く打たれた。
「……え」
「このままにするの、よくないだろ」
兄の声は、真剣だった。
「だから、俺が聞く」
私は何も言えなかった。
止める理由も、
行く理由も、
見つからない。
「百合は、家にいて」
「……うん」
それだけ答えた。
玄関で靴を履く兄の背中を見送る。
マイケルは振り返って、私に手を振った。
「またね、ユリ!」
ドアが閉まる。
急に、部屋が静かになった。
私は、動けなかった。
――兄さん、聞くんだ。
マイケルが、
私をどう思っているのか。
考えないようにしてきたことを、
兄が代わりに確かめに行った。
心臓が落ち着かない。
ソファに座ったまま、
時計を見る。
針が進む音が、やけに大きい。
もし。
もし、兄の予想どおりだったら。
マイケルは、
私を好きだと言うだろう。
距離が近い理由も、
説明がつく。
そのとき、私はどうする。
受け止める?
断る?
それとも、
また、曖昧に笑って終わらせる?
胸の奥が、苦しい。
もう一つの考えが、
遅れて浮かぶ。
もし、違ったら。
マイケルは、
私じゃなかったら。
その場合、
今までの全部は、何だったのか。
私は膝の上で、
指を強く組んだ。
誰かの気持ちを、
勝手に決めつけていたのかもしれない。
時計を見る。
まだ、帰ってこない。
考えるのをやめたくて、
テレビをつける。
でも、内容が頭に入らない。
玄関の音がしたのは、
夕暮れ時だった。
私は立ち上がる。
「おかえり」
兄が、靴を脱ぎながら答える。
「……ああ」
その声は、
思っていたより軽かった。
リビングに入ってきた兄が、
私の前で立ち止まる。
「百合」
「……なに」
兄は、一度だけ息を吐いた。
「ごめん」
私は顔を上げる。
「勘違いだった」
その一言で、
頭の中が、真っ白になる。
「マイケルは」
兄は、はっきり言った。
「百合目当てじゃない」
言葉が、落ちてくる。
私は、すぐに何も返せなかった。
今まで、
自分の中で積み上げてきたものが、
音を立てて崩れていく。
「……そう」
やっと、それだけ言った。
兄は、それ以上説明しなかった。
私も、聞かなかった。
その夜、
私はなかなか眠れなかった。
考えないようにしてきたことが、
考えなければならない形で、
目の前に置かれたから。
勘違いだったのは、
兄だけじゃない。
その可能性から、
私は目を逸らせなくなっていた。




