第19話 栄光への前哨戦
2021年9月初頭。
圭介は、渡仏した。
長女の明日香は、最後まで、
「私も行きたい!」
と駄々をこねていたが、圭介と美里が、
「学校があるでしょ」
「そんなの休む」
「ダメ」
とやり取りをして、結局、居残ることになった。
今回、渡仏したのは、圭介と美里の夫婦のみ。
他の子安ファームのメンバーは、全員日本で待機となった。
そして、フランスにて。
「Bienvenue、ようこそ、フランスへ!」
彼女がシャルルドゴール空港まで出迎えてくれるのだった。
アニエス・大原が、普段着のようなラフな格好で、彼らを出迎え、彼女の手配で滞在先となるコンドミニアムまで案内してくれた。
コンドミニアムとは、ウィークリーマンション的な施設で、中長期の滞在を目的とし、キッチンがついているマンション風の宿泊施設兼アパートメントでもあり、パリの16区、オートゥイユの辺りにあった。
何しろ、圭介たちはこれから凱旋門賞までの約1か月間、パリに滞在するためだ。ホテルに泊まるよりは安くつく。
荷物をコンドミニアムに入れて、明日からの調教師とのプランを見直しながら、くつろいでいると、美里は目を細めて睨むように告げてきた。
「ふーん。アニエス・大原さんね。あなた好みのボン・キュッ・ボンの女優さんみたいな人ね」
「何言ってんだ、お前。アニエスさんとはそんなんじゃ」
「どうだか」
あっという間に妻の機嫌が悪くなっており、圭介はその機嫌を直すのに苦労するのだった。
結局、気晴らしと観光を兼ねて、パリの街に繰り出し、近くのセーヌ川の川岸を散策したり、エッフェル塔を見に行ったりしたのだった。
そして、しばらく過ごした後。
2021年9月12日(日) パリ・ロンシャン競馬場 6R フォワ賞(GⅡ)(芝・右・2400m)、天気:晴れ、馬場:良
圭介たちはこのレースを観戦することになった。
付き添ったのは、フランスで馬主秘書をしている、アニエス・大原。そして、彼女の父で、世界的な大馬主でもある、クレマン・ルゴフも姿を現していた。
初対面ということで、アニエスが仲介して挨拶を交わす、圭介と美里、クレマン。
クレマン・ルゴフという男は、皺が多い、初老の男で、白髪交じりの髭面の大男だった。アニエスからは想像もつかないほどに、厳つい雰囲気の男だったが、彼はフランス語しかしゃべれず、日本語はほとんど話せないため、アニエスが通訳をした。
その結果、
「エルドールは、悪くない」
とのことだった。
(悪くない、か)
圭介としては、その一言が引っ掛かるのだった。
決して、「いい」とは言われていないからだ。
今回のフォワ賞は、5頭立ての少数頭で行われた。
フランスの、というよりも海外の多くの競馬場では、日本のように派手なファンファーレ演奏などはない。
いきなり唐突にレースが始まる印象で、初めて見る日本人は驚く。
レースでは、エルドールは、最後方で待機。全体的に超スローペースになったことで道中で行きたがる素振りも見せていたが、現地の騎手がそれを抑え込んでいた。
そして、最後の直線では開けた、最内を一気に追い上げ、GⅠを3勝している現地の馬を突き放し優勝していた。
そのことに、
「Félicitations!」
大げさなくらい喜びの声を上げていた、娘のアニエスに対し、その父のクレマンは渋い表情を崩していなかった。
その後、せっかくなので、ロンシャン競馬場を案内してもらい、軽い昼食を摂ることになった。
彼らの案内で、街、つまりパリに出て、シャンゼリゼ通りにある有名なカフェに入った4人。
話は、当然、この先の10月に行われる、凱旋門賞のことに及んだ。
「エルドールは、勝てると思いますか?」
圭介は、通訳のアニエスを通じて、クレマンに尋ねていた。
彼は、相変わらず渋い表情で、コーヒーの口に含み、その後、間を置いて、とある日本の馬の名を挙げた。
「リヒトホーフェン」
圭介にも聞き取れていた、その名前。
20数年前の凱旋門賞に挑み、日本勢初、そして唯一の2着という好成績を収めた、名馬だが、彼はそのことを語り出したのだ。
以下、アニエスの通訳による説明になる。
「リヒトホーフェンは、速かった。何しろ、ジョッケクルブ賞(=フランスダービー)、アイルランドダービー、ニエル賞を制した、あのフォンクをあと一歩のところまで追いつめたのだ。あんな馬は、私の人生で他に見たことがない」
そう絶賛していた。
フォンクというのは、当時、アイルランド産まれ、当時フランスで活躍していた、3歳馬で、リヒトホーフェンのライバルと目されていた馬だ。
そして、圭介自身も思い出していた。
20数年前のあの熱狂を。
当時、圭介はまだ22歳の大学生。
あの宝くじで1億円を当てて、馬主になることを決め、忍従の4年間を過ごしていた時だ。
日本馬として、何度目かになる凱旋門賞の出走。
しかし、この時の雰囲気は明らかに違っていた。
人気では、1番人気を2.5倍のフォンクに譲って、4.6倍の2番人気だった、リヒトホーフェンだったが、現地では、評判が高く「リヒトホーフェン対フォンク」の一騎打ちだとみなされていた。
実際、この時の日本の報道も過熱しており、まだインターネットが現在ほど普及していない当時、深夜特別番組まで編成し、「日本馬として史上初の凱旋門賞制覇なるか」、と異常なほどの盛り上がりを見せていた。
圭介ももちろん、深夜に生放送を見ていた。
そして、
「リヒトホーフェン来た! リヒトホーフェン、強い! 凱旋門賞は目の前だ!」
日本人のアナウンサーが、レースに合わせて叫んでいた。
もちろん、現地でも報道され、現地アナウンサーがリヒトホーフェンと叫んでいた。
凱旋門賞の最後の直線、残り400m付近。リヒトホーフェンは後続に2馬身もつけていた。
(勝った!)
誰もが思った、瞬間。
ゴールまで残りたったの50m付近で、外から来たフォンクに抜かれ、わずか半馬身の差で、2着。
日本の夢は潰えたが、現地では拍手喝采で、
「チャンピオンが2頭いた」
と言われたという。
それほどまでに、すごい馬だったのが、リヒトホーフェンという馬だった。
つまり、大馬主でもあるクレマンの脳裏にも、日本での最強馬、リヒトホーフェンのことが残っていたのだ。
圭介は聞きにくいことだとは思いつつも、彼に尋ねてみた。
「では、リヒトホーフェンと比べてエルドールは、どうでしょうか?」
それに対し、初老の男、クレマンは視線を遠くの空に向けて、静かに語るのだった。
「今回、ヨーロッパの有力馬が出走を回避している。だから、勝ち目はある」
と。
圭介にとって、それは微妙にも思える回答に思えた。
何しろ、
「有力馬が出ていないから、勝ち目がある」
ということになるからだ。
裏を返せば、
「有力馬が出ていれば、勝てない」
ということになる。
事実、この年の凱旋門賞では、ヨーロッパが誇る世界的な名馬の何頭かが、様々な理由から凱旋門賞の出走を回避していた。
有力と言われていたのは、イギリス2000ギニー、イギリスダービー、アイルランドダービーを制し、勢いに乗っていた、イギリス産、アイルランド調教馬のスコフィールドという馬だった。
凱旋門賞まで、残り2週間あまり。
決戦が始まろうとしていた。