第34話 王子のデビュー
同年、9月。
本格的な秋のGⅠ、秋のクラシック戦線が始まる前。
明日香が、密かに期待している「彼」が意外なところからデビューする。
「岩手、ですか?」
「はい。彼の父、ミヤムラホープが岩手で活躍しましたから」
圭介が預けていた調教師から聞いた情報によると、陣営はミヤムラホープの仔、ミヤムラプリンスを地方競馬の岩手でデビューさせたいという。
正確には、岩手競馬場、水沢競馬場を中心に活躍させたいと。
「わかりました」
電話を切ると、明日香が父の元に駆けてきた。
「お父さん。岩手なら近いでしょ。私も連れていって」
そう言われると思っていた圭介は頷くも、
「近いって言っても、本州だから、そんなに近くはないけどな」
と返していた。
そう。ここは北海道、日高地方。
都会に住んでいる人間には、わからない感覚だが、距離感がおかしい。
周囲には、人家より牧場の方が多いと思われるくらいの広大な土地。
そして、街から街への距離が異常に遠いのが北海道。
そのため、車で行くにしても、一旦、函館まで行って、フェリーで青森に渡り、そこから岩手県に行く必要がある。
飛行機で新千歳空港からいわて花巻空港か青森空港、あるいは仙台空港に行って、そこから車という手もあるが、結局、手間がかかるので、圭介は今回、自家用車で行くことにした。
同乗するのは、明日香以外に今回は牧場長の真尋と、妻の美里もついて来た。
美里は、まるで監視するように圭介に目を配ってきたが、圭介は最初から別に真尋に何かするつもりなど毛頭なかった。
函館からフェリーを乗り継ぎ、青森からは奥州市にある水沢競馬場に向かった。
奥州市は、岩手県でも南の方にあるので、途中で1泊し、翌日、その水沢競馬場に入る。
2024年9月21日(土) 水沢競馬場 6R 新馬戦(ダート・右・850m)、天気:曇り、馬場:重
水沢競馬場は、岩手県競馬組合が主催する競馬場で、地方競馬では一般的な規模の競馬場だ。
1周の距離が1200mで、直線部がホームストレッチとバックストレッチの合計634m。コーナー部が566mになり、各コーナーの長さは141.5m。サイズとしては南関東の浦和競馬場と同じようなサイズになる。
ほぼ楕円形のフラットの競馬場だ。
この特徴的な850mのコースは、出走地点が2コーナーの出口付近、スタートして3、4コーナーを通過し、直線に向かう、非常にシンプルなコース。
短距離のため、最初の位置取りが非常に重要で、逃げ・先行馬が圧倒的に有利になる。ただし、3コーナーまでの直線距離は約320mと長め。
そして、地方競馬と言えば、中央と違い、有力な騎手がいない、荒れにくい(人気上位の馬が勝ちやすい)とも言える。
そんな中、地方の、それもマイナーな岩手県の水沢競馬場。
一応、ミヤムラプリンスは1番人気ではあったが、正直、誰も注目などしていなかった。
が、ミヤムラプリンスはそんな中、あっさりとこの新馬戦に勝利していた。2着には2馬身以上も突き放していた。
結城真尋が、
「おお、意外にやるね」
と、その走りに感心し、明日香が、
「だから言ったでしょ、真尋さん」
と、勝ち誇ったように嬉しそうな声を上げていたが。
「えっ。屈腱炎ですか?」
レース後、帰りの高速道路のパーキングエリアで。
圭介は、預けている陣営から連絡を受け、一旦、車を停めてパーキングエリアで折り返し連絡。
その中で、調教師が言うには、ミヤムラプリンスは左前脚の屈腱炎になり、長期休養に入るという。
せっかく勝ったのに、いきなりの怪我と長期休養。
バルクホルンとは違い、まだ全然結果を残していない中での、不安のスタートになった。
だが、車中で明日香は、力強く宣言していた。
「大丈夫。きっとミヤムラプリンスは戻ってくるよ。バルクホルンがそうだったように」
そう言われても、内心では圭介は、
(いや、バルクホルンは手術は成功したが、まだ戻ってきてはいないけどな)
と思っていた。
そう。一度は屈腱炎になり、回復したが、その後、またも怪我をして、長期休養に入り、手術すらしていたバルクホルン。
彼は、手術こそ成功したが、レースの本格的な復帰はまだだったのだ。
今はまだ、岩手県という地方競馬での小さな出来事、小さなデビューに過ぎなかった。
それが後に、伝説となる存在になろうとはこの時、誰も思ってはいなかった。
だが、間違いなく、この日が「王子の伝説」のスタートとなった。




