第15話 わがまま女王の誕生
2021年春。
その年もまた子安ファームに多くの仔馬が産まれたが。
その中で、最も特徴的な、ある1頭の牝馬が話題になった。
父は、アメリカでそこそこ活躍した種牡馬、母はほとんど無名の日本の繁殖牝馬。母の父は、凱旋門賞を制した名馬だったが、血統としてはそれほどよくはなく、馬産地からの期待値も低かった。
ただ、牧場長の結城真尋、厩務員の結城亨、相馬美織が口を揃えて言ったのは、
「わがままだ」
ということだった。
ところが実は、牧場スタッフからの評価は高く、将来性はあると期待されていた牝馬でもあったが、性格的な面で難が多かった。
厩務員の相馬美織は、彼女をこう評していた。
「自分が一番じゃないと気が済まないタイプです」
同じく、厩務員の結城亨は、
「馬房から出ることも、走ることも嫌います」
と、その気性を現していた。
そして、牧場長の結城真尋曰く。
「とにかくわがままな女王様だね」
そんなわけで、非常に気性難で、牧場スタッフをことごとく悩ませる女王様気質の彼女。
しかし、そんな彼女に対しても、堂々と対応しようとしていたのが、娘の明日香だった。
「お前。怖くないのか?」
圭介が一度聞いたことがある。
明日香は気性難のこの牝馬に対しても、臆することなく接していたからだ。親としては逆に娘のことが心配になってしまう。
「全然。あの仔、わがままだけど、可愛い仔だよ」
あっけらかんとして、答える明日香。圭介は我が子ながら、肝が据わっていると思うのだった。
明日香が言う「可愛い仔」の真意が、圭介にはさっぱりわからなかった。
そんな牝馬に対し、圭介はせめて名前くらいは、穏やかな名前にしてあげたいと悩み、つけた名前が、
「ミヤムラスイート」
だった。
「何、そのお菓子みたいな名前」
妻の美里は不服そうだったが、
「スイーツじゃない。スイートだ。せめて甘い名前にしたかった」
「安直ね」
説明する夫に、妻は溜め息を突いていた。
しかし、明日香は、
「可愛い名前だね」
とご満悦だった。
その幼い、産まれたばかりの「わがまま女王」を、ある日、彼女たちが見に来たことがあった。
それは非常に珍しい組み合わせだった。
「面白い牝馬が産まれたって、聞いて来たよ」
いつもかぶっている馬のデフォルメイラストの帽子をかぶって、坂本美雪が現れたのには別に驚かなかった圭介だが。
「こ、こんにちは」
いきなり彼女に従って現れたのが、かつて一度競馬場で会った、バレットの大塚すみれだったことには、驚きを隠せず、目を丸くしていた。
「え、大塚さん。どうして美雪さんと?」
「ああ、私たち。一応、知り合いなの」
「何で? いや、どこで知り合ったんですか?」
「私の父と美雪さんが古い友人らしくて」
大塚すみれが説明する。
何と言うか、世間は狭いというか、不思議な組み合わせだった。
そして、彼女たちを、名付けたばかりの「ミヤムラスイート」がいる馬房へ案内する。
早速、彼女たちが近づいただけで警戒して、前足を振り上げて、キックするように威嚇してきた、幼駒を見て、美雪はケタケタと笑っていた。
「あははは。元気のいい仔だなあ」
と。
一方、バレットとして普段からよく競走馬に接している、大塚すみれは、少し離れた位置から彼女を観察していた。
「どう思います?」
じっくりと考えるように、鹿毛の牝馬を見つめる彼女に圭介は尋ねる。
すると、
「そうですね。気性難なのは間違いないでしょうけど、鍛えればいいレースをするかもしれません」
さすがに明言は避けていた。
「そうかな。何だか心配なんだけど」
圭介が素直な感情を吐露すると、遠くで作業をしていた、牧場長の結城真尋が、ゆっくりと近づいてきた。
そして、馬房に入っているミヤムラスイートを一瞥して、一言。
「わがまま女王様は、ゲート入りも苦戦しそうだなあ」
その場にいた、全員が苦笑していた。
その希代の「わがまま女王」。後に子安ファームのメンバーや厩舎、競馬関係者を散々悩ませることになるが、それはまた別の話になる。
とにかく、子安ファームでは彼女のことを「ミヤムラスイート」ではなく、「わがまま女王」と呼んでいた。
そして、実は同時期に、とある牧場では、後に競馬界を席巻する、歴史的な牡馬が産まれていた。
競走馬にしては、小柄な体の、少々頼りないと思われるくらいの馬で、ファイアフライと同じく、鹿毛の牡。
ところが、それを見た女が、感嘆したように呟いた。
「これは……。随分、人懐こい馬ですね」
産まれたばかりの幼駒は、大抵、人間を警戒し、母馬に懐くが、彼は最初から人に懐いていた。
おとなしくて、優しくて、人間が好き。
競走馬にはよくある、自分が人間よりも上の立場だということを誇示したがるような、他の馬と違って、彼は人間と対等の立場で接してくるのだ。
そんな彼を彼女たち、長沢牧場のメンバーたちも可愛がるのだった。
50歳を迎え、自らの衰えを感じながらも、長沢春子は、性格的には「丸く」なっていた。かつてのような、激しい闘争心を前面に現すことはなかった。これには、実は離婚したことで、吹っ切れたという事情もあったのだが、圭介たちは知る由もなかった。
彼女自身、彼には大いなる期待を抱き、早々に自ら命名した。
「父は、大種牡馬のヴィッカース、母は、アイルランド産まれ、イギリスの調教馬、ベルデハ。この仔は、デアフリンガーと名付けます」
そして、このデアフリンガーと、ファイアフライが、後に歴史を作っていくことになる。