第3話 将来のエース候補
同年、平成30年(2018年)、4月。
「産まれたよ!」
牧場長の真尋の大きな声が電話越しに響いた。
圭介が、秘書的立場でもある妻の美里と、まだ幼い麻里を連れて、厩舎に向かうと。
今、まさに新しい命が誕生していた。
馬の一生の始まりである。
同時に、この瞬間から、彼らのアスリート人生が始まるのだが。
出産の手伝いを主導した牧場長の真尋、それを手伝う美織から少し離れたところに、その幼い馬の仔に熱い視線を向ける少女が一人佇んでいた。
「どうした、明日香?」
圭介が声をかけると、彼女は、
「うん……」
と、呟いてから尚もじっとその仔を見つめていた。
子供ながらに、勘が鋭いところがある彼女は、すでに何かを感じ取っていたのかもしれない。
ちなみに、産まれた仔は牡。
父は、かつて皐月賞、日本ダービーを圧倒的な成績で勝利した後、怪我に見舞われて、菊花賞に出ることなく、惜しくも引退。「幻の三冠馬」と呼ばれた、エイブラムスという馬だった。
母は、ほとんど無名の繁殖牝馬。
しかし、この父の血統が期待されており、昨年、圭介が主導して種付けをしたのだ。
栗毛が美しい、綺麗な仔馬で、産まれたばかりだから、もちろんまだ立ち上がることも出来ないし、一見すると何の変哲もない、ただの仔馬だ。
「パパ。この仔は、きっと強くなるよ」
そう力強い瞳を父に向けてきたのが、圭介には気になった。
「強くなる?」
「うん。そんな予感がするんだ」
それを耳にして、妻の美里は、呆れ気味に、
「まあ、子供の言うことだからね。当てにならないよ」
と、ほとんど投げやりに呟いていたから、明日香は敏感に、
「本当だって」
と反応していた。
圭介は、長女の小さな頭を撫でながら、この小さな才能を持つ我が子に声をかける。
「俺は信じるよ、明日香」
「ありがとう、パパ」
花が咲くように、にっこりと満面の笑顔を見せる明日香。
そして、この仔が、後々までこの子安ファームを「支える」存在になるとは、もちろんこの時、誰も思わなかった。
名前は、通常、1歳になってから名付けられることが多いが、明日香が、
「早く名前をつけてあげて」
などと、せがむため、圭介は仕方がなく、すぐに名前を考えた。
「そうだな。バルクホルンがいいかな」
「バルクホルン? どういう意味?」
妻の美里の問いに、圭介はもはやお約束になっている、事情を説明する。
「ゲルハルト・バルクホルン。第二次世界大戦における、ドイツ空軍のトップエースの名前だ」
その一言に、
「あ、そう」
もはや呆れて、興味を示さなくなった美里に対し、逆に鋭く反応したのは、美織だった。
「いいですね! 撃墜スコアは確か300機以上。ハルトマンに次ぐ、ドイツのトップエースです。確か鉄十字勲章までもらってましたよね?」
「お、相馬。詳しいな」
「ええ、父からよく教わりました」
それを聞いて、美里は、冷たいというか、呆れたような目を向けて、内心ではこう思っていた。
(一体、娘に何を教えてるのよ、相馬さん)
と。
ちなみに、ハルトマンとは、エーリヒ・ハルトマン。バルクホルンと同じく、第二次世界大戦における、ドイツ空軍のトップエースで、空中戦での撃墜機数は戦史上最多の352機。
乗機Bf 109G-4/R6の機首に黒いチューリップ風のマーキングをしていたため、ソ連空軍から「黒い悪魔」と恐れられた存在だった。
なお、「鉄十字勲章」とは、ドイツを中心に中世以来使用されてきた紋章であり、通常は鉄十字の意匠を象った勲章のことを指す。プロイセン及びドイツで戦功のあった軍人に対して授与された勲章をこの名で呼ぶことが多い。
何故、圭介がこのハルトマンではなく、2番目のバルクホルンと名付けたのかは、本人以外は誰も理由を知らなかったが。
とにかく、明日香が期待する、「将来のエース候補」、バルクホルンが今、密かに誕生したのだった。