第47話 引退馬を救え
競馬は、ドラマではあるが、その一方で深い「闇」が昔から存在する。
それが「引退馬」についてだ。
サラブレッドは、経済動物で、人間にとって「金になる」から使われるが、引退して種牡馬入り出来るのは、ごく少数の活躍馬に限られる。
つまり、それ以外の大半の馬は、引退後の行方が怪しくなる。
これは、2026年秋、1頭の馬の行方から始まった。
「お父さん」
札幌にいる、明日香が父の圭介に電話をしてきたのがきっかけだった。
「おう、元気か、明日香?」
「うん、それはいいんだけど」
彼女の声が、少し緊張しているように圭介は感じていて、妙だと思った。
「ミヤムラストライクって馬、知ってる?」
「ああ、いたな、そんなの」
圭介の何気ない一言は、彼女の機嫌を損ねることになる。
「そんなの、ってひどいなあ。重賞を勝ったでしょ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
正直、子安ファームでは毎年多くの馬が生産され、活躍しているから、特に目立つ活躍をしていない馬というのは、オーナーの圭介の記憶にも残らない。
圭介の拙い記憶では、ミヤムラストライクという馬は、牡で5歳の時に地方の重賞をかろうじて勝っただけで、屈腱炎になったから、この夏頃にやむなく引退したという思いしかない。
「で、その馬がどうした?」
「引退した後、彼はどこに行ったの?」
「さあ」
「さあって、知らないの?」
圭介の記憶では、引退後、種牡馬に入ることができなかった彼を、引き取ってくれるというどこかの業者に任せたという、うっすらとした記憶だけが残っていた。
そのことを話すと、明日香の声がさらに緊迫したように感じた。
「それがどこにもいないんだよね」
「えっ」
話を聞いてみると、ミヤムラストライクは引退後の行方が不明だという。
ただ、この業界、こういうのは決して珍しくはない。
「私、追跡する」
それだけを一方的に告げて、明日香は電話を切ってしまった。
それから数日後。
さらに緊迫した声の明日香から電話が入る。
「お父さん!」
「何だ、何だ、慌てて」
「今すぐ車を出して」
「待て、事情を説明しろ」
いきなり言われて戸惑う圭介に彼女は、恐ろしい事実を告げてきた。
ミヤムラストライクは、引退馬を扱う、とある業者に引き取られたまではわかったらしいが、その後、江別市(=札幌市の近郊)にある食肉業者のところに行ったらしいという情報を、明日香が掴み、それが昨日のことだという。
「わかった」
仕方がないから、圭介は事情を妻に説明して、車を飛ばした。江別駅前で明日香を拾い、車でその業者のところに向かった。
終始、不機嫌な、というより怒りに震えたような表情の明日香が、我が娘ながら怖いと思いつつ、圭介はその食肉業者のところに向かった。
事情を説明すると、
「ああ、その馬でしたら、もうすぐ屠殺されますよ」
とのこと。
明日香の表情が青くなって、瞬時に怒りの赤に変わっていた。
「待って下さい、それ中止です!」
後は、大変だった。
明日香が泣きそうな顔だったので、圭介が代わりに事情を説明し、預けた業者にすぐに連絡。
結局、違約金を支払うことになったが、屠殺を中止させ、馬運車を手配して、子安ファームまで彼、ミヤムラストライクを運ぶことになった。
明日香を札幌の家に送る間、圭介は彼女から責められていた。
「どうしてこんなことになるの? 馬だって生き物だよ。いくら活躍しなかったからと言ってもひどすぎる」
「そうだな。お前の言いたいことはわかる。恐らく日本中でこんなことは行われているだろう。ただ、引退馬を引き取るにも金がかかる。様々な事情でこういうことはある。まあ、今回のように、食肉業者に渡るケースはそんなにないんだが」
「お父さん、私決めた」
「何をだ?」
「少しでも引退馬を救いたい。こんな悲劇はもうたくさんだから」
泣きそうな明日香の表情が、圭介の脳裏に焼き付いた。
現在、サラブレッドは年間7000頭以上生産されているが、引退後の行方が不明な馬は数えきれないほどいる。
運が良ければ、乗馬クラブなどに引き取られて、余生を送る馬もいるが、全く行方がわからない馬はいくらでもいる。
もっとも、昔と違い、今は競馬関係者の間でも理解が深まり、引退馬を引き取ってくれる業者も増えてきたという。
明日香にとって、ある意味、非常にいい勉強になったと圭介は思うのだった。
なお、ミヤムラストライクは、一旦子安ファームに引き取られた後、競馬好きな個人馬主の元に引き取られることになった。
明日香は、それでも心配だったらしく、たまに彼の様子を見に行っていたようだ。
明日香は、近い将来、子安ファームを継ぐつもりらしいが、同時に引退馬を養うことも考え始めていた。




