第31話 それぞれの将来
令和6年(2024年)、春、3月。
この子安ファームから、一人の若者が旅立ったことから、彼女たちの「将来」がにわかに動き出す。
父・結城亨、母・結城真尋。その間の一人息子、結城薫、15歳。
彼は予定通り、というより彼自身の夢を叶えるため、この春、ここを巣立って、あるところに入るため、関東に旅立った。
日本中央競馬会競馬学校(千葉県白井市)
北総線の白井駅と西白井駅に挟まれた土地にあり、中山競馬場や美浦トレーニングセンターにほど近い場所にある、「騎手養成学校」だ。
結城薫は弱冠15歳にして、この学校に入学を果たした。
そもそもここに入るだけでも厳しい条件を突破しなければならない。
そんな中、彼は信念を持って、試験に挑み、見事に難関を突破したのだ。
ここから3年間の騎手養成期間を経て、4年後には彼は正式に騎手としてデビューする予定だ。
結城親子はもちろん、親交のあった、というより、数少ない男同士で話しやすい関係でもあった、圭介もまた彼を見送った。
「がんばれよ、薫。だが、ツラくなったらいつでも戻ってこい」
「うん。ありがとう、圭介さん」
彼は、爽やかな笑顔を浮かべて、見送る家族や圭介たちに手を振って、ここ日高地方から旅立って行った。
その後ろ姿を、熱いまなざしで見つめる少女が一人いた。
圭介はそれに気づいていた。彼女の名は「麻里」。
翌日の子安ファーム、牧場にて。その日は日曜日だった。学校は休みだ。
だが、むしろ圭介たち馬主にとっては、土日こそ忙しい。何しろ競馬のレースの大半は土日に行われることが多いからだ。ふと、圭介が業務の合間の息抜きに、牧場に出かけると。
綺麗な歌声が聞こえてきた。
その声に聞き覚えのあった彼は、声が聞こえてくる方向にゆっくりと歩きだす。
すると、牧場の端の木柵の上に座って、歌声を上げていた少女がいた。
「One and only darling 駆けぬける ゼブラのストライプ」
それを聞いて、圭介は内心、
(なんて懐かしい歌を歌ってるんだ)
と思うのだった。しかも、幼い少女が歌う割には、歌が抜群に上手かった。元々、彼女は歌を歌うのが好きだったが、妙な才能を持っていたのだ。
「世界でいちばん熱くひかる夏~」
それは、何しろ1987年に発売された、某有名ガールズバンドの有名な曲の一節だったからだ。圭介でさえ、10歳くらいの頃に聞いた曲だった。
「麻里。何で、そんな古い歌、知ってるんだ? そもそもお前、産まれてないだろ」
思わず突っ込んだ圭介に、気づいた彼女は明るい笑顔を見せた。
「あ、お父さんだ!」
木柵から元気よく、飛び降りて彼女は、笑顔で父に対面する。
この時、まだ10歳。この年、11歳になる小学4年生の麻里。
彼女は、
「いい歌でしょ。知ってる、お父さん? 本当にいい歌ってのはね、時代を超えるんだよ」
と、妙なことを発するのだった。
(年の割には、渋い考え方だな)
と、圭介は思うのだが、彼は彼女が、薫の旅立ちに熱い視線を送っているのに気づいていた。
「薫がいなくなって、寂しいか?」
最初は、麻里が薫のことを好きだから、いなくなって寂しいのか、と圭介は思っていたのだ。それくらい二人は年が離れているのに、仲が良かったのだ。いとこ同士が親という、はとこの関係にある二人だったが、恋仲になってもおかしくないと思うほどだった。
ところが、彼女は首を横に振った。
「ううん、別に」
「そうなのか?」
「うん。薫さんがいなくなって、そりゃ少しは寂しいけどね。でも、私は騎手になりたかったのになれないことが悔しい」
そのことが麻里の心の内面を示唆していた。
つまり、実は彼女はこの頃から、眼鏡をかけ始めていたのだ。
明確に視力が落ちていた。
騎手になる条件として、矯正視力で両眼とも0.8以上というのがある。麻里は何にでも興味を示し、最初は騎手になりたかったらしいが、その後で、色々なことに挑戦。
おまけにゲームをしたり、スマホをいじったりしていたので、明らかに視力が落ちていたのだ。
さらに、実は身長も三姉妹の中で、最も急成長していたのもあった。このまま成長すると、騎手になるには難しくなる。
彼女が言っていたのはそのことで、「薫がいなくなって寂しい」というより「目標となった薫と同じ場所に立てないのが悔しい」と言っていたのだ。
「まあ、そりゃしょうがないな。それに騎手になることだけがすべてじゃない」
「そうなんだけどねぇ」
二人が話していると、今度は馬に乗った少女が目の前に近づいて来た。
黒鹿毛の馬にまたがった、小柄な少女は、小さな体に似つかわしくないほど、華麗に馬の手綱を操っており、一見すると、いっぱしの騎手にすら見えるほどだった。
その見事に手慣れた動きで、大柄な馬を操っている少女が、圭介と麻里の姿に気づいて、二人の前で馬の歩を止めた。
そして、ゆっくりと馬から降りると、
「よしよし」
と、馬の首を撫でて彼を労うような仕草を見せた。馬もまた彼女には慣れているというか、懐いているようにも見える。
その馬は、現在2歳。間もなくこの子安ファームから入厩する予定の青鹿毛の牡馬だった。
「麗衣」
次女の麗衣。この時、12歳。もう間もなく13歳になり、中学1年生になる。
その麗衣は小さい頃こそ、父に懐かない子だったが、さすがにこの年になると、父とも打ち解けてはいた。
いたが、相変わらずどこか子供っぽくない、クールで大人びたところがある少女で、口数が少ない子だった。
そんな彼女が、二人を見て、声をかけた。
「お父さん、麻里。こんなところで何してるの?」
「ただの休憩だ。お前こそ何してるんだ?」
「私は、馬の騎乗訓練」
「騎乗訓練?」
唐突に飛び出した言葉に、圭介は驚いて聞き返していた。
「そう。私、将来、騎手になるから」
「えっ」
「ええっ!」
最初の「えっ」が圭介、後の「ええっ!」が麻里。彼女は大袈裟なくらい反応し、驚きを隠せないようだった。
「マジでか?」
「ちょっと、麗衣姉さん。マジで言ってんの? 薫さんに影響受けすぎじゃない?」
「マジ。私は前から考えていたから。体格的にも問題ないでしょ、お父さん」
「うん、まあそうだけど」
圭介が見たところ、確かに麗衣は、麻里よりも「適性」面では騎手に向いていた。
身長が小さくて小柄、視力も悪くない。その上、彼女は運動神経が抜群で、見事な体幹とバランス感覚を持っていた。
少なくとも、麻里よりははるかに騎手に向いていたのだ。
「何か言いたげな顔だね、お父さん」
それを表情だけで察した、麗衣。彼女は頭の回転も速かった。つまり、三姉妹の中で実は「隠れた優秀さ」を持っていると圭介は見ていた。
表向きには、明日香が優秀に見える。だが、麗衣には明日香にはない、大胆さというか、思いきりの良さがあった。
おまけに、いつでも冷静で物怖じしない。
「まあ、今はまだいいさ。3年後、今と同じ気持ちだったら、競馬学校に挑戦してみろ」
「わかった。期待は裏切らない。それじゃ」
それだけを言い残すと、彼女はまた颯爽と馬を操り、立ち去って行ったのだった。
残された麻里は、ショックを受けたように、呆然と立ち去って行く馬の姉の後ろ姿を見つめていた。
「悔しいか、麻里?」
「別にー。騎手になることだけがすべてじゃないんでしょ」
そうは言っていたが、表情が「悔しい」と語っているようで、圭介は微笑みながらも、小さな娘の頭を撫でていた。
そして、長女の明日香は。
この頃、すでに14歳の中学2年生。この春から中学3年生になり、進路を考える年。
その明日香は、人知れず猛烈に勉強していた。
それは、「馬」全般に関わることから、経営学、株のことまで幅広かった。
彼女は、口には出さなかったが、この頃から将来について考え始めていた。
その夢とは、
「馬主になる」
というもので、父の跡を継いで、馬主になりたい、と考え始めていたのだ。
そのことを、とある夕食の時、明日香が家族に打ち明けたところ。
圭介は笑いながら、
「それはいいが、俺はまだまだ引退する気なんてないぞ」
と、返したのだが、妻の美里は、むしろ乗り気で、
「いいかもね。長沢さんだって女で馬主してるんだし。この人がやるよりあなたがやった方が余程いいわ」
と、むしろ夫を下げるようなことを口走ったので、圭介は慌てて、
「そりゃ、ないだろ、美里」
と突っ込んでいた。
「冗談よ。まあ、あなたもせいぜい娘に地位を奪われないように頑張ることね。成績が悪くなったら、私の一存で変えるから」
「お前の独裁かよ!」
美里の冗談とも本気ともつかない一言に、圭介は戦々恐々とする中、明日香は満足そうに笑みを見せていた。
「じゃあ、お父さんが最大のライバルだね」
「ライバルじゃねえ!」
家族に笑いの声が溢れる中、娘たちの将来が少しずつ動き出すのだった。
もっとも、騎手になるという夢が、実質的に破れた三女の麻里だけは、まだ将来の展望が決まっていなかったが。




