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タイトル未定2025/09/28 12:36

一筋の涙が、頬をついと流れた。


「礼郎!礼郎!」

自分を呼ぶ声に振り向くと、そこには経徳がいた。

頑丈な体躯に袈裟をまとい流れるように歩くさまは、ここ妙見寺に集う村の女子たちの目を虜にする。

お堂の隅でまるまって眠っていた礼郎は、経徳にのぞきこまれ思わず破顔した。

「見つかってしまいましたか」

そう言って礼郎はぴょこんと飛び起きる。

「もうそろそろ、西念寺の方々が来られる故、みな表に出ているようにと住職が言っておる。頬についたよだれを拭くのだな」

そう言うと経徳は太い腕を礼郎に差し出した。

西念寺は常陸国いち大きな寺である。

下総にあるこの妙顕寺はその末寺のうちの一つに数えられる。

春を前にして西念寺の名のある僧が連れ立ってこの地を巡るのは、古くからの習わしであった。

「この寒いなか、西念寺の方々もご苦労さまなことですね」

「まことにな」

下総では仮に雪は降っても積もることはまれである。

しかしこの冬は例年にもまして体の芯まで凍えるような寒い日が続いていた。

見ると、礼郎の寝ていた床の部分に、寺に居ついている猫のテンがまるまっている。

「あーあ、私もテンのような身の上に生まれたかった」

「まことにのう」

お堂の外に出ると、雪がちらちら舞っていた。

雲間からは太陽がやわらかな午後の日差しを届けている。

礼郎と経徳は、寒い寒いと言い合いながら、小走りに寺の表のほうへと駆けて行った。

礼郎、十六の冬である。


西念寺からの僧たちの頭数は十一であった。

妙顕寺の小坊主たちは、彼らの間をこまねずみのように歩き回り身のまわりの世話をしている。

妙顕寺の一番大きな広間に通された彼らの前には、火鉢がてんてんと置かれている。

僧たちは思い思いにくつろぎ、今や広間は一大宴会場へと姿を変えていた。

妙顕寺側の僧の末席近くに鎮座していた礼郎は、上役たちの会話に相槌をうちながら、向かいに座るひとりの女が気になっていた。

西念寺の僧の年齢は、上が五十過ぎから、下は十代までいるようである。

そんななかにあって、二十代と思しき女は異様に目立つ。

ふ、と女と目が合った。

礼郎はなんだかばつが悪くなりとっさに目を逸らした。

視界の端で、女がくすりと笑ったような気がした。

「どうした、礼郎」

隣に座り酒をあおっていた経徳が不振がり、思わず礼郎に声をかける。

「いや、向かいに女がおる」

礼郎は口ごもりながら視線を女にやった。

つられて経徳も視線をやる。

すると経徳はしたり顔をしてこう言った。

「あの女は娼よ。まぁありていに言うと西念寺の僧たちが抱く女ということだな」

それを聞いて礼郎は目をまるくした。

礼郎は、まだ女を知らない。

しかし男女が夜な夜な何をするかは知識としては知っている。

「な、なるほどな。娼か。そうか」

それきり礼郎は女には触れず、話題を別のほうへやりその場をやり過ごした。

視界の端で、やはり女を気にしながら。


礼郎が女と口をきいたのは、その日の夜になってからであった。

礼郎が控えの間の火鉢のそばで油を売っていると、そこへ例の女がやってきたのである。

「昼間よく目が合いましたよね、お名前はなんとおっしゃるの?」

女はしゃなりと肩を斜めにしてそう聞いてきた。

「れ、礼郎、という」

礼郎は女と視線を合わせられずにぶっきらぼうに答えた。

「礼郎、とは坊主らしからぬ名だな」

女はそう言うと、くすりと笑った。

「だまれ、女」

「女、ではない。たよりという名がある」

たよりと名乗った女はそう言うと、やはりくすりと笑う。

「お前は娼であろう」

突然の礼郎の発言に、たよりは目をぱちくりさせた。

「であればどうする」

たよりは挑戦的な目を礼郎に向ける。

「けがらわしい」

礼郎はたよりに視線を合わせようとはしない。

「ほ、それが西念寺流よ。今の時代、珍しくもない」

たよりはこともなげにそう言った。

実際、西念寺が大きくなり影響力を持ち始めてからというもの、僧の妻帯ですら珍しくなくなっている。

しかし寺で女を囲うとは。

話には聞いていても、いざ目の前にその姿があると、どうしてよいか分からない。

礼郎がたじろぎ目の前の柱あたりに視線を泳がせていると、部屋の入口からたよりを呼ぶ声がした。

見上げると、女のように線の細い若い僧が立っていた。

「円仁」

たよりは、その僧を見上げると、そう呼びかけた。

どうやら西念寺の僧のようである。

「準備ができた。参れ」

円仁と呼ばれた僧は、そう言うと、たよりに手をすっと伸ばした。

その手つきがいかにもいやらしく思われたので、礼郎はさっと視線を外した。

視界の端で、たよりがくすりと笑った気がした。


この頃の家屋は、総じて木造である。

日本の歴史にふすまが現れ始めたとはいえ、夜の声音などはつつぬけである。

たよりの声も、幾部屋か隔てた礼郎の耳までよく届いた。

それは勿論、夜伽の声、である。

けがらわしい――。

礼郎は布団をすっぽりとかぶってしまったが、たよりの声は、なおも間近に響くのであった。


翌朝、まだ太陽が昇りきらぬうちに、礼郎は厠へと立った。

ひとりで用を足していると、そこへ昨夜の女のような僧、円仁が現れた。

「おはようございます」

挨拶をせぬわけにもいかぬと、礼郎は面倒くささを隠さずに挨拶をした。

「おはようございます。今日くらいは寝ていてもよいのではありませぬか」

西念寺から僧を招いた翌日は、妙顕寺では休みの日と決まっていた。

「習慣で今時分に起きるのが体に染みついておりますれば」

礼郎はそう言うと、手を洗うため井戸へと歩み寄った。

「わたくしもです。僧の悲しい性ですねえ」

手をすすぐ礼郎の背後で、円仁は両手を中途半端に持ち上げた形で順番を待っている。

礼郎は無言で手をすすいだ。

二人の間に妙な沈黙が置かれた。

それを破ったのは礼郎であった。

「僧のくせに女を抱くとは、いかがなものでございましょう」

礼郎の声は低く、振り向きざまに見せるその顔は陰鬱といってよかった。

それを真正面から受けた円仁は、ふっと力の抜けた笑いを見せた。

礼郎の眉間に皺が寄る。

円仁は井戸に垂れる縄を手繰り寄せながら、「たよりのことでしょうか」と言った。

「いかにも」

礼郎は憮然として答えた。

「はは、まだ女を知らぬと見えますね。ましてや男など」

手を濡らしながら円仁は礼郎に笑いかけた。

その様子が妙になまめかしかったので、礼郎はぎょっとした。

「まさか、おぬしも昨夜――」

礼郎の顔がこわばったのを見て、円仁は再びふっと力の抜けたような笑みをみせた。

「それが、西念寺流でございますれば。そうだ、あなたもたよりの味を味わえばよいのです。そうすれば一皮も二皮もむけましょう。さっそく今宵――」

円仁は洋々と語りたそうではあったが、礼郎は無礼を承知で会話を切り上げその場を後にした。

後に残された円仁は「あらまぁ」とにこやかな笑みを崩さずにいるのであった。


その夜、礼郎は上役に、ひとりある部屋に控えているようにと言いつかった。

四半時ほど待っていると、部屋の外から声がした。

「どうぞ、入られよ」

甲高い声の主だとは思ったが、現れたのはなんとたよりであった。

「どうされた」

礼郎が驚いて動けずにいると、たよりはすっと礼郎があたっていた火鉢のそばへと腰を降ろした。

「何も言わず、今宵は私をお抱きなさいませ」

たよりはそう言うと、しゃなりと笑った。

あ――。

あの生臭坊主が仕組んだことに違いない。

礼郎の脳裏に今朝の井戸端での会話が呼び起こされた。

「礼郎、こわくはないから。大丈夫――」

そう言いながら、たよりは冷えた手を礼郎の胸元へと差し込んだ。

たよりの顔が、すぐそばにある。

と思っているうちに、礼郎はたよりに唇を奪われた。

きんと冷える空気の中で、なまあたたかい唾のやりとりがなされる。

たよりは己の舌を蛇のように扱い、礼郎の口の中を右へ左へ上へ下へとなめまわす。

そうなると礼郎も年頃の男子である。

たよりの口をがばと外すと、己の唇をたよりの耳へと這わせた。

ひっきょう、たよりが激しく感じたのであろう、ひときわ大きな喘ぎ声を響かせた。

その声ががんと礼郎の頭をしびれさせる。

礼郎はこの夜、たよりを三度も抱いた。


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