第33話 伝説の馬と、わがまま女王のクラシック
2024年。この年のクラシック戦線を賑わせていたのは、1頭の馬だった。
一見すると小柄で、強そうに見えない鹿毛の馬。
ところが、彼がものすごいレースをした。
話は遡るが、1月に行われた、若駒ステークス。
後に「伝説」となるレースがこれだった。
「スタートしました。少しデアフリンガーは遅れ加減。最後方からの競馬になりました」
単勝1.1倍の圧倒的1番人気。しかもデビュー以来無敗のこのデアフリンガーという馬。
長沢牧場の所有馬だった。馬主は長沢春子。
そのままレースは意外な展開を見せ、先頭を突っ切る2頭が後方勢を10馬身以上も突き放していた。
先頭から最後方のデアフリンガーまでは、一時、なんと25馬身も離れていた。
「こりゃ、さすがにダメだ」
誰もがそう思っていた。
そして、ようやく6馬身くらいの差で、最終コーナーから直線に入る。
その瞬間。
空気感が変わった。
突然、彼が動き出したかと思うと、あっという間に他馬をかわしていった。
そのまま急追し、残り200m付近であっさりと先頭をかわすと。
「外からデアフリンガー、すごい足。一気にかわした、かわした。強い、強い!」
「かわして、あっという間に差を7馬身、8馬身と広げる!」
そのまま5馬身差で勝利。
これを見ていた、圭介は思った。
(これは、ある種の化け物だ)
と。
「次元が違う」とはまさにこのことで、1頭だけ別の生き物に思えるくらいの実力差があった。
そのデアフリンガー。
4月のGⅠ、皐月賞。クラシックの第1戦ではあっさりと勝利。鞍上の騎手は一度も鞭を使わなかったという。
一方、牝馬のクラシック戦線では、子安ファーム期待の「わがまま女王」こと、ミヤムラスイートが桜花賞に出走。
ライバルと目されていたのは、マルゲリータという名前の馬で、これが山寺久志所有の馬だった。
この戦いでは、新馬戦、若竹賞、フラワーカップ(GⅢ)と遅まきのデビューながら3戦3勝と乗っていた、マルゲリータが単勝2.8倍の1番人気。
一方、ミヤムラスイートはデビュー以来、ファンタジーステークス(GⅢ)、チューリップ賞(GⅢ)を勝っていたが、阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)では5着。
4勝1敗で、単勝オッズは3.8倍だった。
この大一番を、圭介たちはこの時、用事があって行けず、ネット中継から眺めていたが。
「おおっと。ミヤムラスイート、ゲート入りを嫌がっています」
「またか」
実は、彼女は前年の阪神ジュベナイルフィリーズでもゲート入りを嫌がっており、それが悪影響を及ぼしたのか、結果は5着。
そして、ここでもまたゲート入りを嫌がっていた。
「あーあ。やっぱ、わがまま女王は変わらないなあ」
結城真尋が、このレースは見たい、と言うので、圭介は彼女を執務室に呼んだが、その彼女は溜め息交じりに画面を見つめていた。
「でもでも、この仔は強くなると思いますよ、真尋さん」
「そうは言うけどねえ、明日香ちゃん。これだけゲートを嫌がるのはねえ」
などと、明日香と真尋が言っているうちに、何とかゲート入りだけは果たしていたが。
結局、レースでは、スタートこそ五分に出ることができたものの、スローペースの後方追走になり、最後の直線では馬群を縫って追い上げたが、早めに抜け出したマルゲリータには敵わず、さらに他馬にも先行を許し、またも5着と沈んでいた。
「いやあ、期待を裏切らないねえ、わがまま女王は」
真尋は心底呆れたように皮肉を述べ、両手を天に挙げて、そのまま立ち去る仕草を見せたが、その背に、明日香が訴えるように言葉を投げかけた。
「そんなことないですよ、真尋さん。スイートちゃんは、いい仔です。きっとGⅠを勝ってくれます」
明日香は、この通称「わがまま女王」を「スイートちゃん」などという可愛らしいあだ名をつけて呼んでいた。
ある意味、彼女だけがミヤムラスイートのことを本当に理解していたのかもしれない。
そして、続くクラシック第2戦。
牡馬においては、もはや観客の注目は「どう勝つか」に向けられていた。
競馬ファンの間ではデアフリンガーが勝つことが前提で、議論が行われていたし、新聞やインターネットでも同様に、彼が勝つことを予感させる記事しかなかった。
そして、やはり。
残り200m付近で、あっさり追いつき、しかもそこから突き放して、2着に5馬身差をつけて圧勝。
「先頭、デアフリンガー、圧勝、ゴールイン!」
文字通りの「独り舞台」。まさに「格の違い」を見せつけたデアフリンガー。
もはや、三冠は確実と言われるまでになっていた。
そして、その1週間前。
2024年5月19日(日) 東京11R 優駿牝馬(GⅠ)(芝・左・2400m)、天気:曇り、馬場:良
牝馬のクラシック戦線において、最大の難関がこの桜花賞からオークスとも言える。
桜花賞の距離が1600m、対してオークスの距離が2400m。800mも長くなるから、その距離差に適応できないと当然、勝てない。
東京競馬場・芝2400mは左回りコースで、2300m・2500mとの違いはスタートから最初のコーナーまでの距離のみ。
約530mの長い直線が特徴で、途中に高低差2mの急坂がある。
スタートは4コーナー正面手前からで急坂を2度走るので、距離以上にスタミナが必要となる。
また、高速馬場になる事が多く、スピード・瞬発力が大きな武器になるコースと言える。
今回、圭介は勉強のためということもあり、三女の麻里を連れて行くことにした。
従って、明日香と麗衣は留守番だ。
またも、相馬美織を連れて行くが、彼女は性格的に似ているのか、単に馬が合うのか、この三女とは仲が良かったから、二人は楽しそうに会話をしながら東京へと向かった。
その東京競馬場では。
単勝のオッズが1.4倍と圧倒的1番人気のマルゲリータに対し、単勝13.6倍の4番人気に沈んでいたのが、ミヤムラスイートだった。
そして、この東京競馬場では、圭介は久しぶりに彼女と会うことになる。
「レース開始の20分前に、喫煙所に来て」
という一通のメッセージをスマホから受信。
相手は、「緒方マリヤ」だった。
仕方がないので、娘と美織に断りを入れて、15時20分頃に一人向かうと。
彼女が指定したのは、関係者が使うところではなく、一般客が使う喫煙コーナーだった。当然、混んでいた。
そもそも競馬場の喫煙コーナーは昔から混み合うのだ。
そんな中、彼女はタバコを吸って待っていた。
最も、初めて会った時と違い、彼女は紙タバコではなく、電子タバコをくわえていたが。
「お疲れ様、子安オーナー」
片手に競馬新聞を持ち、片手に電子タバコを持ち、おまけに身バレを防ぐためか、わざわざサングラスに帽子までかぶった、妙な女が立っていた。
もっとも、そこは元・アイドル。スタイルだけはいいので、妙に様になっているというか、目立っていたが。
「何だ、こんなところに呼び出して。大体、お前。禁煙したんじゃないのか?」
以前、本人から禁煙したと聞いていた圭介は問いただすように口に出すと同時に、内心では、この煙たい空間から離れたいとも思っていた。
「ああ、それね。知ってる? 『禁煙なんて簡単だ。私は100回以上やった』って言葉があるんだ」
「お前。それ、もう辞める気ないだろ」
呆れて突っ込む圭介に、彼女は電子タバコから煙を吐きながら、呟いた。
「まあ、そんなことはどうでもいいや。ここに来たのには理由があってね」
「何だ? どうせ、『東京だから勝て』とか言うんだろ」
彼女が、故郷でもある東京に並々ならぬ思い入れを抱いているのを圭介は知っていた。
ところが。
「ああ、まあ。それもあるんだけど。ミヤムラプリンスっているでしょ。あなたのところの馬」
「ああ」
「あれを地方で走らせてみない?」
他人の所有馬を「あれ」扱いするのが、圭介には癪に障ったが、今さらこの女の口の悪さをどうこう言うつもりもなかった。
「地方?」
「そう。地方競馬は面白いわよ。中央にはない魅力がある。それにミヤムラプリンスは、父が地方馬だし、体が丈夫じゃないから地方の方が面白そうだし」
そう言えば、そもそも緒方マリヤは、今は地方競馬の馬主になっていることを、圭介は改めて思い出していた。その彼女が推してくれるのだ。悪くはない条件かもしれない、とも思った。
「なるほど。一理はある。まあ、考えておく」
圭介自身も、内心、少しは考えていたのだ。確かにミヤムラプリンスは体が弱かった。つまり、中央のように頻繁に移動する環境より、地方に腰を落ち着けた方がいいのかもしれない、と。
この時は、一応、話半分に聞いて頷いた。
その後、二人は揃って、馬主席に行き、レースを観戦することになった。
1枠1番と縁起がいい、最内枠のミヤムラスイート。対するは、3枠5番。真っ赤な帽子が目立つマルゲリータ。
牝によるクラシック第2戦。
「マルゲリータが好スタートを切っています。そして、今日はミヤムラスイートも好スタートを切っています」
実況の声が響く中、レースが開始される。
スタートは五分に出て、今までより少し前目の中団後方を追走したミヤムラスイート。全体的にスローペースの中、6番人気の馬が早めに抜け出して、大本命のマルゲリータに対抗。ミヤムラスイートはそのマルゲリータの直後に位置を取っていた。
直線では、マルゲリータが伸びなかった。そんな中、ミヤムラスイートは。
「外からミヤムラスイート!」
最後の残り200m付近から強烈な末脚を見せて、マルゲリータを外からをかわすことに成功。
しかし、最終的には6番人気の馬には届かず、4分の3馬身差の2着に終わっていた。マルゲリータは、4着に終わる。
「惜しい!」
思わず、興奮気味に麻里が叫んでいた。
こうして、「わがまま女王」ことミヤムラスイートは、才能の片鱗を見せながらも、春のクラシック戦線では勝ちきれずに終わった。
同時に、圭介は、ミヤムラプリンスの「デビュー」について考えさせられることになるのだった。




