第9話 影は静かに歩いてくる
翌朝、アメリアは珍しく早く目を覚ました。
窓を開けると、祭りの後の町はひっそりとしていて、まるで何か大きな夢が過ぎ去ったあとのようだった。
通りには、紙吹雪の名残がところどころに舞い、屋台の骨組みがまだ片づけられずに残されていた。
けれどその静けさが嫌ではなかった。
むしろ、何もない朝がこんなにも穏やかに感じるのは、この町で過ごすうちに少しずつ感覚が変わってきた証かもしれない。
「おはよう」
食堂に降りると、女主人がすでにパンを焼いていた。
バターと麦の香りがふわりと広がる。
「早いじゃないの。昨夜はよく眠れた?」
「ええ。とても」
パンの焼き色と同じように、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
昨夜の静かな時間、誰にも邪魔されず、誰にも追われず、ただ安心して眠れたことが、アメリアにとってどれだけ大きなことか。
「今日ね、ひとりお客が来る予定なの。ちょっと変わり者だけど、悪い人じゃないから安心して」
そう言われた時は、ただの雑談のひとつだと思っていた。
けれどその“お客”が、のちに思わぬ波紋をもたらす存在になるとは、アメリアはまだ知らなかった。
昼を過ぎたころ、宿の扉がゆっくりと開いた。
軋む音に反応して顔を上げると、そこにはひとりの女が立っていた。
長い黒髪に旅塵をまとい、着こなしは上品なのに、どこか警戒を解かない雰囲気を纏っていた。
「こんにちは。……部屋、空いていますか?」
言葉遣いは丁寧だったが、声の奥に何か硬さがあった。
女主人は顔を上げ、目を細めて応じた。
「空いてるわよ。……ミレーナさん、だったかしら?」
「ええ、以前も一度、お世話になりました。覚えてくださってて光栄です」
そのやり取りを、アメリアは食堂の隅で聞いていた。
ミレーナ――聞き覚えのない名。けれど、その態度や所作のひとつひとつが、どこか王都の人間に近いものを感じさせた。
ミレーナは軽く会釈をして部屋へと消えていったが、その背中が妙に気にかかった。
まるで、誰かの動きを伺いながら歩く人のように、視線の置き方に無理がある。
「ちょっと変わってるのよ。旅の商人って言ってたけど、あたしには剣の臭いがするっていうか……」
女主人がそう言って、焼き菓子をトレイに並べながら肩をすくめた。
「剣……?」
「うん。口には出さないけど、何か“生き残ってきた人”って感じ。ああいう人は、自分から話したがらないのよね」
アメリアは頷きながらも、言葉の奥にわずかな警戒を抱いた。
剣の臭い。生き残ってきた人。
それは、自分が知っている種類の人間と、どこかで重なっていた。
夕暮れが近づくと、アメリアは町の外れの小道へ散歩に出た。
石畳を踏む足音が小さく響き、誰もいない丘の上に立つと、風が裾を揺らした。
日差しは斜めから差し込んで、草の先を金色に染めている。
こんな何でもない時間が、今の自分にはとても贅沢に感じられた。
──だからこそ、あの気配にはすぐに気づいた。
振り向くと、少し離れた場所にミレーナがいた。
いつからそこにいたのか、どこを見ているのかも分からない。ただ、その存在が静かに空気を裂いていた。
「……景色、見に?」
アメリアが声をかけると、ミレーナは少しだけ顔を向けた。
その目には笑みも敵意もなかった。ただ、何かを量るような、重さだけが宿っていた。
「……ええ。久しぶりに、まともな夕暮れを見た気がして」
そう言って視線を戻す。
「でもこの町、思ってたよりも静かで……少し、退屈ね」
「退屈が、ちょうどいいと思えるようになったところです」
アメリアが返すと、ミレーナは「ふうん」とだけ呟いた。
それ以上会話は続かなかった。けれど、何かがそこに“始まりかけている”気配だけはあった。
ふたりは並ぶでもなく、離れるでもなく、風の中に立っていた。
やがて、ミレーナが踵を返す。
その足取りはしなやかで、けれど獣のように音を立てなかった。
アメリアは背中を見送りながら、胸の奥に小さなひっかかりを覚えていた。
──何かが動き出している。けれどそれはまだ、形を持っていない。
丘の上、風だけが事実のように吹いていた。




