駆け落ち
田中太一は何不自由ない生活を送っていた。会社では温かい人間関係を築き、家庭では妻と2人の娘と仲良く暮らしていた。田中はこんな日々が一生続けばいいという想いとともに、マンネリ化した日常への反感も少しずつ芽生えていた。
ある日田中は職場の近くのバーに飲みに行っていた。すると隣に1人で座った女性から
「田中君よね?私よ、山崎よ」
と声をかけられた。田中は動揺した。その女性山崎遥は高校時代の同級生であるとともに、田中の初恋の人だったのである。あの時は気持ちを伝えられないまま終わってしまった。そんな彼女に約20年ぶりに再会したのである。
2人は長いこと語り合った。思い出話に花を咲かせて、それからのお互いの人生を話した。聞くと山崎も家庭を築き、2人の子供を育てながら仕事にも励み、幸福な日々を送っているという。
しかし田中は自分もそうだからこそ、山崎がマンネリ化した自分の生活に不満を抱いていることを察知した。彼女は何か新しく刺激的な日々を求めているに違いない、そう思えてならなかった。
それから一ヶ月ほど経ったある日、田中は3年ぶりに会った友人岡田晴信と喫茶店で食事をすることになった。 岡田は近く会社を辞めて自分で起業をすることを考えているらしく、それに向けて資金も集めてきたとのことだった。しかしまだ人が足りておらず、多くの人に声をかけている段階なのだという。
「お前もどうだ?一緒に事業をやらないか?お前は昔から優秀だからぜひ来てくれると助かるんだが」
一瞬田中の心は揺らいだ。この誘いに乗れば、刺激の足りない日常から抜け出すことができるのではないかと思えてきたのだ。しかし今の暮らしがあるからとその日は断った。
田中はあの日から頻繁に山崎と連絡を取り合っていた。そしてまた2人で会わないかと提案した。田中はこのタイミングで彼女と偶然再会したことには深い意味があると思い始めていた。
田中と山崎は2人で会って夕食を済ませた。それから店を出て2人になった時に、田中はついに想いを告げた。
「好きだったんだ、君のことが。あの日君と再会して僕がどれだけ嬉しかったか」
「私もあなたのことが好きだった。でもそれは昔のことよ」
「本当に?」
田中は人目も憚らず高くて大きい声をあげた。まさか叶わないと思っていた初恋が両想いだったなんて、彼の心はさらに昂った。
山崎は涙ながらに続けた。
「でもどうしてあの時にそれを伝えてくれなかったの?私たちはもうそれぞれ家庭があるじゃない?今になってそれを捨てることなんてできない」
「そんなことないさ。僕たちはこうしてまた出会えたんだ。全てをもう一度スタートさせればいいんだ」
「本気で言っているの?あなたは正気じゃない。もう手遅れよ」
山崎はそう言って逃げるように踵を返した。田中にはその背中を見つめることしかできなかった。彼女の言う通りなのだ。もう全ては手遅れなのかもしれない。
それからというもの、田中は仕事にも手がつかなくなった。山崎がそばにいたのなら、こんな何の刺激もない退屈な日常から抜けられるのだと考えると何もかもが腹立たしく思えてきた。
それは満月の夜だった。彼は家に帰ると、妻に喧しく小言を言われた。仕事での飲みに時間を使いすぎている、子供への教育の仕方が間違っているといったことであり、いつもならそんなに気にしないほどのことであった。しかしその時の田中にはそれが深く心に突き刺さった。
きっと山崎であればあんな嫌なものの言い方はしないのだろうなあと思えてきたのだ。そう思っているうちに、彼には山崎が理想の女性であり彼女に出会うことこそ自分の人生の意味だったのではないかとまで考えが発展した。
そう考えるといても立ってもいられなくなった。彼は山崎に「今から会ってほしい」と突然連絡した。半ば強引に彼女を呼び出した彼は、会っていきなり「今から2人で駆け落ちしよう」と提案した。山崎はこの人は気が狂ったのかと思った。しかし山田は本気である。
前と同じように拒否を続ける山崎に対して、山田は一歩も引かなかった。
「お互いのこれまでの日常は間違いだったんだ。実際にああやって僕らは出会えたじゃないか」
「でもどうやって暮らしていくというの?そんなことをしたら私もあなたも今の立場を全て失うことになるわ」
「俺の友人で会社を起業しようとしているやつがいるんだ。そいつに会社に来るように誘われている。必ずその会社は名を上げる。俺がそうしてみせる。君との幸せな日々のためにね」
山崎はもはや拒むことができなかった。気がつけば吸いこまれるように彼の胸元に顔を埋めていた。たしかにこうなることが運命だったのかもしれない、山崎は自分の全てをこの目の前の男に委ねることにした。
2人は街を抜け出し、起業を目前とした岡田のいる街まで逃げた。そして2人は同棲することになった。ここから激動の新しい人生が始まることとなったのである。
しかし岡田が始めた事業は上手くいかず赤字続きだった。当然給料もほとんど入らず、最初は我慢していた山崎もやがて愚痴を言うようになった。
「あなたが会社の事業を成功させるんじゃなかったの?全くそんな気配もないじゃない?私はその言葉を信じてあなたについてきたのよ。これじゃ前の暮らしのほうがよっぽどよかったわ」
この言葉に山田は耐えきれず言い返した。
「何だと?だいたい俺についてきたのはお前の選択だ。頑張って働いている俺にそんな言い方があるか」
「あなたってもっと謙虚で思いやりのある人だと思っていたわ。お金も稼いでこなければ人の気持ちも考えられない。はっきり言って最低よ」
山崎は泣き始めた。自分が取り返しのつかない選択をしたことに今になって気づいたのである。
「うるさい。前の女房ならそんな言い方はしなかったよ。お前なんて連れてくるんじゃなかった」
山崎は返す言葉もなかった。絶望で口が開かなかった。
全てはあとの祭りである。もはやあの駆け落ちより前の日々に戻ることはできない。