第8話 泣いた理由
綾部が泣いたのは、その翌日だった。
講義が終わり、廊下の人影が薄くなった頃、名前を呼ばれた。
「先輩」
振り返ると、綾部が立っていた。
目の縁が赤い。
泣いたあとではない。泣く直前の顔だ。
「少し、いいですか」
「……うん」
中庭へ続く通路に移動する。
ベンチの前で立ち止まったが、綾部は座らなかった。
両手を前で組み、ほどいて、また組む。
昨日、私の袖を引いたときと同じ仕草。
「昨日のこと」
声が細い。
「すみませんでした」
「謝ることじゃないよ」
私はそう答えた。
事実だと思っていた。
綾部は何か言おうとして、息を吸う。
でも、言葉が出てこない。
視線が一瞬、私の肩の向こうに流れる。
兄の隣に座ったマイケルの位置を、
思い出しているように見えた。
――やっぱり。
私はそう解釈してしまう。
兄に近づけない。
昨日も、今日も。
「私……」
綾部が口を開く。
そこで、声が詰まった。
肩が小さく揺れ、
次の瞬間、顔を覆った。
涙が、指の隙間から落ちる。
私は一歩、近づいた。
でも、手は伸ばさなかった。
触れたら、
聞いてしまいそうだった。
言葉にしなくても伝わる理由を、
否定できなくなりそうだった。
「ごめんなさい」
嗚咽混じりの声。
「私、ちゃんと……」
続きを言おうとして、
声が崩れる。
私は、ゆっくり息を吐いた。
「無理しなくていい」
選んだのは、その言葉だった。
「時間、かけていいから」
慰めのつもりだった。
同時に、距離を保つ言葉でもあった。
綾部は首を振る。
涙を拭い、必死に整える。
「……先輩は」
顔を上げる。
「やさしいです」
その言い方が、
胸に重く残った。
やさしい、は。
踏み込まない、という意味でもある。
綾部は深く頭を下げた。
「今日は、帰ります」
「送ろうか」
「大丈夫です」
迷いのない返事。
背を向けて歩き出し、
数歩進んで、立ち止まる。
「先輩」
振り返る。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、
今度こそ去っていった。
私は、その場に残った。
泣いた理由は、
私の中では整理がついていた。
兄のこと。
並んで座れないこと。
近づけない距離。
昨日の配置が、
今日の涙につながった。
そう考えると、
全部が説明できる気がした。
でも。
もし、違ったら。
その考えが浮かんだ瞬間、
私は首を振った。
また、同じになる。
期待して、
違うと知る。
それは、もう耐えられない。
私は歩き出す。
泣いた理由は、
私の考えた通りでいい。
そう思い込むことでしか、
今日は前に進めなかった。




