第2話 子供たちと期待の星
あれから10年。
圭介は振り返っていた。
10年前に今の妻、美里に告白した時、彼女が「全てのGⅠレースに勝つ」ようなことを彼に言っていた。
そのうち、実際にこの10年で彼らの所有馬が勝ったG1レースは、マイルチャンピオンシップ、安田記念、そして有馬記念のみ。
さすがに思うように勝てていなかったが、それでも現実にはそれだけ勝てるだけ幸せとも言える。
なお、10年前にクラシック二冠を達成した後、骨折により菊花賞を逃した、ミヤムラシンゲキオーは、その後、紆余曲折を経て、復活して、有馬記念で勝ったのだ。
それ以外に、いくつかの馬が重賞を勝ったが、マイル戦線ではそこそこ勝てても、それ以外の重賞、特にGⅠレースの壁は思ったより厚く、GⅠを勝つことは難しかったのだ。
その日の夕食時。
この時だけは、家族が一堂に会して、食事を摂る。
その中で、圭介のすぐ傍に、飼い猫のように懐いて従って、隣の子供用の椅子にちょこんと可愛らしく腰かけていたのは、長女の明日香。
だが、その反面。
少し遠いところに、逆に母に子猫のように懐いて、離れようとしない娘もいた。
明日香より小さいその子は、7歳の次女、麗衣。セミロングの髪に、まだ小柄な体躯の彼女は、どこか父に対してはよそよそしくて、懐かず、反対に母にばかり懐いていたから、圭介は内心、寂しいと思っていた。
そして、もう一人。長女とも次女とも違い、どこか奔放で、勝手に動き回る、落ち着きのない少女がいた。
三女の麻里。こちらはロングヘアーで、まだ幼稚園児の5歳。彼女は子供の中では一番奔放で、危なっかしいところがあったが、その性格からか、母の美里が面倒を見ていた。
ちなみに、この時期、北海道の学校は長い冬休み期間に入っている関係で、彼女たちは常に家であるここにいたのだ。
さらにもう一人。
「お母さん、これ美味い!」
ガツガツと、箸を動かして、晩餐の牛肉を食べている、元気のよさそうな、短髪の少年がいた。
彼の名前は、結城薫。そう、結城亨・真尋夫婦の長男だった。2008年生まれの10歳。この中の子供では一番年長だが、精神的な年齢は幼かった。
「こら、お行儀よく食べなさい」
今やすっかりギャルの部分が抜けて、母親の顔をしている真尋がたしなめていた。
「……」
相変わらず無口な亨は、自分の子を無言で見守っているだけだったが。
「それで、あなた。アスカチャンのデビューはいつ頃になりそう?」
妻の美里が離れた位置から圭介に尋ねる。
アスカチャン。この馬は2歳の牝だが、もちろん圭介が娘にちなんで名づけていた。そのアスカチャン、芦毛の綺麗な馬だが、まだデビューは決まっていなかった。
現在、このコヤスファームには複数の馬がいて、デビュー前の時期を過ごしているが、そのうちの1頭だった。
「まだわからん。恐らく今年の秋以降だろうな」
「どう? 活躍しそう? せっかくアスカチャンって名付けたんだから……」
妻の美里が言いかけたのを、聞いていた、同名の明日香が遮った。
「ママ。アスカチャンはすごいよ。きっと大活躍する」
確信めいた一言を、自信満々に告げる娘に、母の美里は、
「はいはい」
ほとんど、受け流しているように相槌を打っていた。
「むー。ママ、信じてない」
「信じてるよ」
「ウソだ。パパなら信じてくれるよね?」
「ああ。俺はいつだって、明日香の味方だ」
「ホント? 嬉しい!」
圭介は、この長女に殊の外甘かった。
そして、実はもう1頭。
現在、1歳を迎えたデビュー前の馬がいた。
その馬こそ、実は密かに圭介が期待をかけていた馬だった。
2017年生まれの1歳。
父の名前は、ミヤムラシンゲキオー。
そう、かつてのクラシック二冠馬だ。
母はアメリカ産の馬だが、血統もよく、その血筋から早くも将来を期待していた。
内心では、
(父、ミヤムラシンゲキオーが果たせなかった、クラシック三冠を果たしてほしい)
と、圭介は常に思っていたのだ。
その圭介の心を知ってか、知らずか、たまたまか、美織が呟いた。
彼女だけは、この中で唯一、家族と離れているが、寂しさを感じさせない明るい態度を崩さない。
「オーナー。1歳のミヤムラシンゲキオーの子ですが」
「どうした?」
「あれは、天才肌ですね」
「天才肌?」
「ええ。まだ1歳とは思えないほどの跳躍力を持ち、パワーもスタミナもあります。鍛えればすごい馬になる可能性はあります」
「さすが美織ちゃん。よく見てるね」
その美織に、真尋が感心するように、頷いていた。
「真尋の見立てはどうだ?」
圭介が、牧場長の彼女にも話を振る。
「そうだね。美織ちゃんの言うように、将来性は高いよ。ただし、シンゲキオーと同じような怪我をしなければ、だけどね」
「それを何とかするのが、お前たちや調教師の役目だろ」
「まあ、そうだけど。運もあるからね」
「そうか。まあ、2年後に期待する」
その1歳の期待の星、ミヤムラシンゲキオーの子。まだ名前すらつけていないことに、圭介は改めて思い出していた。
そして、即断即決で決めてしまう。
「エルドールだな」
と。
「えっ?」
聞き返したのは、真尋だ。
「そのシンゲキオーの子の名前だ」
「どういう意味?」
「フランス語で『黄金の翼』という意味だ」
圭介が淀みなく告げると、周りの連中は、意外そうに目を丸くした。
そもそも、彼がフランス語を知っていることに驚いたのだが、実は圭介自身、大学生時代に第二外国語でフランス語を選択していたのと、多少勉強していたからだった。
もちろん、将来的に「凱旋門賞」に所有馬が出走した時のために備えているのだ。
彼としては、「黄金」にも見える、綺麗な栗毛の馬体が特徴的な馬だったので、ほとんど直感的に名付けたのだったが。
ちなみに、フランス語で「Aile」は翼、「d'or」(de+or)あるいは「or」で黄金という意味になる。
こうして、彼らの所有する馬が、再び大きなレースを目指すことになるのだが、本格的な始動は、まだまだ先のことだった。