第11話 明日香の目と快速少女
話は同年夏にさかのぼる。
2020年夏。
子安ファーム期待の牡馬がデビューする。
バルクホルンだった。
2020年7月26日(日) 新潟競馬場 6R 新馬戦(芝・左・1400m)、天気:曇り、馬場:良
圭介たちは、見に行くことはなかったが、執務室で圭介、明日香、そして相馬美織がネットのレース中継を見ていた。
しかし、3番人気に推されていたバルクホルンは、レースではあっさり敗北。4着だった。
かろうじて掲示板入りを果たしたものの、そのレース内容からも決して強さは感じられない。
そんな淡々としたレースだった。
ところが、長女の明日香の目は違っていた。
「パパ」
「ん?」
「この仔は、ダートの方が走ると思うよ。あと、距離はもうちょっと長い方がいいかな」
(相変わらず、何でそんなことがわかるんだ?)
と、我が娘ながら圭介は不思議に思うのだが、実は圭介はほとんど知らなかったが、彼女、明日香は幼いながらも、いや幼い故の学習能力があったため、よく坂本美雪から競馬について教わっていたのだ。
つまり、彼女の「相馬眼」の源は、坂本美雪の目ということになる。それに自分の独自の目、つまり考えも養いつつあった。
圭介にとっては、いちいち美雪に聞くよりも、明日香に聞いた方が便利かもしれない、というメリットはあったが、その目が正しいかどうかは、もちろんまだ未知数だった。
そして、同時期。1頭の牝馬が、地方戦線を賑わせていた。
デビュー2戦目のダートを制した後、どうにもパッとしない成績で、オープンクラスに上がってからはなかなか勝てずにいた、アスカチャン。この年、4歳になっていた。
7月の函館スプリントステークス(GⅢ)、そして8月のキーンランドカップ(GⅢ)を制していた。
さらにその前の、4月の阪神牝馬ステークス(GⅡ)も制していたので、これで一気に重賞3連勝となり、さらにキーンランドカップを制したことで、秋のスプリント頂上決戦、GⅠ、スプリンターズステークスの出走が決まっていた。
これまで、圭介たちの所有馬で、マイル戦線に強い馬はいたが、これほどスプリント戦線で活躍する馬はいなかった。
そのキーンランドカップを見に、札幌競馬場に、明日香を連れて、圭介が行った時のこと。
2020年8月30日(日) 札幌競馬場 11R キーンランドカップ(GⅢ)(芝・右・1200m)、天気:小雨、馬場:重
小雨が降るあいにくの天気だったが、熱心に視線を送る、自分と同じ名前の牝馬に、もちろん彼女は自身を重ねるように、凝視していた。
このレースで、アスカチャンは1.8倍の圧倒的1番人気に推されていた。
そして、ゴール前。
「アスカチャン、抜けた。アスカチャンか、ゴールイン!」
見事にレースを制していた。
それを見て、明日香は目を輝かせていた。
「パパ、見た? アスカチャン、女の子なのにすごいね」
「ああ。スプリンターズステークスでも期待できそうだ」
「うん!」
明日香が弾けるような、眩しい笑顔を見せていた。
そして、その時はやって来た。
2020年10月4日(日) 中山競馬場 11R スプリンターズステークス(GⅠ)(芝・右・1200m)、天気:曇り、馬場:良
アスカチャンは、このレースで単勝11.8倍の3番人気。5枠10番に入っていた。鞍上は、クラシック戦線でエルドールに騎乗している岩永祐二騎手が務めた。
1番人気は、海外からの参加馬で、ロケットボーイ。単勝1.5倍の圧倒的1番人気だった。3枠5番に入る。
このロケットボーイ。シンガポールの馬で、海外の短距離走を総なめにしたという、短距離王者でもあった。騙馬(=去勢された牡馬)の6歳だった。
そのため、アスカチャンの前評判はそれほど高いものではなかった。ただ、馬体は大きく馬体重が485キロもあり、ほとんど牡馬と変わらないサイズだった。
圭介は、今回も明日香と美織を連れて、中山競馬場に向かった。妻の美里は、育児が忙しいらしく、今回も不参加だった。
その中山競馬場で、彼らは意外な人物と再会する。
「あら、子安さん」
「長沢さん……」
長沢春子。
かつて、子安ファームがまだ小さい頃、繁殖牝馬を譲ってもらったり、お金を貸してもらったり、しかしその裏では子安ファームを目の敵にしていた、あの腹黒い長沢春子。
しかし、彼女もまた50歳を迎え、以前よりも柔らかく、丸くなるような印象を与える女性になっていた。
「お久しぶりです。どうしたんですか? このレースに長沢牧場の馬は出ていなかったはずですが」
出走表が載っている新聞を見ながら、圭介は怪訝な、警戒するような目を向けたが、長沢は笑顔だった。
「ええ、確かに出ていません。ですが、あなたの馬、アスカチャンが出ているでしょう。それにロケットボーイも見たかったので」
その答えに、圭介は尚も警戒しながら、
「そうですか」
と適当に頷いていたが、明日香の目は、子供故に純粋に真実を見抜いていた。
「あのね。私も明日香って言うの」
無邪気に声を出した、彼女。
長沢は、わざわざしゃがんで、彼女に目線を合わせてほほ笑んだ。
「あら、そうなの? あなたが明日香ちゃん? はじめまして、長沢春子です」
実は、だいぶ前、圭介は明日香が産まれた時。一応、義理から長沢春子に年賀状も送って、報告していたのだが、圭介自身はほとんど忘れていた。
もっとも、その後、一度も会いに行ってはいなかったし、明日香を連れて行ったこともなかったから、実は二人は初対面だった。
明日香を、優しい目で見つめながらも、長沢は何かに気づいたかのように、圭介に視線を送った。
「なるほどね。それでアスカチャンですか。いい名前ですね。期待してます」
そう告げて、彼女は去って行った。
残された彼ら3人。
明日香は、
「長沢さん。また会いたいなあ」
などと無邪気に言っていたが、圭介には長沢の腹の底はまだ見えていなかった。というよりも必要以上に警戒していた。
中山競馬場、芝・1200mは、外回りの向正面に入った坂の頂上部分からスタートする。最初のコーナーまでの距離は275mと短いが、3コーナーのカーブが緩く、ゴール前の坂の下までおよそ4.5mを一気に下っていく。
最後の直線はローカル場並の310mと短く、最後に中山名物の急勾配の坂が待ち受ける。直線が短いため基本は先行馬有利だが、オーバーペースで先行した馬はこの急坂で脚が止まり、差し馬の餌食となると言われる。
そして、ファンファーレの後、レースが始まる。
スプリンターズステークスは、春に行われる同じく短距離の高松宮記念と合わせて、国内スプリントの頂点を決める決戦と言える。
距離が1200mと短く、高松宮記念同様に「電撃の6ハロン(1ハロン=200m)」とも称される。
つまり、人間の陸上競技で言えば、100mか200mの短距離走に近い感覚だ。
勝負は一瞬で決まると言っていい。
(さあ、アスカチャンがGⅠウィナーになれるかどうか)
圭介は内心、案じていた。
相手が世界的な短距離王者でもある、ロケットボーイだけに圭介は内心では不安な気持ちの方が大きかった。
ただ、競走馬にとって、「GⅠを勝つ」かどうかで、その後の人生、いや馬生が左右される。牡馬なら種牡馬、牝馬なら繫殖牝馬として、GⅠを勝っていれば、それだけ価値が上がる。
「スタートしました」
アスカチャンは、やや後方気味にスタートしていた。
最初から嫌な展開だと圭介は内心、思っていたが。
ところが、最終コーナーを回った、直線。
馬群の中から、抜けてきたのは、アスカチャンだった。
「アスカチャン、アスカチャンが追い込んでくる。残り200mを通過した」
実況の声が次第に興奮気味に上ずってくる。
「ロケットボーイは、馬群の中だ」
見ると、1番人気の海外馬、ロケットボーイは文字通り、馬群の中に沈んでいた。
「アスカチャンだ、ゴールイン!」
そして、堂々と、アスカチャンが先頭でゴールインしていた。芦毛の綺麗な馬体がゴールゲートを先頭で通過する。しかも2番手に1馬身半も差をつけ、上がり3ハロンは33.6秒を計測していた。
喜びの声に満ち溢れる、圭介たち子安ファーム陣営。
特に明日香は、
「アスカチャン、おめでとう!」
自分のことのように、大喜びだった。
(こいつは、想像以上に強いな。海外も行けるかも)
圭介は、密かに思っていた。
つまり、「いずれ強い馬が出てこれば、海外のレースに参戦したい」と。
その先にあるのは、もちろん世界最高峰のレース、フランスの凱旋門賞だったが、いきなり凱旋門賞は無理がある。
その前に、別の海外のレースで「慣らして」おきたいという思惑があり、このアスカチャンを試験的に使うことも視野に入れ始めていた。
アスカチャン。4歳牝馬として、GⅠ、スプリンターズステークスを見事に制した。
SNSでは、彼女のことが話題に上り、トレンドに「快速少女」という項目が上がっていた。あだ名は「快速少女」。今、快速少女が覚醒した。