第16話 復活の王者
話が前後するが、同年3月。
阪神競馬場で行われた、阪神大賞典(GⅡ)。
昨年末の有馬記念を制し、4歳になったエルドールがここに出走。しかし、惜しくも2着に終わる。
陣営は、彼を天皇賞(春)に進める。
そして、その天皇賞(春)にて。
2021年5月2日(日) 京都競馬場 11R 天皇賞(春)(GⅠ)(芝・右・3200m)、天気:曇り、馬場:良
北海道からは遠隔地の京都とはいえ、子安圭介はさすがに期待している、彼を見に京都へと向かった。
お供をするのは、今回は妻の美里と、長女の明日香であり、美織は代わりに圭介の次女と三女の世話をお願いされており、留守番。
そこで、明日香はどうにもいつもと違い、表情が冴えなかった。
そのことが気になった、父親の圭介は、
「どうした、明日香?」
どこか体調でも悪いのか、と心配になって声をかけていたが。
「うん……」
彼女の様子は、彼の予想とは違っていた。
「エルドールなんだけど、どうもね……」
「何だ?」
「阪神大賞典で、外埒ギリギリの所まで逸走したでしょ」
「ああ」
実は明日香の言う通り、前走の阪神大賞典の第3コーナーで、エルドールは大きく逸走し、つまりコースから外れて、ズルズルと後退。第4コーナーから捲って上がり、最終的には2着に入ったが。
その逸走が問題となり、天皇賞(春)の追い切りで、平地調教再審査が行われた。
結果的には問題なかったが、GⅠを制するような馬で、この平地調教再審査が行われること自体が非常に珍しい。
「エルドールは、ちょっとわがままなところがあるから、折り合いがつかないと勝てない気がする」
圭介と美里は、小学生とは思えないほどの、予想をする娘の慧眼に顔を見合わせていた。
結果的にはその明日香の予言通りになり、1.4倍の圧倒的1番人気に推されていたにも関わらず、エルドールは、このレースでなんと11着に沈んでいた。
とても1番人気とは思えない着順に、競馬場の観客からは、
「何、やってんだ、岩永!」
「エルドール、しっかりしろ!」
口さがないファンからヤジが飛んでいる有様だった。
そして、迎えた宝塚記念。
実は陣営は、この宝塚記念の結果次第では、欧州遠征も考えていた。
2021年6月27日(日) 阪神競馬場 11R 宝塚記念(GⅠ)(芝・右・2200m)、天気:晴れ、馬場:良
このレース、有馬記念同様にファン投票によって選出された馬が選ばれる、グランプリレースであり、エルドールは7万票以上を集め、1位に選出された。
単勝3.2倍の1番人気で、6枠12番に入る。
一方、去年クラシック戦線で競い合った、山寺久志所有のオリファントが単勝3番人気で、7.9倍。1枠1番に入っていた。
阪神競馬場・芝2200mは、この「宝塚記念」で使用されることで有名だが、外回り4コーナー出口からスタートする。3~4コーナーは内回りコースを使用。1コーナーまでの距離が525mと長く、スタートが下り坂ということで前半は速いラップになりやすい。ただし、向正面からはペースが落ち着き、全体を通してはゆったりとした流れになる。前が快調に飛ばすと隊列は縦長になりやすい。
内回りのため、瞬発力よりも長くいい脚を使う持続力勝負と言われる。つまり、スピードの出る前半でタメて、後半で前の馬よりもさらに長い脚を使うことが要求されるという意味で、差し馬は展開が不利。
かと言って、後方一気もほとんど決まらず、スピードを持続できる先行馬が有利とされる。ただし、宝塚記念は例年、ハイペースになることが多く、ラップが速くなるのが特徴。
そのレースが始まる前。
今回も、天皇賞(春)同様に、圭介は妻の美里と、長女の明日香を連れて、阪神競馬場に駆け付けた。
圭介の妻、美里が思い出したように、夫の圭介に問いかけた。
「あなた、覚えてる?」
と。
「何を?」
「あなたが私にプロポーズした時、私が言ったこと」
「ああ。すべてのGⅠを獲れってことだろ? 滅茶苦茶だな、お前」
その一言に、美里は微笑んだ。夫が一応は覚えていてくれたことに安堵したのだろう。
「プロポーズ後に、あなたの所有馬が勝ったGⅠレースは、有馬記念、安田記念、マイルチャンピオンシップ、スプリンターズステークス、高松宮記念の5つ。さらに当時と違って、今は大阪杯とホープフルステークスもGⅠになったから、まだまだあるわね」
そんなことをいちいち覚えている妻に、圭介は面食らっていたが、平静を装って答えていた。
「まあな。一生かかるかもしれんな」
「それに、凱旋門賞もブリーダーズカップもあるからね」
「相変わらず滅茶苦茶だな」
と、迷惑そうに言いながらも、圭介は笑顔だった。
それを見て、美里も明日香も、落ち着いたように微笑を浮かべていた。
特徴的な、宝塚記念だけのファンファーレの後、レースが始まる。
「スタートしました」
エルドールは、五分のスタートを決めると、大外から勢いよく飛ばしていった10番人気の馬が1000メートル通過58秒6のハイペースで引っ張る展開の中、後方の大体5番手付近に待機する作戦を取っていた。
「エルドールは、中盤ポツンと追走です」
と、アナウンサーが告げていた。
ちなみに、この日も鞍上はエルドールに慣れている岩永騎手だった。阪神大賞典で見せた気の悪さも影を潜め、エルドールがは岩永の手綱に反応良く歩を進めていたように圭介には映っていた。
向正面では、山寺所有のライバル、オリファントとぴったりと並走するように並んでいた。
そして、迎えた第3コーナー。余力を残していた他のライバルたちが捲って上がっていくのとは対照的に、エルドールは第4コーナーでは後方4番手あたりまで位置取りを下げていた。
しかし、ここで岩永が進路を内に取り、馬群の前が開けたとみるや、手綱を動かして勢い良くスパート。
直線入口では先頭を射程圏内に捉えるほどの一気の追い上げを見せた。エルドールは荒れた馬場をものともせず鞍上の岩永の右鞭に応えていた。
そして、
「200を切りました。さあ、エルドールが先頭に代わるか」
残り約150メートルで先頭に立つと、
「先頭は、12番のエルドールだ!」
「エルドール、復活のゴールイン!」
追いすがる2番手以下を2馬身ほど引き離して、悠々と1着になっていた。
これで、圭介たち子安ファームとエルドールは、有馬記念に続き、宝塚記念も制して、春秋グランプリ制覇を達成。
大歓声が上がる、阪神競馬場。
満足げにそこを後にした圭介たち。
北海道に戻ると、陣営、つまり沢城厩舎から連絡が来た。
「エルドールは、本当にすごい馬です。せっかくなので、凱旋門賞を目指したいと思っています」
と、いきなり言われ、圭介は面食らっていたが、電話口で、迷わずに答えていた。
「よろしくお願いします」
と。
同時に、昨年末に香港で出逢った、アニエス・大原のことを思い出していた。
男というのはいくつになっても、美人に弱い。美人と知り合えるだけで嬉しい物で、それが表情に出ていたらしい。
「あなた、何を考えてるの?」
妻に鋭い目つきを向けられていた。
(妙なところで鋭い)
圭介は、驚きつつも、
「いや、エルドールは、凱旋門賞を目指すってさ」
何とか誤魔化していた。
「本当? それはすごいわね」
美里は喜び、明日香は、
「私も行きたい、フランス!」
と父にせがむ有様。
それを何とかなだめつつ、圭介は、プランについて、一人考えていた。
(恐らく前哨戦からだろうな)
と。
かつて、20年以上も前。
日本で調教された、アメリカ産まれの馬がいた。
芝でもダートでも驚異的な強さを発揮したが、当時はまだ外国産馬が日本のクラシック戦線に参戦することができなかった。
その馬は、デビューから毎日王冠を除き、すべてのレースを1着、それも圧倒的な強さで制して、4歳の春からフランスに遠征。
サンクルー大賞、フォワ賞を制して、凱旋門賞に挑んだ。
結果は、惜しくも2着。
それ以降、数多くの日本馬が凱旋門賞に挑み、敗れてきたが、彼が日本馬の最高記録を持っていた。
その馬の名を「リヒトホーフェン」と言った。
今、リヒトホーフェンに続き、エルドールが世界の最高峰へと挑むルートが出来たのだった。