第35話 ドラゴン伝説
2024年、6月。
ミヤムラドラゴンは、一度も勝ったことがない、1600mのマイル戦、GⅠの安田記念に出走。
危なげなく勝利し、GⅠ通算4勝目を達成。
同年、夏。
いわゆるサマースプリントシリーズに、ミヤムラドラゴンが参戦。これは芝の短距離の素質馬を対象として、6つの短距離重賞競走において出走した競走馬の成績をポイント化。
最終的に最もポイントを多く獲得した総合優勝馬に5000万円(馬主に4000万円、厩舎関係者に1000万円)の報奨金を贈呈するというものだ。
つまり、勝てば圭介にも4000万円が入ってくる。
当然、彼は自分の馬を応援した。
が、
「1着は、ムーンフォートレス!」
秋初戦に行われた、セントウルステークス(GⅡ)において、ミヤムラドラゴンは、58キロの斤量を課され、逃げ馬であるムーンフォートレスの先行を許し、2着になっていた。
陣営は、ミヤムラドラゴンの「引退」をすでに考え始めており、馬主である圭介にも、
「次で負けたら引退させます」
と告げていた。
その次がやってくる。
かつて、アスカチャンで初制覇し、昨年はこのミヤムラドラゴンがあっさりと勝っていた、秋のスプリンター王者決定戦だ。
2024年9月29日(日) 中山競馬場 11R スプリンターズステークス(GⅠ)(芝・右・1200m)、天気:曇り、馬場:良
勝てば連覇、負ければ引退。
そんな悲壮な雰囲気が漂う、というより圭介と関係者以外は知らないから、圭介の内心では、そう思っていたレース。
いつものように、長女の明日香と、相馬美織を連れて行った。
ミヤムラドラゴンに期待を込めている、結城真尋は、
「ま、勝つでしょ」
と、全然疑いもしていなかったためか、ついては来なかった。
そして、このレースにおいて。
ミヤムラドラゴンは、単勝1.2倍の圧倒的一番人気で、5枠10番に入る。鞍上は去年、香港でも勝った、伊勢騎手が務める。
一方、ムーンフォートレスは、単勝6.7倍の2番人気。4枠8番に入る。
大勢は、ミヤムラドラゴンの圧勝、もしくはムーンフォートレスが粘るか、くらいに思われていた。
そのレースにおいて。
いつものように、中山競馬場の馬主席でファンファーレを聞きながら、レースに見入る三人。
「スタートしました」
展開は、奇しくも前走と全く同じようになっていた。
つまり、「逃げ馬」のムーンフォートレスが先頭を突っ切る。
ミヤムラドラゴンは、中団の6番手辺りを追走。
そのまま、レースは淀みなく流れ、最終コーナーに差し掛かる。
そして、
「さあ、逃げるムーンフォートレス。追う、ミヤムラドラゴン。リードは2馬身ある」
中山の最後の直線は310mと短いが、急坂が待っている。
そんな中、ゴールまで残り200m付近。
「しかし、間から10番のミーヤムラドラゴン!」
春のスプリンター決定戦、高松宮記念の時と同じ、特徴的な実況アナウンサーの声が響く。
「世界のミーヤムラドラゴン! ゴールイン!」
さらに大歓声の中、
「世界のミーヤムラドラゴン!」
またも連呼していた。
「勝ったか」
「やっぱり、格が違うね、この仔は」
「そうですね。種牡馬になっても期待できます」
圭介、明日香、そして美織が感想を述べる。
ミヤムラドラゴンの引退は取り消された。
そして、このレース、スプリンターズステークスの連覇は、10数年ぶりという快挙でもあった。
今やまさに「スプリント界の頂点」に立つ存在になった、ミヤムラドラゴン。
彼は、史上初となる国内スプリントGIを3勝、短距離GIの5連勝を達成した。
だが、陣営はすでに彼の引退を決めており、引退レースは、珍しく海外の香港スプリントになるようだった。
そして、その年の秋のクラシックがやってくる。
子安ファームとしては、この年、牡馬に強力な所有馬がいなかったので、直接的には関係ないが、圭介たちはある事情で、京都競馬場へ向かった。
圭介、明日香、美織の三人が向かった先は、京都競馬場の馬主席。
そこには、「彼」のオーナー、長沢春子の姿があった。
シックな白いドレス姿に身を包んだ彼女が、彼らを招待したのだった。
「長沢さん。お久しぶりです」
明日香が礼儀正しく頭を下げると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「あら、明日香ちゃん。大きくなったわね」
まるで親戚のおばさんが、姪っ子を見るような目で、彼女は明日香を見つめていた。
「長沢さん。ご招待ありがとうございます。デアフリンガーのレース、拝見します」
圭介も礼を述べる。
それはこのレースが、恐らく「歴史に残る」レースになるからだ。
長沢春子は、かつてのいじわるな性格が嘘のように、丸くなっており、わざわざ三人を招待するため、航空機のチケットまで手配して、送ってくれたのだ。
そこに、かつてのようなライバル心を見出せない圭介は、一応表向きには警戒心は解いていたが、心の底から彼女のことを信じているわけではなかった。ただ、それでもこのレースを見ることに価値はあると思っていたし、いずれ馬主になるなら、明日香にはいい勉強になるとも思っていた。
その菊花賞。10月20日に行われたのだが。
「1.0倍! それって100円賭けて勝っても100円が戻ってくるだけってことでしょ。すごい!」
明日香が、スポーツ新聞の馬柱を見て、驚愕の表情を見せていた。
そう。このクラシック第三戦において、デアフリンガーの人気は爆発的で、単勝オッズが1.0倍。もはや賭ける意味すらないようなオッズだった。
ちなみに2番人気は、20.6倍。
もはや観客は、「どの馬が勝つか」より「デアフリンガーがどう勝つか」にしか興味がない、と言えるくらいの驚異的なオッズだった。
そして、そのレースにおいては。
デアフリンガーは、好スタートを切ったものの、スタート後の最初の3コーナーから掛かってしまう。そのため鞍上の騎手はデアフリンガーを馬群の内側に入れ、前に行くのを防いでいた。
その後、彼は馬群中団で落ち着く。
そして、最終コーナーを回って最後の直線。
先に抜け出していた6番人気の馬に残り200m付近で追いつくと。
「並んだ、並んだ。ここでかわす!」
あっさりとかわすと、
「そのまま突き放す。無敗の三冠馬の誕生だ。リードを3馬身、今、ゴールイン!」
結局、最終的には、差し切って、2着に2馬身差をつけて圧勝だった。
エルドールは、「無敗」の三冠馬ではなかったが、デアフリンガーは、見事に「無敗三冠馬」となっていた。
大歓声に沸く場内。
そんな中、長沢春子は、明日香と、そして圭介に興味深いことを呟くのだった。
「明日香ちゃん。もし良かったら、私のところで勉強してみない?」
「えっ」
驚いたのは、明日香より圭介の方だった。
一体どういう風の吹き回しだろう、と思った。
かつてはライバル視され、嫌がらせに近いことを受けた身だ。まだ警戒心は解いていなかったが、当の明日香は、
「いいんですか?」
「ええ」
「じゃあ、暇な時に行きます」
あっさりと了承していた。
つまり、学校が終わった後、暇を見つけて彼女は、長沢牧場に行って、春子から直接、馬や馬主のことを勉強するというのだ。
尚も、警戒心を解かずに、圭介は彼女に質問した。
「長沢さん。どうしてですか?」
「どうしてかしらね。私には、子供がいないから、私が持っている技術を彼女に伝えたかったのかもしれない」
その長沢春子の、明日香を見る目が「優しい」ように映り、圭介はようやく警戒心を解いた。
圭介にとっては、想像でしかないが、恐らく長沢春子は、明日香の持つ潜在的な能力に目をつけたのだろう。それがたとえライバルを育てることになるとしても、自分の血を後世に残せない以上、競馬界に貢献するという意味で、明日香を育てたかったのかもしれない。それに彼女自身が明日香を気に入っている節があった。圭介はそう思った。
「では、よろしくお願いします」
と、伝えると、彼女は微笑を浮かべた。
帰り際、長沢と別れてから、圭介は娘に、
「何かあったら、すぐ俺に報告しろ」
と念を押したが、彼女は微笑んだまま、
「大丈夫だよ。心配しすぎ。長沢さんはいい人だよ」
娘の方が、全然気にしていない様子だった。
とにかく、デアフリンガーの無敗三冠が達成され、世間ではその話題で持ち切りになり、ちょっとした競馬ブームが来たか、社会現象のように盛り上がるのだった。
そして、その陰で、努力を続けている馬がいた。
ファイアフライ。
デビュー以来、3歳時に京都新聞杯(GⅡ)で重賞を勝ったのみ。クラシックでは全然勝てず、4歳になったこの年、春の大阪杯(GⅠ)で2着、宝塚記念(GⅠ)でも2着になっており、まだ一度もGⅠを勝っていなかった。
ところが、この目立たない馬が、後に世間を驚愕させることになる。
そして、翌週には圭介たちにとって重要な、牝馬のクラシックレースがやって来る。




