第42話 大番狂わせ再び
2025年4月。
長女の明日香が、高校に入学した。
彼女はそれなりに頭が良く、偏差値が割と高い高校に入り、場所は札幌市で、牧場からは遠いため、彼女は一人暮らしをすることになった。
父の圭介は、
「せっかく念願だった、娘がリアルJKになったって言うのに、離れ離れなのか?」
泣きそうな顔で明日香に声をかけたため、彼女に苦笑されながら、
「お父さん、キモい」
と突っ込まれていた。
ただ、幸いなことに明日香はまっすぐで、気持ちが優しく、誰からも好かれる子に育っていたから、本心ではなかったようだ。
「私の将来の夢は、子安ファームを継ぐこと。だから心配しなくても、たまに帰ってくるよ。それに札幌競馬場も近くなったし、色々と偵察に使ってくれていいから」
「明日香~」
「だからキモいって」
泣きそうな父をなだめて、彼女は旅立って行った。
残されたのは二人の娘。
中学2年生の麗衣と、小学6年生の麻里だったが、麗衣はすでに中学校卒業と同時に、競馬学校に行くことを決めていた。
唯一、麻里だけがまだ進路が定まっていなかったが。
そんな子安ファームに、驚くべき事態が迫っていた。
それは、明日香が愛している馬の一頭、ミヤムラスイートだった。
前年の秋華賞を制してから、エリザベス女王杯では5着、年明け後のオープンの都大路ステークスでも5着と振るわなかった彼女。
陣営は、安田記念、そして宝塚記念を目標に調整に入った。
その安田記念。
18頭立て、牝馬はミヤムラスイートを含めて2頭のみ。海外勢も含め、強豪揃いのレースで、ミヤムラスイートは17.6倍の10番人気だった。
ところが、最後の直線で3頭が固まって、接戦を演じ、ミヤムラスイートは2着に入っていた。
「2着! マジで! 17.6倍でしょ。すっごいねえ、ミヤムラスイートは」
麻里が大袈裟に驚いていた。
そんなミヤムラスイートが、次に挑んだレースが、宝塚記念だった。
2025年6月15日(日) 阪神11R 宝塚記念(GⅠ)(芝・右・2200m)、天気:晴れ、馬場:稍
宝塚記念は、年末の有馬記念と同時に、「グランプリ」と評される、人気投票馬によって争われるレースだ。
もちろん、圭介たち子安ファームはこのレースを一度も勝ったことがない。
大一番のレースということもあり、圭介たちは関西に飛んだ。
今回は、圭介以外に妻の美里、明日香、麗衣、麻里と家族全員で乗り込んだ。
春のグランプリ・宝塚記念が行われる阪神競馬場、芝・2200mコースは、外回り4コーナー出口からスタート。3~4コーナーは内回りコースを使用。1コーナーまでの距離が525mと長く、スタートが下り坂ということで前半は速いラップになりやすい。ただし、向正面からはペースが落ち着き、全体を通してはゆったりとした流れになる。前が快調に飛ばすと隊列は縦長になりやすい。
内回りのため、瞬発力よりも長くいい脚を使う持続力勝負とされる。スピードの出る前半でタメて、後半で前の馬よりもさらに長い脚を使うことが要求される差し馬は展開が不利。
一方、後方一気もほとんど決まらず、スピードを持続できる先行馬を狙うのがセオリーとされる。ただし、宝塚記念は例年、テンから緩みないハイペースになることが多く、下級条件とは異なり、ラップが大きく前傾するのが特徴と言える。これは梅雨時で馬場が悪化しやすいことも影響している。持続力に富んだ差し馬の活躍が目立っている。
というのが、一般的な宝塚記念、阪神競馬場・芝2200mの特徴とも言える。
ということを、久しぶりに競馬場で会った、坂本美雪に説明された圭介。
「で、美雪さんの予想は? 当然、ミヤムラスイートは来ないでしょう?」
当然、と圭介が言ったのには理由があった。
このレース、前年の宝塚記念優勝馬で、春の金鯱賞(GⅡ)3連覇達成から参戦する8歳のトラファルガーが1.9倍の1番人気。前年の有馬記念から半年ぶりに復帰する5歳のブラックプリンスが3.0倍の2番人気だった。
一方、この年、4歳のミヤムラスイートは38.5倍の11番人気。
過去、子安ファーム所属の馬で、この低人気からGⅠを勝った馬は一頭もいない。おまけに、ミヤムラスイートにとって、これが初めての古馬一線級との戦いだ。
「まあ、順当に行けば、トラファルガーだろうけど、私は来ないと思うな。もう8歳だしね」
「じゃあ?」
「そうだね。本命はブラックプリンス。ミヤムラスイートは大穴だけど、どうかなあ」
圭介もこの人気だと頷かざるを得なかったが、一人納得していない様子の人間がいた。
「でも、私はミヤムラスイートを信じる」
明日香だった。
「まーた、明日香姉さんの崇拝が始まったよ」
と、麻里が呆れたように声を出していたが、意外にも真っすぐに瞳を向けて、冷静に戦況を見つめていたのは、次女の麗衣だった。
「麗衣。何か気になるか?」
「うん。枠入りが上手くいくのかなあ、って。それ次第であの馬は変わると思う」
彼女が言う通り、子安ファーム所属の馬でも最も「枠入り」が面倒で、その枠、つまりゲートに入ることが最初の試練とも言えるのが、「わがまま女王」ことミヤムラスイートだったから圭介は納得した。
唯一のメリットは、鞍上がミヤムラスイートに慣れていて、癖馬の扱いが上手い、岩永騎手だったことくらいだ。
ところが、意外すぎることに、大勢の観客、関係者が見守り、ハラハラドキドキしながら見つめて、最初にゲートに案内されたミヤムラスイートは、珍しくすんなりと枠入りを果たしていた。
そして、ファンファーレが鳴ってスタートとなる。
珍しく、ミヤムラスイートは順調にスタートを切っていた。
レースでは、これまでよりも前目の展開で、15頭中8番手という好位につけ、中団を追走した。
注目のトラファルガーが4番手、ブラックプリンスは6番手を追走。
前半の1000メートルは、59.8秒で通過するスロー寄りのペースだったが、その後のペースが緩まず、先行勢がスタミナを消費しながら先導する展開となっていた。
第3コーナーから余力がなくなる馬が出始め、トラファルガーもその1頭だった。ミヤムラスイートは、第3コーナーから外に持ち出して進出を開始して進路を確保していた。
彼女は余力を残したままに最終コーナーを通過する。
「外からミヤムラスイート!」
そのままブラックプリンスの横に並び、失速するトラファルガーを射程圏内に入れる。
トラファルガーをかわすと、最後の直線では、
「外から何と、ミヤムラスイート。ミヤムラスイートが先頭に代わる」
大歓声に迎えられて、残り200m。ミヤムラスイートが先頭に立っていた。
だが、2着馬との差はほとんどない状態だった。
内側からはブラックプリンスが突っ込んできており、3番人気の馬も内側から末脚を発揮してきていた。
しかし、粘るミヤムラスイートは先頭を譲らないまま、
「なんとミヤムラスイートだ!」
そのまま先頭を駆け抜けていた。
11番人気の馬が1着になるという、まさにジャイアントキリング、大番狂わせで、昨年末の有馬記念におけるファイアフライ以上の、特大の穴馬勝利だった。
阪神競馬場は、歓声というよりも、悲鳴に近い声に溢れていたが、それもそのはず。
単勝で3,850円、馬連で11,390円、3連複で16,320円、3連単で178,840円という、恐ろしい万馬券状態になったからだ。
「えええっ! マジでっ! どうなってんの、この馬!?」
大袈裟に驚いて、文字通り「開いた口が塞がらない」状態の、三女の麻里。
「……すごい」
次女の麗衣もまた、目の前で展開された、信じられない事態に目を見張っていた。
一方、長女の明日香だけが、満足そうに満面の笑みを浮かべていた。
「美雪さん。さすがにこれは予想できなかったでしょう?」
「まあね。いくら岩永騎手が乗ってるとはいえ、低人気のミヤムラスイートが1着になるとは思わなかった」
圭介が尋ねても、彼女ですら予想を外していた。
もちろん、明日香はこのメンバーの中で、一番ホクホクとした、会心の笑顔を見せていた。
「スイートちゃん、2度目のGⅠ勝利。しかも牝馬でグランプリ制覇。やっぱりすごい仔だよ」
「まあ、明日香姉さんは、ウチの馬ならほとんどどの馬でも贔屓にするからね。当てにならないけど」
麻里は、納得がいかないという素ぶりで、不満を漏らしていた。
「これが競馬。ファイアフライ以上のジャイアントキリングが起きるとはね」
麗衣は、目の前で起こった「競馬の奇跡」に近い出来事に、感慨深そうに呟いていた。
こうして、「わがまま女王」と呼ばれて、一時は色々と危惧されていたミヤムラスイートが、牝馬として数十年ぶりという宝塚記念を制したのだった。
同時に、子安ファーム所属の馬としては、最大級の「大番狂わせ」を演じたのだった。




