第39話 大番狂わせ
競馬の世界では、稀に起こることがある。
「大番狂わせ」。英語では「giant killing」、または「upset」とも言う。
子安ファームにおいて、過去、この「大番狂わせ」を演じた馬というのは、実はあまり多くはなく、大抵が1番人気から、せいぜいオッズが低い4番、5番人気で勝った馬が圧倒的に多かった。
その意味では、「つまらない」と言えば、つまらないのだが。
その年の有馬記念は、ある種、異様だった。
2024年12月22日(日) 中山11R 有馬記念(GⅠ)(芝・右・2500m)、天気:晴れ、馬場:良
何しろ、その年のクラシック戦線は、この馬の独壇場だったためだ。
デアフリンガー。
長沢牧場が所有する、この小柄な馬が、クラシック戦線を席巻。皐月賞、日本ダービー、菊花賞をいずれも圧倒的な着差で勝利し、無敗のクラシック三冠を達成。
「衝撃の末脚」と呼ばれた、そのサラブレッドの完成形は、当然、続く有馬記念でも圧倒的な1番人気に推されていた。
単勝オッズが驚異の1.2倍。
菊花賞の時の、1.0倍には及ばないものの、中山競馬場に詰めかけた、大観衆は誰もこのデアフリンガーの勝利を疑いもしていないように、圭介の目には映っていた。
一方で、子安ファームから唯一、出走する馬は、ファイアフライ。牡の4歳の馬だ。4番人気だったが、オッズとしては単勝17.2倍と、デアフリンガーから相当離されていた。オッズだけで見ると、勝ち目がないようにすら見える。
実は彼の戦績で目立つのは、「2着」。
GⅠで言えば、日本ダービー、大阪杯、宝塚記念、そして前走のジャパンカップ。いずれも2着でファンからは「シルバーコレクター」と呼ばれていた。
まだGⅠを1勝も勝っていなかった馬だが、実は秋の天皇賞から騎手が、キール・オベールというフランス人騎手に変わっている。
そして、そのキールが「上手い」という噂はあった。
それに、預けていた栗東の内山厩舎の関係者からは「放牧が明けて秋になると、春とは別の馬のように馬体が成長した」というコメントもあった。
そんわけだが、圭介自身はそんなに期待していなかった。
今回、圭介は娘のうち、騎手を目指すという中学1年生の次女、麗衣を連れて、中山競馬場に乗り込んだ。
お供をするのは、いつもの相馬美織だった。
「まあ、このレースはデアフリンガーで決まりのようなもんだし、騎手を目指すお前にとっては、つまらないかもしれないな」
少し投げやりな気持ちで、圭介は娘に発していたが、その麗衣は、パドックからファイアフライを見つめ、彼とは違う感想を述べるのだった。
「そうでもないと思うよ、お父さん」
「何故だ?」
「競馬は、走ってみないとわからない。最後まで何が起こるかわからないのが競馬。だから面白いんだよ」
「大番狂わせが起こるってことかしら?」
美織の問いに、しかし麗衣は首を横に振った。
「それはさすがにわからないですけどね。でも、私の目から見る限り、ファイアフライの調子は良さそうに思えるんです」
相変わらず、どこか男の子のような口調、そして中学生に思えないくらい、達観したような言葉で、麗衣は呟いていた。
そして、彼らは馬主席に向かい、巨大なスクリーン越しからレースを眺める。
派手なファンファーレの後、出走。
「史上初の無敗の4冠馬、誕生なるか。さあ、デアフリンガーのスタートは!」
もはや実況からして、デアフリンガーが当然勝つかのように声を張り上げる中、始まった、暮れの風物詩、有馬記念。
しかし、レースは意外な展開を見せる。
圧倒的1番人気のデアフリンガーは後方に下がり、最後方へ。
そして、特徴的だったのは、これまで「追い込み」戦法を使うことが多かった、ファイアフライが先行策を取っていたことだった。
(思いきって戦法を変えたな)
圭介の目から見ても、明らかだったが、恐らくこれはベテラン騎手のキールの思い付きだろう。
「おおっ、なんとファイフライが3番手」
実況が驚くように、いつもは後ろの方にいるはずの、ファイアフライが先頭集団に近い3番手を進んでいた。
3コーナーに入り、4コーナーに向かう途中。
「さあ、デアフリンガーはどこで動く?」
実況の声と、そのデアフリンガーを推す、無数の観客の大歓声が重なって、中山競馬場には異様な雰囲気が流れていた。
4コーナーを回って、ハナを奪っていたのは、何と誰もが予想していなかったはずのファイアフライだった。
「外からデアフリンガー!」
予想通り、最後の直線で猛烈な末脚を発揮して、上がってきたのはデアフリンガー。
しかし、
「デアフリンガーが捕らえる、捕らえる。しかし、先頭はまだファイアフライだ」
「ファイアフライ先頭、しかしデアフリンガーが迫る。デアフリンガー、しかし何とファイアフライだ!」
ゴール板を先頭で駆け抜けたのは、圧倒的1番人気ではなく、4番人気の伏兵、ファイアフライだった。
その瞬間、場内にはほとんど悲鳴に似たような声が溢れていた。
「マジか!」
「ありえねえ!」
「何でファイアフライ!」
ほとんど「怨嗟」の声に近いくらい、1着になったファイアフライに対する祝福の声はなかった。
誰もが、圧倒的な走りを見せた、3歳無冠の帝王の勝利を疑いもしていなかったのだ。
「デアフリンガー、敗れる!」
歓声と悲鳴が混じり、混沌とした状態の中山競馬場。
しかし、ファイアフライの騎手、キールは手を上げて、歓声に応えていた。
「勝ったのは、ファイアフライ。悲願のGⅠ初制覇!」
大歓声と、混乱したような声に包まれる中山競馬場のターフを上から眺めながら、圭介は声にならない声を上げていた。
「え、マジで勝ったの?」
「お父さん。だから言ったでしょ。勝負は最後までわからないって」
「それにしても見事ですね、キール騎手」
圭介の声に、麗衣と美織が応じていた。
勝ったのは、ファイアフライ。
無冠の帝王、無敗の三冠馬をまさに「大番狂わせ」で勝ったファイアフライ。
このファイアフライが、後に種牡馬として、名を上げることになろうとは、この時、誰も思ってはいなかった。
そして、キール騎手は、これが日本での初重賞制覇と同時に、初GⅠ制覇だった。世間がこのキール・オベールという名騎手のことを知るようになるきっかけにもなるレースになるのだった。




